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真人⑮

 断った直後の牧野は、意外そうな表情を浮かべていた。あっけにとられた、とでもいうように。その後、牧野はどこか疑うような視線を向けてきたが、真人は気づかない振りをして、段ボールにガムテープを強めに貼って無視をした。  牧野を無視することしかできなかったのは、自分の心がわからないから。どう考えても『渡したくない』というフレーズが頭に浮かんだことに、自分自身が驚いたからだ。  スーパーでいくつかの総菜と、ノンアルコールビールを二本買う。亮治はまだ、医者から酒を控えるよう言われている。もともと真人も飲める性質(たち)ではない。だが、今夜は亮治が越してきて初日の夜だ。  ささやかながら歓迎会のようなものをすれば、少しは亮治の気もほぐれるのではと思った。そして、自分の心も。  こんなことをしても、兄弟の関係性はおそらく取り戻せないというのに……。  部屋に戻ると、亮治は壁に寄りかかったまま目を閉じていた。引っ越し作業という久しぶりの力仕事に疲れたのだろう。体が一定のリズムでゆっくりと上下している。眠っている。  一ヶ月の入院と休職のおかげで、亮治の顔は一番酷い時よりふっくらとして見える。真人は少しホッとして、テーブルに買ってきたスーパーの袋を置いた。  総菜を皿に移し、箸や取り皿も準備する。食事の用意が終わった後、真人は亮治の肩をトントンと叩いた。  ゆっくりと目を開けた亮治は「あ、ごめん」と言って目をこする。立ち上がろうとしたが、重心を置く箇所を間違えたのか、ドタッと床に尻餅をついた。「なにやってんの」と真人は亮治の手をつかみ、引っ張って立ち上がらせようとする。  引っ張った際、亮治の湿った手のひらが、真人の乾燥ぎみの手のひらにぴたりと合わさった。指紋が描く形まで、手の感触からわかるような気がした。  その時だった。真人の胸が、どうしようもなく痛みを訴えだしたのは……。  苦しかった。息が、胸が、頭が。何よりも、繋いだ手が――。  真人に立ち上がらせてもらった亮治はふっと笑い、「情けねえな、俺」と泣きそうな顔で笑った。そして握手をするように真人の手を上下に振り、 「ありがとな」  と言って、手を離した。  その声は、心底、自分自身を嫌っている人間にしか、出せないような弱さを孕んでいた。それに気づいた時、真人は何も言えなくなってしまった。  そして、こうも思ったのだ。  僕が、と。  その先に続く言葉は、自分でもわからない。何を言いたかったのか、見当もつかない。  ただ、立ち上がらせようと握った亮治の手を思い出すと、熱くて熱くてどうにかなりそうだった。  他人だった兄。自分を裏切った兄。情けなさに、涙を流すことさえ嫌になる。そんな亮治を、僕が、いったいどうするというのだ。  助ける? 振り回す? 不幸にする?  わからなかった。ただ一つだけ、はっきりしてしまったことがある。  真人は食べ終わった食器を片付けながら、亮治に「お風呂湧いてるよ」と声をかけた。亮治はまたあの声で、「ありがとな」と言って、ソファから立ち上がる。  脱衣所に向かう亮治の背中を見て、真人はその言葉をグッと飲みこんだ。    好きだ。  

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