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真人⑯
***
月曜日にネットで注文したソファベッドは、その週の土曜日にやってきた。真人の寝室に二つのベッドを置くスペースはさすがにないので、亮治のために購入したものである。
その間、亮治は実家から持ってきた古い寝袋を使ってリビングで寝起きしていた。ソファベッドなら、普段は折りたたんでソファとして使える。しかも思っていたよりも安かったこともあり、真人は購入を即決したのだった。
ソファベッドを置く場所。これもわりとすんなりと決まった。
「悪いからここで寝るよ」
亮治がそう言って指定した場所は、それまでと変わらず、リビングだった。
『悪いから』
あれはどういう意味だったんだろう。
『真人の寝室を奪って悪いから』?
それとも、
『襲いかかってしまうと悪いから』?
そんなことをうじうじ考えている自分が、嫌だった。最近の亮治の言葉が、すべて言葉足らずだと感じる自分がーー。
特定の誰かに対して、言葉が足りないと思う時。真人は過去の経験上、それがどんな時に感じるか、知っている。
ソファベッドがやってきて三日。亮治は仕事にも復帰した。ただ、外回りの多い営業から、内勤に変えてもらったようだ。公務員の真人と同じように、毎日同じような時間に帰ってくる日々が続いている。
亮治が真人の部屋に引っ越してきてからというもの、穏やかすぎる時間が流れていた。
会話は少ないが朝はテーブルで顔を突き合わせて、一緒に食事をとる。日中は各々の職場で働き、帰ってくる。夜は食事しながらたまにお互いの職場の話をして、各々の場所で各々の時間を過ごした後、別の部屋で寝る。
真人はこの生活に、徐々に慣れ始めていた。心配していた亮治の性癖は影を潜めているし、亮治が外で『そういう相手』と会っている様子もない。
性癖もそうだが、真人は亮治のことをセックス依存症の気 もあると思っていた。真人は医者ではない。だから確信を持っているわけではないが……。
特別な感情を亮治に抱きつつある真人である。弟としてだけではなく、一人の人間として……真人は亮治の性に苦しむ姿を見なくて済むのは、ありがたかった。
夜中、真人はふと目が覚めた。頭がボーっとして、額に鈍痛が走った。亮治の入院や引っ越しで、疲れたのかもしれない。少し熱がある気がする。真人はとりあえず水を飲もうと寝室を出て、リビングへと向かった。
廊下とリビングを隔てる不透明なガラスドアからは、ぼんやりと光が漏れていた。テレビ画面から放たれるには小さな光。
亮治が起きてる?
真人は熱いような寒いような体を引きずりながら、廊下の電気もつけずにゆっくりと壁伝いにリビングへと向かった。
音を立てないよう、ゆっくりとドアを開けると、そこには案の定、亮治がいた。亮治の右手に握られたスマホ画面の光が、亮治の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
何かがおかしい。
そう思い、暗闇の中で目を凝らす。
スマホ画面に表示されていたもの――それがいったい何なのかまでは、真人の場所から具体的には見えなかった。
ただ、スマホ画面に流れている映像が人間の揺れる肌を映していること。亮治の耳にはスマホの音を聞くためのイヤホンが装着されていること。そして、亮治の左手が、スウェットズボンの中で上下に動いていること――。
それらから導き出される行為は、簡単に推測できた。
真人はドアを開けて、部屋の灯りをつける。飛び起きるとばっかり思っていたが、実際の亮治の動きは予想に反するものだった。
亮治はゆっくりと下半身のズボンから左手を抜くと、イヤホンを耳からとった。まだ序盤だったのだろう。左手は汚れていない。
亮治は隠そうともしなかった。バレたものはしょうがない、という諦めと潔さをにじませて、スマホの画面を切る。
真人はつかつかと亮治のそばに行き、布団のように床に敷かれたソファに膝ついた。ぎゅっと握った拳が、太ももの上で震える。前のめりになって、真人は言った。
「病院に行こう」
それまで黙っていた亮治が、「は?」と顔を上げる。亮治が気分を害したことに気づかなかったのは、ひどく動揺していたからだ。性癖が治ったとは思っていなかったが、少なくとも自分でコントロールできるようになったのだと、思っていたからだ。
亮治は頭の後ろを掻いて、「ふざけんな」とため息をついた。
「ふざけてなんかない。僕は真面目に言ってるんだ」
「おまえがふざけてようが真面目だろうが、俺にはどうだっていい」
「とにかく病院に行こう、亮治」
亮治、と呼んだ瞬間、亮治の表情が変わった。フッと笑い、「おまえ、俺のこと病気だと思ってんのか」とイライラした口調で真人に訊いてくる。
「医者でもない僕には言われたくないかもしれないけど……セックス依存症の可能性だって、あるかもしれないじゃないか」
「べつに普通だろ。オナニーくらい、誰でも」
「病名がつけば、対処の仕方だってわかる。どうすればいいかがわかる。性の欲望対象が心と体で違うことだって、もしかしたらなにかそういう病気があるのかもしれな――」
「じゃあおまえは、俺にこう言うのか。『男の体でしか勃たないから病気なんだ』って。それなのに『男のことを好きになれないから病気なんだ』って!」
久しぶりに見る亮治の気迫に、真人はすっかりひるんでしまった。前の自分はどうしていただろうか。亮治を特別だと思うようになる前の自分は……。わからなくて、混乱する。
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