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真人⑭

***  病室に入ると、亮治は眠っていた。買い出しに行って帰ってきた母と合流し、診断の結果を改めて医師から聞いた。  牧野から聞いた通り、やはり亮治は胃潰瘍だった。倒れた原因はそれだけではなかった。医師によると、栄養不足に睡眠不足も体に鞭を振るう結果になったという。  わかりやすい要因のトリプルパンチに、真人はあきれた。最後に医師がカルテを見ながら言ったことといえば、一つだけ。 「おそらく、過度なストレスが原因でしょう」  病室に戻り、仕事帰りの父と牧野がやってくるのを待つ。ベッドで眠る亮治の顔は、なるほどやつれていた。また痩せたようにも見える。  何が亮治のストレスになっているのか……真人はなんとなくわかるような気がした。 「どうして兄さんが病院に運ばれたこと、僕に教えてくれなかったの」  真人は窓際に寄りかかって、母の麻子に訊ねる。  布団をかけ直しながら、母は歯切れ悪く答えた。 「お兄ちゃんに言われたのよ」 「兄さんが?」 「ええ。私達が駆けつけた時にね。真人には言わないでほしいって」  不思議とそうなんじゃないかと、真人もどこかで思っていた。だから、驚きはない。 「どうしてとか……母さんは聞いてる?」 「ううん。聞いてないわ。お兄ちゃん、よっぽど寝不足だったみたい。私達にそう言ったあと、すぐに寝ちゃって。ごめんなさい。本当はすぐに連絡したかったんだけど」 「いいっていいって。べつに責めてるわけじゃないから」  顔の前で手を振ると、母は心配そうに口を開いた。 「真人、あなた……お兄ちゃんと喧嘩してるの?」  まったく亮治ときたら。余計な言葉を残して、のこのこと眠りについたものである。  ――真人には連絡しないでくれ。  そんな言葉を聞いたら、両親が不安になるとは思わなかったのだろうか。両親も、そんな亮治の言葉を鵜呑みにするなんて、どうかしている。  ふと母の疲れた口元に、真人は目がいった。小じわが以前よりもくっきりと刻まれている。真人の頭に、幼い頃、実父が亡くなった頃の憔悴した母が思い出される。母だって、疲れているのだろう。おそらく父も……。  真人は両親の心情を察した。両親にとって今の亮治という人間は、腫れ物のような存在なのではないか、と。  子どもの頃から亮治は大人の顔色を気にすることも、気にしないこともできた。大人も子どもも、みんなが亮治のその能力に甘えていた。  亮治が離婚したことから、すべてが始まった。いや、亮治は生まれた時から、きっと苦悩を抱えていて、ただそれをひた隠しに生きてきただけなのだろう。  亮治の手に踊らされていた両親。そして、自分。真人はぐっすりと眠る亮治の寝息を聞きながら、母に「実家に兄さんを訪ねて来た男のことなんだけど」と、話を振る。  母はビクッと肩をすくませ、平然を装うかのように白髪の増えた髪を耳にかけた。  真人が言っているのは、もちろん溝口のことだ。 「母さん達はさ、実際のところどう考えてるの。その男のことについて。兄さんはなにも教えてくれなかったって、言ってたじゃない」 「わ、私達……いえ……」  私は、と主語を言い換えて、母は断言する。 「お兄ちゃんが、同性愛者なんじゃないかって思ってるわ」 「……そう」 「おうちに来た男性はお兄ちゃんの恋人で……別れ話がこじれてうちに来たんじゃないかって」  でも、と母は首を横に振った。 「問題はお兄ちゃんが同性愛者ってことじゃないの。だってこの時代よ。そんなことで悩むなんて、バカみたいじゃない。時代遅れだわ。お兄ちゃんがだれを好きでいようと……」 「じゃあ母さんは、なにが問題だと思ってるの」  真人が訊くと、母は大息をついて肩を落とした。 「私ね、最近ずっと、わからないの。お兄ちゃんのことが」  亮治のことをそんなふうに言い表す母は、はじめてだった。真人が感じていた通り、母も亮治に対して思うことがあったようだ。 「はじめは由希子さんと離婚した理由を、私達がしつこく訊いたことが原因かと思ったわ。でも、それだけじゃないんじゃないかって……ねえ、真人。お兄ちゃん、ずっと苦しんでいたんじゃないかしら」 「苦しんでた……?」 「ええ。私達、お兄ちゃんに甘え――」  すると母の言葉を遮るように、病室のドアが開いた。やって来たのは、牧野だった。少し髪が伸びたのか、襟足が最後に見た時より長めである。だがそれさえ上品に見えるのは、その優等生オーラが今も健在だからだろう。 「あれ。一応ノックしたんだけど、小さすぎたかな?」  ポカンとしている真人と母を見て、牧野はすまなそうに言った。 「牧野君。来てくれたのね」 「はい。亮治の弱った姿なんて、これから先見れないかもしれませんので」  牧野の嫌味のない冗談に、つい今の今まで曇っていた母の表情に、明るい色がさす。  母は牧野に絶大な信頼を置いている。もちろん牧野が社会的地位の高い職業に就いているということだけが理由ではない。  高校生の時からずっと、牧野は亮治の親友だ。  真人には亮治が倒れたことを知らせなかったくせに、牧野にはちゃっかり知らせている。  母は自分の座っていた丸椅子を牧野に譲り、自分は立ち上がろうとした。そんな母に「そのまま座っててください」と気遣うと、牧野は亮治の眠るベッドに近づいた。  そして牧野はなんと、亮治を見おろすとバシッと亮治の頭を容赦なく叩いたのである。休みの日に叩き起こされる小学生のように、亮治はうーんと顔をしかめて布団の中に潜りこもうとする。  だが、牧野はそんな亮治の布団を剥ぎ取ると、「起きろ」と強い口調で言った。また頭をバシッと叩く。手加減なんて、まるでしていない。亮治の頭に振り下ろされる牧野の手を見て、真人はそう思った。

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