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真人㉒

「……いえ」 「君だよ、真人君」 「え……?」 「受験生の弟がいる家に、風邪っぴきの自分は帰れない……そう言ったんだよ、亮治は」 「し、知らなーー……」 「そうだよな、知らないよな。だって君、なにも知らなかったじゃないか。亮治が苦しんでいたことを」  苦しんでいた?  「そうだよ。今は、君も知っているんだろう? あいつが心は女しか愛せないのに、体は男しか愛せないってこと」  真人はガッと口を両手で覆った。  知っているのだ。牧野はずっと知ってて……いや、いつから? いつから亮治は今のようになって――? 「言っておくけど、僕は亮治から相談されたわけじゃない。なにも聞いてない。亮治は彼女にも恵まれていて……(はた)から見れば、なにもかもうまくいってたからね。でも、あいつを注意深く見ていればわかるよ。たぶん、僕はずっと亮治のことを好きだったから」 「え……」 「君らの実家に遊びに行った時、亮治から真人君を紹介されて気づいたんだ。思春期の亮治が、君の細い首や薄い腰をことあるごとにじっと見ていることにね。まあ、それだけ僕も、亮治のことをことあるごとに見ていたってわけだ」 「……っ」  何も言えなかった。牧野も亮治を好きだったなんて、知らなかったからだ。  話を戻そう、と牧野は濡れた前髪を掻き上げる。 「受験生の君のために帰りたくない……亮治がそう言った時ね、僕は君にすごく嫉妬したんだよ。君が亮治と血が繋がってないと知っていたからこそ。だから僕は、あいつに言ったんだ」  ――亮治おまえ、わかってるよな。真人君は弟なんだぞ。 「はじめは笑ってたさ。なにを当たり前のこと言ってんだ、って。だが徐々に笑っていた口元が歪んでいって……熱のせいもあったんだろう。最後は大泣きしていたよ」  保健室のベッドの上で大泣きする高校二年生の亮治。想像しただけで、真人の胸に熱いものが流れこんでくる。  そうか、と思った。その時から、亮治は人知れず苦しんでいたのだ。 「まあ、ショックだったよ。その時はてっきり亮治が君のことを恋愛対象として好きなんだと思ったからね。でも、すぐに違うと思い直したんだ。あいつが好きな女の話をする時の目は、いつだって本気だったから」 「……」 「亮治が保健室で泣いた時、ショックだったけど……僕は嬉しかった。みんなの亮治が、僕にだけ苦しんでる姿を見せてくれたんだからね」  真人は、牧野が亮治に好意を抱いていたと聞いてから、ずっと気になっていたことがあった。 「……提案、しなかったんですか」 「なにをだい?」 「その……自分が、代わりになる……とか」  膝にかかっている毛布の繊維を一つひとつ数えながら、真人は震える声を抑えながら言った。 「代わり?」 「は、はい。亮治の……性癖というか、その、捌け口としてでもいいから、抱きあいたいとは思わなかったんですか……?」  牧野は「ハッ」と笑って、ワインボトルに口をつけて赤ワインを喉に流しこんだ。 「まさか。そんなことをしたら、今の僕たちはないよ。それはもっとも愚かで残酷な選択だ」  愚かで残酷――。  真人は数えていた毛布の繊維を、ぎゅっと両手で握りつぶした。両手が小さく震えている。 「当時の自分に感謝したいよ。あのまま友達でいるって決めた自分をね。ただ、一緒に飲んでると、たまに思う。あの時、保健室で泣いてる亮治にキスをしていたら、どうなっていたんだろうって」  牧野は懐かしむように、(から)になったワインボトルの口を親指でなぞった。本当は亮治の唇を、そうやってなぞりたかったのかもしれない。 「なあ真人君」 「は、はい」 「安心してくれ。僕は亮治のことが好きだけど、今は本当にただの腐れ縁だと思っている。だからうちに来いと言ったんだ。一人にしておくのは心配だと、真剣に思ったから」 「……っ」 「亮治のことも心配だが、僕は君のことも心配なんだ。つらくなったら、いつでも亮治を手放していいってことを、覚えておいてほしい。変な責任感を感じるな」  たまらなかった。高校生の牧野が踏みとどまれたことを、真人は三十歳にもなって踏みこえてしまったのだ。  牧野の方が、よっぽど愛し方を知っている。そう思うと、自分は取り返しのつかないことをしたのではないかと、絶望的な気持ちになった。 「最後に言わせてほしい。真人君、君の感情はちっともおかしくない」 「……っ」 「君を否定できる人間なんて、ここにはいないよ」  牧野はおそらく、真人が亮治に兄弟の間では感じえてはいけない感情を抱いていることに、気づいている。だが一線を越えてしまったことには、まだ気がついていない。  だからこそ、真人の体はぶるぶると震えた。牧野のいう『愚かで残酷な選択』を、自分はとっくに選び取ってしまっているから。もう戻れないところに、亮治を引き込んでしまったから。  それから牧野は立ち上がり、改めてテーブルに突っ伏寝している亮治をたたき起こした。そしてワインボトルを片付けると、荷物を持って「それじゃ、長々と失礼したよ」と一言残し、部屋を出ていった。  ドアの隙間から見えた牧野の髪の毛は、すっかり乾いていた。

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