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真人㉑

***  牧野がやって来たのは、肌の表面が凍てつくような寒い土曜日のことだった。昼過ぎに真人が鍋の具材を切っていると、部屋のチャイムが鳴った。  スーパーで適当に買ってきたつまみを皿に移している最中の亮治に、「出てもらっていい?」と言う。亮治は「ん」と返事をすると、自分の作業を中断して玄関へと向かった。  亮治に連れられてリビングへと入ってきた牧野はキャメルのコートと上品なチェック柄のマフラーを外すと、「久しぶりだね」と真人に笑顔を見せた。  真人もペコッと頭を下げる。「ご無沙汰してます」  真人に挨拶を済ませると、牧野は亮治に手土産のワインボトルの入った縦長の紙袋を渡した。「もう酒は飲んでいいんだろう?」と付け加えて。 「まあな。でも牧野、おまえ俺がワインだと悪い酔いするって知ってるよな?」 「もちろん。だから持ってきたんだ。少量でも満足できるようにな」 「性格わるっ」  二人の気兼ねないやりとりを耳で拾いながら、真人はネギを包丁で切る。  牧野の訪問日が決まったのは、今から二週間前のことだ。永遠に決まらなければいいと思っていた日は、それはもうあっさりと決まった。  亮治が牧野に休みの日を尋ねると、土曜日は午前診療があるものの、土曜午後から日曜日にかけては、だいたい暇だと返ってきたのである。真人と亮治の休みも、土日だ。  そういうわけで、飲みすぎても次の日がつらくないという理由で、土曜日に決まった。最近寒くなったという安直な理由で、料理(というほどでもないが)には鍋が選ばれた。  嫌だ嫌だといくら心の中で叫んでも、時間は止まってくれない。だったら時間が過ぎるのを淡々と待つしかないと、真人は諦めたのだった。  鍋に入れる具材を切る作業は、ありがたかった。単調な作業ゆえに無心になれるし、時間も忘れていられる。 「――――と」 「……」 「――こと」 「……」 「真人!」  耳元で叫ばれ、包丁を握る右手が思わず狂う。その拍子に、真人は左手の人差し指を切ってしまった。 「なにやってんだよ!」  指を切るきっかけをつくった本人が、わたわたと慌てる。  真人の人差し指からは血が滲み、赤い小山はその重さに耐えきれず、ツーッと親指の付け根まで流れた。 「どうしたの?」  と、ソファでくつろいでいた牧野もやってくる。 「す、すいません。たいしたことないんで、牧野先生は座っててください」 「たいしたことないっておまえ……ちょ、ティッシュ……っ」  亮治は真人の手をとり、テーブルの上にあったティッシュ箱の中に手を突っ込んだ。だが、ちょうど切らしていたようである。「クソッ」と一人で苛立っていた。  そうこうしているうちに、親指の付け根をも通り越した血は、内側から手首にまで到達してしまった。  その時だった。  亮治の舌が、ぺろりと真人の手首を舐めたのだ。下っていく血の流れをせき止めるように、上へ上へと、亮治の舌が昇ってくる。親指の付け根を汚す血を生暖かい舌で舐められると、くすぐったくて身震いした。  牧野に見られていることも忘れたのか、亮治はひたすら指から流れる血を舌で拭った。傷口を口に含まれた時、痛みがズンと下半身まで襲ってきそうで、真人は「ちょ、っと……」と体をねじり、拙い抵抗をした。  見かねたのか、牧野が空《から》のティッシュ箱で、亮治の頭をパコッと叩く。乾いた音に呼び戻され、真人はやっと亮治の口から手を引き抜くことができた。  真人より放心状態の亮治の口は、半開きの状態である。そこから見える歯には、舐めとった真人の血が付着していた。 「なにをしてるんだおまえは。バカなのか?」 「あ……俺……」 「傷口に菌でも入ったらどうする」  牧野はティッシュ箱をテーブルに置き戻すと、真人を向いた。 「真人君、大丈夫かい?」 「は、はい……」 「ちょっと見せて……うん、水で洗った方がいいな。ほら、そこで洗って」  促されるまま、水道から水を出して患部を水洗いする。傷口がしみて痛い。それ以上に、亮治に舐められたところが熱かった。  指を洗った後、牧野に消毒してもらい、絆創膏まで貼ってもらった。  さすが医師だけあって絆創膏を貼るのが特別うまい……というわけでもなく、牧野は処置を終えると「ハイ、お疲れ様」と言う。患者にも、いつも同じように言ってるのだろう。  鍋の具材を切るのは、亮治が引き受けてくれた。  ――どうして舐めたの?  訊きたかったけれど、不器用な手つきで包丁を握る亮治の背中に、真人は問うことができなかった。  亮治も何も言わなかった。  血が服につきそうだったから。  たぶん、そんなところだろう。子どもの頃から、亮治は目の前で起きたことに咄嗟に手を伸ばしてしまう癖があるのだ。  頭はいいのに、頭よりも先に体が動くところが、すごいと思っていた。羨ましいと思っていた。  ソファに座って、亮治と牧野が鍋の準備をしているようすを眺める。亮治の包丁使いが危なすぎて、牧野は怒りながら亮治から包丁を奪っていた。  結局、牧野が具材を切る係に、亮治が土鍋とカセットコンロをテーブルの上に用意する係になっていた。自分の部屋なのに、用意されたテーブルを前に座ると、自分が招かれた客人のような気分になる。  缶ビールを開けて三人だけの宴会が始まると、真人は鍋奉行に徹することにした。鍋の中にある肉や野菜がくたくたに煮こまれたら、亮治と牧野のとんすいに注ぐ。新しい具材を鍋に入れる。その二つの工程を、行ったり来たりして。  三人の野菜の切り方は、三者三様だった。真人の切ったネギは、几帳面な切り口だが細々としている。亮治の切った白菜は大きさがバラバラだ。  牧野が担当したものといえば、シイタケだけなのに、その表面に刻まれた切りこみは見事なものだった。  改めて思う。  牧野という男は、器用なのだ。  たったそれだけのこと。シイタケの切りこみが綺麗だったからという取るに足らない小さなことが、真人の胸にある湖に黒い炭を垂らした。  早くこの時間が終わればいいのにと、思わずにはいられなかった。

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