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亮治⑥

***  三が日も過ぎ、真人とともに自宅へと戻ったのは、三日の夕方だった。日が暮れるのも早く、母が夕飯を用意する前に帰ってきたのだ。  おせち料理にもお雑煮にも飽きていたため、「お餅いくつにする?」と母が言った時には「もう帰るよ」と亮治は口にしていた。早く……早く、家に帰りたかった理由を、亮治は正月料理のせいにしないといけないような気がしたのだ。  本当はきっと、それだけではないというのに。  見合い話ーーほどではないが、真人に紹介したい人がいると、母は言った。真人の気持ちに気づいた亮治である。当然のように真人が断ると、勝手に思っていた。  だが。  真人は言ったのだ。会ってみるーーと。  亮治は耳を疑った。まさか真人が会ってみる気になるとは思わなかったからだ。それがいかに傲《おご》りたかぶった考えかを理解して、恥ずかしくなった。  どうして。  そんな疑問を抱く権利なんてないはずなのに、亮治は心の中で何度も唱えた。  自宅の玄関ドアを開けた真人は、帰ってきてからでいいやと溜めていた洗濯物を片付けに、脱衣所へと向かってしまった。亮治といえば、ソファに脱力したまま自分の胸に沸いた感情に戸惑っていた。  立ち上がり、真人のいる脱衣所へと向かう。「俺がやるよ」と衣服を洗濯機に放り込んでいる真人の背中に尋ねると、真人は「なに企んでるの」とふわりと笑った。 「べつに企んでなんか……なあ、真人」 「うん?」 「その……さ、会うのか?」 「会う? ああ、母さんの友達の? うん。僕もそろそろかなって思ったから」 「そろそろってーー」 「うん。結婚して、家庭をもつ」  キュッと胸が締めつけられ、亮治は思わず真人に手を伸ばした。だが、さりげなく避けられてしまい、触れることはかなわない。 「だっておまえ……」  突然、真人がバンッと洗濯機を叩いた。真人の急な行動に、亮治はビクッとなる。そして真人は、突き放したような声で言った。 「兄さんには関係のないことだよ」  きっぱりと言われてしまい、亮治は思わず「関係なくないだろ」と反論した。 「じゃあ訊くけど、僕が家庭を持ちたいって思うことのどこが、兄さんに関係があるっていうの」 「そ、それは……」 「兄さんだって勝手に結婚して、なんの相談もなく離婚したじゃないか。僕だって、それと同じだ……自分の意思で、そうしたいって思った。だから、会ってみようってーー」 「俺は兄貴なんだぞ」  真人が怒りとも失望ともつかない表情で、「は?」と首を突きだした。 「俺はおまえの兄貴だから……関係ある」 「馬鹿にしないでよ! 今さら……あんたは都合のいい時も悪い時も、必ず『兄弟』のせいにする! 自分の都合で! それに僕がどれだけ苦しめられてきたか……あんたは知らないんだ」  真人が投げたバスタオルによって、視界が白いタオル生地に覆われる。真人の叫びに、亮治はきゅっと下唇を噛んだ。頭に被さったバスタオルを取ると、涙に濡れた真人の目と、久しぶりに目が合った。  真人の涙を見るのは、これで何度目だろうか。子どもの頃は、こんな風に泣くような人間ではなかった。 「……僕が悪かったよ。こんなわけわかんない性癖の兄さんに『自分はどうだ』って提案した僕が」 「真人のせいじゃない、俺が……」 「ぜんぶ……僕のせいだって言ってるんだから、もうそれで勘弁してよ……っ」 「……っ」  振り払われるとわかっていたが、亮治は真人の体を抱いた。案の定真人は亮治の胸の中で暴れたが、離したいとは思わなかった。  それは明らかに、欲からくる感情ではないということも自覚していた。  この男を、離したくない。 「好きに……なれるようにする」  ピタッと、腕の中でもがいていた真人の動きが止まる。 「真人のことを、好きになる。努力する。だから……」  少し腕の力を緩めて見ると、真人の焦点の合っていない目が飛びこんできた。死んだような、精気の抜けたような瞳――その瞬間、亮治の頭は後悔の波に襲われ、真っ白になった。  なんてことを、言ってしまったのだろう。取り返しのつかないことを、口にしてしまったんだろう。 「ご、ごめんっ」  謝った時には遅かった。細い体からは信じられないような力で突き飛ばされ、亮治は廊下で尻餅をついた。  真人の震える目が、自分を見下ろしている。そして苦しげに目蓋(まぶた)をキュッとつぶり、両手で顔を覆うと、吐き出すように言った。 「そんなこと……望んでないよ……っ」 「ご、ごめん……」  そこでようやく、自分は真人から何も言われていないことを思い出した。好きだとも、好きになってほしいともーー。 「僕は兄さんに、なにも望んでない。好きになってほしいなんて思ってないし、こんなことになったからって、出ていってほしいとも思ってない。ぜんぶ兄さんの自由だ」 「……」 「だから僕に……僕に、なにも望まないで……っ」  真人はやり場のない感情を預けるように、洗濯機に寄りかかった。 「なにもいらない。なにもいらないから、僕にも望まないでほしい……っ」  言わなくてもわかる。それが何を意味するのかを。  真人は自分に、特別な感情を抱いている。だが、何も望んでいないという。そんなことがありうるのだろうかと、亮治は瞬時に考えた。自分だって、元妻である由希子のことがほしかった。ほしくてほしくて……だけど、抱けなかった。  矛盾は存在する。矛盾だらけの自分が、現にここに存在するのだから。  だが、真人は?  真人は矛盾なんかしていない、と亮治は思った。真人から感じられるのはーー。 「なんにも言わないんだね……ま、もうどうでもいいけど」  足下に落ちていた白地のバスタオルを、真人は拾って洗濯機に放りこんだ。心底どうでもよさそうな手つきに、亮治はゴクリと唾を飲む。 「トイレのタオル、持ってきてくれない?」 「え……?」 「それとキッチンのタオルも。洗濯機回したいから」 「あ、ああ……」  亮治は壁に手をついて立ち上がり、トイレとキッチンに急いで向かった。タオルを取ってくると、真人は「ありがとう」と言って受け取った。  そうか、と亮治は確信した。真人から感じられるもの、それはーー 『(あきら)め』  なのだ。

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