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真人⑮
***
一日何も食べていないことに気づいたのは、風呂の掃除を終えてからだった。真人がダイニングに戻ると、亮治が床に座ってテレビを観ていた。
引っ越し作業に疲れたのだろうか。亮治は真人が風呂場から戻ってきたことにも気づいていないようすだ。
亮治のまわりには、まだ封の切られていない段ボールが何箱か雑作に置かれている。明日以降片づけるつもりなのかなと思うが、亮治はそんなことも考えていないように、真人の目には映った。
「夜ご飯どうする?」
テレビ画面から目線を逸らす気配のない亮治に、真人はタオルで濡れた手を拭きながら訊いた。だが、反応はない。「亮治」と強めに呼んでみたら、亮治はビクッと肩を弾ませ、ようやく真人のいる方を向いた。
ビクビクした目。文字通り黒目が揺れている。そこに映っているのは、イライラした表情の自分だった。
「な、なんでも……」
「なにか作ろうか。それとも食べに行く?」
「食べに行くのは……。どうせまだ、そんなに食えないし」
亮治は縮こまってそう言うと、遠慮がちに壁際に寄った。
真人は冷蔵庫を開けてみるが、これといった食材はない。亮治はこんな状態だし、料理をする気分でもないので、真人は「なにか買ってくるよ」と言い残し、財布を片手に部屋を出た。
真人の住んでいるところは、一人暮らしにしては広い1LDKの部屋である。築年数が古く、そして以前いた住人が孤独死したという訳ありのため、同じタイプの他の部屋よりずいぶんと安い家賃で借りられている。
真人は超常現象や心霊現象などというものを信じるタイプではない。少なくとも真人にとっては快適だった部屋――そこに亮治が引っ越してきたのは、今朝のことだ。
不安定だった夏と秋のまじりあった気候に人々が振り回されていた一ヶ月前。亮治は胃潰瘍によって倒れ、病院に運ばれた。
そこでは胃潰瘍の他にも、ストレスからくる栄養不足に睡眠不足も浮き彫りになった。主治医の判断により、亮治は一ヶ月の休職と入院を余儀なくされたのだった。
真人の部屋に亮治が引っ越すことに、もっとも賛成したのは母だった。
父の反対により、亮治は実家にも住むことも許されなかった。そんな亮治を真人が引き受けると言ったあと、母は「それがいいわ」と何度も胸を撫で下ろしていた。さすがに身内でもない牧野に頼むのは気が引けるとのことだった。
でも真人は、母からその愚痴をチラッと聞いた時、思ったのだ。僕だって亮治の他人なんだよ、と。
家族になるのに、『血』は関係ない。『時間』だと疑いもなく言えるのが、真人の母だ。
だが真人は声を大にして言いたかった。人と人を家族たらしめるものは、やっぱり『血縁』なのだと。
亮治の入院中、真人は両親とともに奔走した。亮治の職場への休職願いに、アパートの解約手続き。部屋の荷物を整理し段ボールに詰めこんだり、保険の手続きをしたり……。
体力のキャパを超えそうになりながら、真人は自分の生活の合間をぬって亮治を迎え入れる準備に動き回った。
荷物を詰めるのを手伝うために、牧野が亮治のアパートへと手伝いに来てくれた時。心配してなのか、牧野は「亮治は僕が引き取るよ」と改めて真人にそう言った。
だが、真人は決して首を縦には振らなかった。自分でも、亮治なんか手放した方がいいと、頭ではわかっている。亮治にとっても、自分の弱みを握る弟より、高校時代からの気心知れた親友のほうがいいに決まっている。
それでも、真人は意固地になって「亮治は僕の兄なんで」と言って、譲らなかった。
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