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真人⑧

 夜になり、外灯がちらほらと点きはじめた。雨足がさらに強くなってくる。ようやく亮治の部屋のドアが開いたのは、午後七時半。真人が待ち始めてから、約三時間が経っていた。  さすがに真人がこの雨の中、ずっと待っているとは思わなかったのだろう。ドアを開けた亮治は、真人を見つけるなり、ドアノブを握ったまま、一瞬動きを止めた。  亮治の後ろから出てきた若い男も、階段の下からじっと視線を送る真人に気づいたようだ。「だれ?」と亮治を見上げて訊いた。  大学生くらいだろうか。この男も細身で、脱いだら筋肉よりも浮き出たあばら骨に目がいくような、ナヨッとした体の持ち主なのだろう。撫で肩ではないけれど、男にしては薄すぎる胸元。スラッとした首の下には、形のいい鎖骨が見えている。身長はおそらく百七十三センチというところか。  真人は思わず吹き出しそうになった。ここまで自分の体に似ている相手を探すのも、なかなか大変だっただろう。  若い男は「オレ帰るね」と言い残し、雨の中を傘も差さずに飛び出す。そんな相手の背中に向かって、亮治も「また連絡する」と返した。  二人のやりとりを冷静に観察している自分が、不思議だった。格子窓の隙間から漏れる情事の声を聞いた時は、あんなに腹が立ったのに。  男が帰り、真人は亮治に向き直った。 「実家に来た男って、あの子のこと?」 「……いや違う。ていうか、聞いたのか」  真人は「べつに聞きたくなかったけどね」と言って、桃の入った紙袋を亮治に突きつける。 「これ、母さんから」 「え……ああ、サンキュ」 「じゃあ、僕はこれで」 「ちょっ、待てって。まさか、これだけのためにずっと待ってたわけじゃないよな……?」 「……さあね」 「その……悪かったよ。父さん達にも、もちろんおまえにも……。散らかってるけどさ、よかったらコレ食っていかないか? 桃ならおまえも食べれるだろ」  真人は冷めた目で兄を見つめて言った。 「本気で言ってる?」  亮治は、あ、というように紙袋を下げた。亮治の眉間のしわが、ぽこりと盛り上がる。子どもの頃からの、泣くのをこらえている時に出るそれ。  亮治のそれを、真人はよく触っていたものだ。喧嘩で負けたり父に叱られたりと、昔の亮治はすぐに悔し涙を流す子どもでもあった。ただの泣き虫とは違う。今思えば、自分の力が及ばない時に、亮治はそうやって眉間を盛り上げさせて泣いていた。  当時の真人は、亮治が何に悔しがっているのかなんて、知りもしなかった。興味がなかったからだ。それよりも、あまりにもぽっこりと盛り上がるそこには、何が入っているのだろうといつも気になっていた。  最初は「触んなよ」と不機嫌だった亮治も、あまりにも真人がずっと触り続けるから、次第にバカらしくなって笑いだしていたっけ。  ふと懐かしい気持ちになる。真人は傘の下で、無意識に腕を伸ばした。つん、と指で亮治の眉間部分を突っつく。 「……え?」 「……」 「ま、真人……?」  亮治の声で、真人はハッと我に返った。何をやっているんだ自分は。「なんでもない」と指をどけようとすると、亮治の両手に手を包みこまれた。ぐっと脂の浮いた額に、手を押しつけられる。  向こうから触れてきたのは、あの夜以来だ。だが、不思議と不快には感じなかった。可哀想な男だと憐れむ気持ちも変わらない。  だけど。  レイプまがいのことをされても、男との交わりを匂わされても……真人は亮治を嫌いになれない自分をはっきりと自覚する。  大人になった亮治は、怒りもしなければ笑いもしなかった。ただ、真人の手にすがりつきながら、肩を震わせて静かに泣いていた。

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