44 / 87

真人⑳

*** 「牧野をここに呼んでもいいか?」  鏡越しに亮治がこちらの顔色をうかがうように訊いてきたのは、真人が洗面所でネクタイを結んでいる時のことだった。  一足先に支度を終え、亮治は今すぐ出勤できる状態である。朝の会議があるそうで、いつもより三十分ほど早く出ないといけないらしい。  だが、本人はのんきに洗面所の壁に寄りかかっている。 「呼ぶって、いつ?」  鏡越しに、背後にいる亮治に向かって訊ねる。 「いつでもいいんだけどさ。やっぱりその……おまえもいる時のほうがいいかと思って」 「……」 「あ、牧野とは二人きりでいても、なにもないからな? ただ、この部屋ってもともとおまえんちだろ。家主がいないのに友達呼ぶってのもなんかさ……それに、真人も前から牧野と仲いいし」 「外じゃダメなの?」 「俺は外でもいいんだけどさ。俺の経済状況考えると、家の方がいいんじゃないかって……牧野が言うんだ」 「ここより牧野先生の家の方が、広いと思うけど」 「確かに」と言った亮治をじーっと冷めた目で見る。亮治は自分の失言に「やべっ」と口を押さえた後、バツが悪そうに苦笑いを浮かべた。 「牧野の家はちょっとな」  ちょっとな、の後が気になる。だが、亮治の言動にいちいち引っかかっていたら、心が持たない。ネクタイを結び終えた真人は、鏡を背に本物の亮治を向いた。 「……日にち決まったら早めに教えてよ」 「い、いいのかっ?」 「牧野先生にはお世話になってるしね。しょうがないでしょ」  ふと前を見ると、ぱあっと明るくなった亮治の表情が正面にあった。「真人~~っ!」と広げた両手に、ガバッと抱きつかれる。  亮治の体温に包まれ、真人はドキッと心臓が弾んだ。  だがもちろん、そんな真人の心の内を、亮治が気づくはずもない。  「ありがとな~!」と頭を撫でてくる亮治の手を、「スーツに皺ができるから」と言って逃げる。そして頬が赤くなるのを見られる前に、真人はさっさと部屋を出た。亮治の方が先に出るはずだったのに、結局真人が先に出てしまった。  メッセージアプリで『ちゃんと鍵閉めてから出てよ』と送ると、『了解!』と書かれたプレートをキャラクターが掲げているスタンプが送られてきた。ふっと緩んでしまう口元を手で押さえつつ、通行人から注がれる視線を誤魔化す。  だが、スタンプの次に送られてきたメッセージを読むと、浮ついた気持ちも一瞬にして沈んだ。 『日にちが決まったら、すぐ連絡する』  それは先ほどの話――真人と亮治が現在二人で同居している部屋に、牧野を呼ぶという内容の続きだった。  牧野のことは、高校時代から真人も知っている。毎年、春から初夏にかけて、薬も処方してもらっている。……感謝している。  そのはずなのに、亮治の口が牧野の名前をつむぐたび、なぜか心は影を(まと)うのだった。亮治の言う通り、亮治と牧野の間に疑うべきものはないように思えるのに……。  はじめに亮治を自宅で預かると申し出たのは、牧野だったのだ。真人はその提案を横取りして、亮治を自分の部屋に住まわせることにした。  その罪悪感から、牧野に会いたくないのだろうか。それとも……。  ――牧野の部屋はちょっとな。  言葉を濁した今朝の亮治を思い出す。あんな些細な亮治の一言が、()り所になるなんて。  だが、その一言でわかった。少なくとも、亮治は牧野に対して友達以上の気持ちを抱いてはいない。  そんなものに安心し、すがる自分。惨めだった。勝手に敵対視して負けた気になって……こんなにも女々しい自分には、かつて出会ったことがない。  真人はスマホを鞄に入れて、駅までの道のりを歩く。口から吐く息は白く、姿は見えないのにどこからかやってきた金木犀の香りが、鼻をかすめた。  日にちなんて、永遠に決まらなければいい。

ともだちにシェアしよう!