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亮治③

***  終業時刻になり、エレベーターに乗りこんで、閉ボタンを押そうとすると「ちょっとタンマ!」と男が走ってきた。急いで開ボタンを押して、閉まりかけているドアを開けてやる。  乗りこんできた男を見て、亮治は「あっ」となる。 「あれ? 藤峰じゃん」  こちらが気づいたと同時に、向こうにも気づかれてしまう。数ヶ月前まで同じ営業課にいた男――佐渡(さわたり)だ。  出っ歯気味の歯と、小太りな体型が特徴のおしゃべりな男である。営業成績はまずまずだが、社内の飲み会などで人をいじって笑いをとろうとするところが、亮治は好きじゃなかった。  自分が元来の三枚目であることに気づかず、三枚目を演じる二枚目だと思っているあたりが、痛々しい。  そんなふうに亮治が感じているとも知らず、佐渡は「なに、帰んの?」とボーナスで買ったというイタリア製の腕時計をこれ見よがしに裾をまくって見せてくる。 「……まあ」 「オレはこれから取引先んとこだよ。コレに付き合えって言われてさぁ。ったく。勘弁してほしいよなぁ」  佐渡はお猪口を煽る仕草をして、ニヒヒと笑った。  ライバル――亮治がいなくなって、よほど嬉しいのだろう。今も営業課にいる同期から、最近の佐渡の様子は聞いていた。  ちなみに、佐渡が飲みに付き合えと言ってきた取引先の会社というのは、亮治から引き継いだ会社だ。亮治が担当していた時には、飲みに誘うようなことは一切なかった。  複雑だが、佐渡は佐渡なりにうまくやっているらしい。情けない嫉妬に、チクッと胃が痛む。  自分はもう、営業とは関係ないのに――。  家に帰ると、真人はまだ帰ってきていなかった。今日はちょっと早いが、職場の忘年会だと、朝に言っていた。  スウェットに着替えた後、冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。あまり食欲がなかった。今頃、真人も佐渡も、少しの緊張感を持ちつつ、飲みの席を楽しんでいる頃だろう。  そこでようやく亮治は、今日が金曜日であることを思い出した。営業にいた頃は、金曜日の仕事終わりには必ず職場の人達や牧野と飲みに夜の街へと繰り出していたものである。  時刻は七時半。残業や飲み会が毎日のようにあった身としては、こんな時間に家にいるなんてありえないことだった。元妻の由希子は、そんな自分に文句ひとつ言わず、結婚生活を三年も続けてくれていたのだ。  付き合ってからはじめてセックスしようとした時。いくら舐めてもらっても勃起しない自分に、由希子は励ますように言ってくれた。  ――いいの、気にしないで。私もそんなに得意じゃないから。  好きで好きでたまらないのに、できない自分が悔しかった。  せめてもの救いは、前述の通り、そもそも由希子があまりセックスに積極的ではなかったことだ。だから、向こうの両親からの後押しもあって、なんとなく流れで互いに結婚を意識するようになれたのかもしれない。  結果的には、うまくいかなかった。由希子は、セックスに関しては消極的だったが、子どもをずっと欲しがっていた。  ビールを飲みながら観るテレビの内容が、頭に入ってこない。亮治はベコッと缶を握りつぶした。缶の中に残っていたビールが、手を伝って床へと流れ落ちる。  無力感が、全身にまわって気だるかった。いっそのこと、不能ならよかった。女に欲情しないかわりに、男にも欲情しなければ……そうすれば、自分の苦しみに誰かを巻きこむこともなかったはずだ。  あの男はなんていったか。ゲイ専用のマッチングアプリで再会した中学の後輩だという男。――そう、溝口だ。たしか、真人と同い年だった。  外見も、どことなく醸し出す雰囲気も、真人に似ていた。だから、抱いた。はじめて抱いた時、『これだ』と思ったのだ。ぴったりと肌の合わさる感覚に、身震いした。  だが。  好きだ、と言われた時には、しまったと思った。自分でも最低だと思うが、『そんなつもりじゃなかった』というフレーズが頭を駆け巡った。  ずいぶんと傷つけただろう。もう会わないと断言したら、実家にまで来てしまったくらいなのだ。  ひどいことをした。その事実だけが、現実として亮治の肩に重くのしかかる。罪悪感や反省の念が、ないわけではない。  だが、それらにすがって自分を責める資格さえないことは、自分が一番理解している。なんとかしなければ……と思うけれど、真人の言う通り病院に行ったところで、なんとかなるとは、あんまり思えない。  ガチャリーーと、玄関から音がして、石のように固まっていた指先が、ピクッと勝手に反応する。重たい頭を少し上げてリビングの入口に視線をやると、スーパーの袋を両手に引っさげた真人が立っていた。 「ただいま」 「お……おう」  チラッとテレビ横のデジタル時計を見ると、まだ八時をまわっていなかった。

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