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真人⑧

***  言い渋る両親から話を聞き出した後、真人は電車やタクシーを使い、真っ先に亮治のアパートへと向かった。  今日もあの夜と同じように、雨が降っていた。まだ日が落ちる時間でもないというのに、雨粒で濡れたタクシーの窓から見上げた空は、どんよりとした灰色に覆われていて暗い。  アパートの前でタクシーから降り、粒が大きくなってきた雨の中、真人はあの日以来となる部屋のドア前に立つ。インターホンを押したが、中から亮治が出てくる様子はなかった。いないのかと思い、ドア横にある格子窓に視線を移す。すると、窓は二センチほど開いていた。  瞬間、その隙間からある声を拾った。はっきりとは聞こえない。もしかしたら、空耳かもしれない。  ――ァ、ん……っ。  今度ははっきりと聞こえ、真人は全身が強張るのを感じた。亮治の声ではなかった。女ほど甲高くはないが、甘さを帯びたその声に、真人の耳が熱くなる。馴染みのない声だけど、それはまぎれもなく男のものだったからだ。  嬌声が窓の外にまで聞こえてくるたび、それを駐輪場の屋根に落ちる雨音が、かき消そうとする。  きっと雨が降っていなければ、声の主はここまで大きな声を出さないだろう。いや、亮治が出させない気がする。雨は人を大胆にさせてしまう。兄がそんなことまで知っているなんて、真人は知らなかった。  亮治は中にいる。中で男とセックスをしている。再び「アッ」と甘い声が耳に入った時、真人は無意識にバンッとドアを拳で叩いていた。  どうしてそんなことをしたのかはわからない。ただ、これ以上聞きたくないと思ったのだ。真人は「亮治」と呼んで、ドンドンとドアを叩く。 「亮治いるんだろっ? 開けてくれ」  だが返事はない。当然、ドアが開くこともない。  パタン、と音がしたので格子窓を見ると、さっきまで少し開いていた窓が閉められていた。亮治が閉めたのか、相手の男が閉めたのか。  どっちにしろ、不思議と怒りは沸かなかった。いや少しは沸いたのかもしれない。だが、それ以上にショックだった。  それからしばらくの間、雨のおかげもあって外に声が漏れることはなかった。真人は近くのスーパーでビニール傘を買ってきて、アパートの前で待つことにした。  濡れていく自分のズボンの裾を見つめながら、両親から聞いたことを反芻する。  実家に見知らぬ男が現れたのは二週間前だと、父は言った。顔はともかく、背恰好が真人に似ていたらしく、父は一瞬真人が帰ってきたと錯覚を覚えるほどだったという。   男は物腰の柔らかい好青年で、亮治の友達だと言い、庭仕事の最中だった父に向かっていきなり挨拶してきたらしい。父がおかしいと感じたのは、「亮治さんと連絡がとれなくて……」と青年が急に泣き出したからだった。 「初めは詐欺かなんかだと思ったよ。でもな、亮治に電話して『本当におまえの友達か?』と訊くだろう。そうすると私らの電話を切った後にだな、本当にその男の携帯に亮治から電話がいったんだ」  かかってきた亮治の電話を取るなり、男は自分のスマホを握りしめて、こう叫んだそうだ。  ――亮治がいないと、おれ死んじゃうよ……っ。  男が帰った後、両親そろって亮治を呼びつけ、事情を聞こうとした。だが亮治は口をつぐんだまま、一切事情を説明しようとはしなかった。まるで、離婚した時と同じように。 「黙ったまま逃げる男は、最低だ」  昔気質の父は、怒りをこめて亮治をそう批判した。「なにか事情があるのよ」と母が亮治を擁護しても、父は「だったらその事情を説明すればいいじゃないか」と長靴を乱暴に脱ぎ捨てた。  真人も父の意見に賛成だった。亮治の事情は、親にこそ知られたくないものだろう。だからこそ、嘘でもいいから説明するべきだと思う。  説明してから逃げればいい。そうじゃないと、周りにいる人間は宙に吊るされたままだ。同じ苦痛なら、真実を話してもらいたい。怪我をしてでも、地面に下ろしてもらった方がまだいい――。  だけど、と真人は思う。それは以前までの考えだ。今は微妙に違う。父が事実を知ったら、真人以上に亮治を責めることだろう。父は亮治に厳しいところがある。亮治が藤峰家を追い出されることだって、ありうるのだ。  その時自分は、どうするのだろう。  真人は傘を差しながら、桃の入った紙袋を見つめる。両親から話を聞いて、真人は居ても立っても居られなくなった。無性に腹が立ったのだ。 『自分に似てる男と寝るなんて気持ち悪い』 『両親に心配をかけるな』 『男遊びもほどほどにしろ』  どれも言いたいことなのに、どれもが違うような気もする。  

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