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亮治①
***
おかしいと思ったのは、わりと早かった。小学二年生の時だった。
当時から、藤峰亮治には友達が多かった。よく『友達が多い』なんていうと、どうせ同じような種類の明るい友達ばかりだろうと誤解される。
だがそれは、事実でもあり間違ってもいる。もちろん自分と同じく、暗くておもしろくない話が嫌いでバカなことを全力で楽しむやつもいるけれど、友達の全員が全員そうではないのだ。
亮治が小学二年生の時、転校してきた男子がいた。そいつは眼鏡をかけた、もやしみたいに弱そうなやつだった。名前は覚えていない。
その男子は転校初日から一ヶ月経っても、クラスに友達がただの一人もできなかった。後から聞いた話だと、たしか家が貧乏だったとかなんとか。規定の上履きも買えず、前の学校で履いていた上履きをずっと履き続けていたらしいのだ。
それが保護者の間で噂として広まり、そのことを聞かされた子ども達がその子どもを仲間外れにする……という典型的なアレだ。
亮治の両親は他人の経済状況に気を取られるほど暇ではなかったし、もちろん亮治自身も転校生の上履きに少したりとも気に留めていなかった。
だから、どうして早くみんなは転校生に声をかけないのか。そしてどうして転校生もみんなに声をかけないのか。細かいことに気が回らなかった小二の亮治は、アホのように漠然とそんなことを考えていた。
良いか悪いかはさておき、クラスにまったく馴染むことができていないクラスメイトを溶け込ませようとするのが、亮治は嫌いじゃなかった。
体育の縄跳びの授業で、ペアを組んで相手の飛んだ数を数えなければいけない時があった。誰ともペアを組めていないその転校生にすかさず声をかけると、そいつはオドオドしながら「ぼくでいいの?」と、亮治を上目遣いで見上げた。
その時は何も思わなかった。だが、転校生が縄跳びを飛ぶたびに、転校生の体育着のズボンは下にずり落ちそうになっている。はじめは亮治も笑った。だっせー、と指を差しながら、腹を抱えて。
そのたびに、転校生もぷぷっと恥ずかしそうに笑い、「にいちゃんのだから」とズボンを上げ直した。
そういうわけで、亮治たちのペアはなかなか前跳びから次の技に進まなかった。
そんな亮治たちのペアにしびれを切らした教師がやってきたのは、他のペアのほとんどが後ろ跳び、交差跳びまで終えた時のことだった。
教師はお腹を抱えて笑い続ける亮治の胸ぐらをつかむと、こう言った。
「次笑って中断してみろ。体育倉庫にぶち込むからな」
今思えば、あの体育教師は昭和カタギの人間だったのだろう。パワハラも過ぎる。しかも小学生相手に。
亮治には、そんな大人の怒号が怖かった。でも、怖がっている自分を認めるのは、幼いながらにもっと嫌だったのである。
「お、おい。次はズボンが下がってもやめるんじゃねえぞ」
亮治はせっかく仲良くなれた転校生に向かって、体育教師と同じように転校生の胸ぐらをつかんでそう言った。亮治からしてみれば、怖がっている自分を隠すための、ちょっとした悪ふざけみたいなものだった。
だが、転校生の表情はみるみるうちに強張っていったのである。
体育教師と、とっくに課題を終えたクラスメイトが見ている前で、亮治は転校生が跳ぶ回数を数えることになった。
転校生のズボンは案の定、縄跳びで校庭の上で小さな砂煙を巻き上げるたび、少しずつ下へと下がっていった。転校生は自身の下半身を見下ろしつつ、半泣き状態で跳んだ。
少しでも下に落ちないよう、腰を大袈裟に動かす。だがそれは、よりいっそうズボンをずり下げてしまうことにも気づかずに――。
亮治は回数を数えながら……いや、転校生の大袈裟に動く腰をじっと見つめながら、ゴクリと唾を飲みこんだ。
不思議なことに、転校生の腰から目が離せなかったのだ。じわりと額に汗がにじんで、顎まで一筋の線を描いていく。指先の感覚が鈍る――。
気づけば亮治は、回数を数えるのも忘れて見入っていた。転校生のズボンも、いつの間にか完全に脱げてしまっている。地面に落ちたズボンの上で跳ぶパンツ姿の少年は、ついに涙をもまき散らしていた。
それが亮治には、たまらなかった。
両親が離婚したのは、それから間もなくのことだった。原因は母の不倫。詳しいことは、大人になっても父や祖父母に聞くことはなかった。聞きたくもなかった。
ただ、あなたが悪いのよ、と父を罵倒して出て行った母の後ろ姿に、今でも訊きたいことがある。
――どうして父さんが悪いと、他の男とセックスする必要があんの?
両親の仲があまりうまくいっていないことは、幼いながら肌で感じていた。
だが、こんなにも唐突に別れがくるとは思ってもみなかった。あっけなく父と息子だけの男所帯になった藤峰家は、母のヒステリックに晒 されない代わりに、ひどく静かになった。
乾いたものが、ずっと亮治の中に流れるようになった。友達と笑っていても、さみしい。友達と帰り道で別れる時は、もっとさみしい。家に帰り、ゲームをしながら一人で父の帰りを待っている時はもっともっとさみしい。
ひどい母親だったけれど、いないとこんなにさみしいなんて。でも、「さみしい」と口にしたら父が悲しむということも、亮治にはわかっていた。
胸の中にある乾いたものが涙で湿るたび、亮治は体育の授業で見た光景を思い出した。ずり落ちていく体育着のズボン、汗と涙でぐちゃぐちゃになった少年の顔、怖い体育教師、笑っている男子、軽べつしたようにひそひそ話をする女子――。
亮治は小学二年生という早さで、自分の性器に触れる快楽を、人知れず覚えたのだった。
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