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真人⑫

 駅で高坂と別れ、溝口と二人で向かったのは駅前にあるチェーンのカフェだった。土曜日の夕方ということもあって席は満席に近い状態である。  空いているのは午前中だけ喫煙席という奥の席のみだった。煙草のヤニが染みついた壁からは、コーヒーと煙草の混じったにおいがする。  向かいあった状態で溝口と二人用のテーブル席に座ると、溝口がおもむろに腰ポケットから煙草の箱を取り出してテーブルに置いた。こんな虫も殺せなさそうな優男でも、煙草を吸うのか。そんなことを思いつつ、「この時間は禁煙みたいですよ」と言うと、溝口は気まずそうに笑った。 「恥ずかしい話なんですけど、いつでも目に触れておきたいというか……」 「……」 「昔は煙草なんて、臭いだけだと思ってたのにな」  でも……と続けると、溝口はきゅっと口を結び、声を詰まらせる。そして形の歪んだ煙草の箱を指で優しく撫でた。真人には、その手つきが懐かしむように見えた。 「今日は無理を言って、B組のクラス会に参加させてもらったんです。藤峰君に会いたいというか、聞きたいことがあって」 「兄のことですよね」  真人は少しイライラしながら言った。早く本題にいってほしかったからだ。  それから、男の手許にある煙草の箱。真人は男がそれをテーブルに置いた瞬間にわかった。あれは亮治の学生時代から吸っていた銘柄だ。ミリ数はそんなに高くはないが、他の銘柄よりマイナーらしく、真人は吸っている人を亮治以外にほとんど見たことがない。  結婚により辞め、離婚によって再開したその銘柄の煙草。亮治から離婚の報告を受けた時も、それは亮治の指に挟まれていた。  煙草の箱を撫でながら、溝口は「亮治さん、今どうしてますか?」と訊いてきた。  その訊き方に、真人はさらにイラッとした。あまりにも抽象的な言い方に、意図を察してもらおうという魂胆《こんたん》が見えたからだ。真人はそんな思惑を打ち消すように眉尻をひゅっと持ちあげて、「今というのは仕事ですか、プライベートですか」と苛立ちを表す。  真人が不機嫌なことに、溝口は気づいていないようだった。煙草の箱から指を離すことなく、マイペースにさわさわと手を動かしながら言う。 「自分でもわからないから……聞きたかったのかも」  何を言っているんだ、この人は。  真人はパニックになりそうな頭を落ち着かせるため、「ふう」と小さく息を吐く。意図の見えない相手には、冷静な態度を示さなければならない。そう思ったからだ。  真人は紙ナプキンで口元を丁寧に拭いながら、相手に動揺を悟られないように言った。 「兄の性癖のことは僕も知っています。両親も薄々気づいているのかもしれませんが、本当のところはわかりません。僕たち家族の中で、触れてはいけないものであることは確かですが……まあ兄も、訊かれても答えるつもりはないと思いますよ。あの人は弱いから、話題に出せばそれまでです。それこそ、全速力で逃げるでしょうね」  そう言ってから顔を上げると、溝口はポカンとしつつ「藤峰君が亮治さんのことをそんなにしゃべる人だったなんて、知らなかったな」と言い、意外そうな顔をした。続けて溝口は、心を許したように自分のことを話し始めた。 「じゃあおれのことも知ってるのかな。おれが二人の実家に押しかけたってことも」    いつか実家を訪れ、亮治の行方を捜していたという男の話を、真人は思い出していた。両親いわく、その男は電話の向こうにいる亮治にこう言ったらしい。亮治がいないと、自分は死んでしまうーーと。 「聞いてませんよ、なにも」  咄嗟に答えた。もちろん嘘である。 「ご両親からも?」 「兄からもです。興味がないので」 「興味ない……か。はは、うらやましいなあ」  乾いた笑みを浮かべた溝口は、箱から煙草を一本抜き取った。それを口にくわえると、くしゃりと顔を歪ませた。煙草に火をつけるつもりがないことは、真人でもわかった。

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