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亮治③
コートも脱がず、スーパーの袋から冷蔵庫に食材を移している真人に、「は、早かったな」と声をかける。真人は兄の問いに、手を止めずに言った。
「職場の飲み会なんて、気を遣うだけだからね。一次会で抜けてきた」
たしかに真人は、二次会にいくようなタイプではない。
「それにしても早くないか。メシは? ちゃんと食ったか?」
「ふっ。それ、こっちのセリフだから」
わずかに笑った真人の声に、なぜか亮治もホッとする。そうか、と思った。自分は、真人に早く帰ってきてもらって、うれしいのかもしれない。
亮治は真人のそばに行くと、スーパーの袋の中に手を突っこんだ。卵のパックを手に取り、真人へと渡す。
真人は意外そうな顔をして、「なんか作る?」と訊いてきた。現金なモノだが、そう言われた腹は、亮治の意識を無視してグゥと虫を鳴らした。
ふっと、真人が左手の人差し指を口元にもってきて笑う。少し前に、牧野と鍋をやった時。野菜を切っていた際に、包丁で怪我をしたところだ。痕もなく、怪我はいつの間にか治っていた。
料理に使う材料だけをキッチン台に置いて、冷蔵庫への収納を済ませた後、やっと真人はコートを脱いだ。その際に亮治はふと気になって、真人の左手首をとった。まじまじと、包丁で切ったところに視線を送る。
「な、……っに」
真人の手首は、一気に身を固くする。だが、真人は触られると縮こまる癖があるのだ。はじめは恐怖からくるものだろうかと思ったが、本人曰く、ただの癖だと言っていた。
セックスをするような関係になってから知った、真人の一つである。だから、気にしなかった。
「……いや、治ったかなと思って」
「は……?」
「いや、だから、指」
「……そんなの、見ればわかるでしょ」
よく見ると、真人の左手の人差し指には、まだ小さな傷があった。かさぶたもとれて、一見すっかり治ったかのように見えるけれど、他の肌と色がちょっと違う。
人差し指から目をずらし、真人の顔を見る。え、となったのは、真人の顔が心なしか赤かったこと。
「に、兄さんはさ」
「うん?」
「な、なんであの時、僕に――……」
「あの時?」
どの時なのかわからず、亮治は考えているうちに真人の手首をそっと離した。
真人は「やっぱりなんでもない」と言って、左手の人差し指を親指の腹でなぞる。キッチンを向くと、そのまま黙ってしまった。
人の不機嫌に触れるのは、昔から苦手だ。亮治は腕を伸ばして、後ろから真人の体を包んで抱いた。自分より十センチほど低い真人の頭に、鼻をこすりつける。
最近、真人の体に触れているとひどく落ち着く自分がいる。昔から恋焦がれていた体というだけではない。やはり兄弟として過ごしてきた分だけ、真人は自分を理解しようとしてくれている――それが伝わってくるからだ。
心地いいのだ。だから、最近はセックスをしないで真人の体を胸に抱いたまま眠ることもある。その方が、きっと真人も苦しくないんじゃないかと……。
ぎゅうっと背中から抱きしめていると、真人がおそるおそる後ろを向いた。
「……するの?」
唇が緊張ぎみに震えている。濡れた目も、子犬のように震えている。可愛かった。
亮治は正面から真人を抱き直し、真人の頭をゆっくり撫でた。真人の髪は、特別なことはしていないのに、冬の乾燥にも負けない。それだけサラサラで……ずっと触っていたくなるのだ。
「おまえがいいなら、したい」
そう答えると、真人がこちらの首に腕を回し、ぎゅっと抱き返してくる。最近、亮治が甘えると、真人も甘え返してくるような気がする。
その方が、亮治もありがたかった。渋々応えてる姿を見せつけられるよりは、嘘でも甘えてくれた方が気分はいい。
この時、自分がいかに自分勝手だったか――。そんなことを知る由もなく、亮治は真人の服を脱がしにかかったのだった。
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