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真人⑱

***  スマホのアラーム音で、真人はハッと目が覚めた。いつの間にか二度寝していたようである。  本来の起床時間なので、焦ることはない。真人はソファベッドの上に敷いたシーツを剥ぎとって脱衣所の洗濯機に放りこむと、ベッド状態になったそれを本来の形に戻した。  やはり本格的なベッドにはかなわない。体を起こしたら、腰の痛みが尋常じゃなかった。  朝はインスタントのコーヒーだけを腹に流し込み、満員電車に揺られて出勤した。毎朝同じ電車に乗るサラリーマンたちの顔ぶれに、毎朝車窓に流れていく街の風景。あまりにも、いつもと変わらない朝だった。朝起きた時の腰の痛みも、徐々に引いていっている。  乗り換えの乗客が多い駅で、真人はいつも空いた席に座っている。もちろん今日も座れたことにささやかな幸せを感じつつ、読みかけの文庫本を開いた。  案外、大丈夫かもしれない。  文字を追いながら、平然と本の中身を理解できている自分に対し、真人は客観的にそう思った。  昨夜はどうしてあんなに取り乱したのか……これだから、夜が嫌いなのだ。  ――信じてもらえないかもしれないけど、俺はな、俺は……自分のことを好きになってくれる人を、心と体の両方で愛したい……。でも、できない。それが……つらい。  そう訴えていた亮治は、どんな顔をしていただろうか。思い出そうとしても、思い出せない。  だが、思い出せないなら、それが一番いい気がする。亮治のことを特別だと思う気持ちは今でもあるけれど、燃えるような感情は昨夜ほどない。どちらかというと、放っておけない相手。情が湧いて離れられない相手のような感じだと、今朝の真人は思っている。  勤務先である市役所のある駅に着いた時には、とっくに文庫本を読み終わっていた。  昼休みが終わり、財政状況の公表資料をパソコンで作成している時のことだった。昼休憩から戻ってきた綿貫が、真人の後ろで「やだ~、藤峰さんったら」と、語尾にハートマークでもつけたかのような声色を出した。  パソコン業務を一旦中断し、振り返る。そこにはニヤニヤともの言いたさげな顔をした綿貫が立っていた。典型的な清楚な雰囲気を醸し出しているにも関わらず、たまにオジサンっぽいところがあるのが綿貫という女性だ。  からかわれることもしょっちゅうなので、真人はいつものことのように、冷静な態度で「なに?」と訊く。すると綿貫は真人の首筋を指さして、「やらしい~」とセクハラオヤジのようなニタッとした笑みを浮かべた。 「藤峰さん、彼女さんいたんですね~」  そっと耳打ちされ、真人は思わずバッと両手で自分の首を隠した。亮治に体を愛された印。昨晩抱かれた証……。後ろだろうか、前だろうか。わからなかったので、真人はとりあえず首の前後ろが隠れるように両手を首に巻きつける。 「やだ藤峰さん、顔真っ赤」 「……っ」  顔が熱かった。恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。真人は綿貫の茶化しに返す言葉もなく、首を隠しながら急いで男子トイレに向かった。  さいわいトイレに人の姿はなく、真人はおそるおそる鏡の前で両手を外してみる。鏡の中に映っていたものを見て、愕然とした。そこには、顔を真っ赤にして薄くて乾いた唇を半開きにしたままの、情けない顔の男がいた。  襟を少しずらすと、その男の首に赤い斑点のようなものが、いくつか見えた。小指の爪くらいのものもあれば、横一線に引かれたようなものまで……キスマークだ。  真人は襟を直し、首から下げた職員証で襟が乱れないようしっかりと固定する。手洗い場に手をつき、もう一度顔を上げて鏡を見る。  流れた前髪の隙間から、赤く染まった肌が覗いている。  最悪だ。真人はドクドクと鼓動する自分の心臓を恨んだ。恨めば恨むほど、どうしてずっと淡白だった下半身が反応しかけているのか。どうしてあの男の顔が浮かぶのか……。  そうだ、と真人は昨夜のことを思い出す。  自分のことを好きになってくれる人を、心と体の両方で愛したい。そう言っていた亮治は、少し笑っていたのだ。自分への歯がゆさが完全な自己嫌悪に成長した時、人は笑うのか。  真人はそれが不思議で、哀れで、いとおしくて……見なかったことにしたのだ。一度見てしまったら、見なかったことになんてできないのに。ずっと心の中で留まり続けるのに。  真人は顔をバシャバシャと水で洗った。洗っても洗っても、熱は引かない。「りょうじ」と口の中でつぶやいてみる。  そのまま飲みこむと、甘い痛みが胸に落ちて、切なかった。ただ願うのは、  亮治が今夜、ちゃんと帰ってきますように。  それだけだった。

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