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亮治⑥

 真人は自分のことを好きだけれど、同時に諦めてもいる――。  つまり、一番近くにいる真人が、自分にとって最も遠い場所にいるということでもあるのだ。  どうしてそんな難しいことが、この男にはできるのだろう。通常ならほしいと思う相手を、心底どうでもよさそうな目で見つめられるのだろう。  亮治は真人の切り揃えられたうなじを見つめながら、呆然と立ち尽くす。  洗濯機に洗剤を入れ、スイッチを押した真人が脱衣所を出ようと振り向いた。驚いて「まだいたの」と笑顔を作る真人の眉が、少しだけハの字に下がる。  繊細な筆で引かれたような眉尻は、子どもの頃から変わらない。  それを見た瞬間、亮治はあることを思い出した。  あれは高校の時だ。亮治が三年生、真人は一年生だった。当時から、亮治の性格や考え方の根っこは、陽気で楽観的な部分をだいたいが占めていた。  ただ……彼女ができるたびに参ってしまう自分に気がつきはじめたのも、この時期だった。そんな風に、自分に嫌気がさした時。亮治は屋上につづくドアの手前にあるスペースで、何をするわけでもなく、射しこんでくる外の明かりを、一人ぼんやりと眺めることにしていた。  何かから解放されるわけではなかったが、その一瞬だけ、自分のことを考えずに済んだのである。友達も当時付き合っていた一年生の彼女のことも好きだったけれど、近づけば近づくほど、自分自身のことを嫌いになっていく原因にもなった。  それは昼休みのことだった。毎日一緒にお弁当を食べていた彼女が、先生か誰かに呼ばれたとのことで、亮治は久しぶりに一人の時間を持て余していた。彼女との付き合いがちょっと負担になっていた時期だったため、亮治は牧野の誘いも断り、例の場所で寝っ転がりながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。  その時、階段の下の踊り場から、聞きなれた声がしたのだ。男女の声。女の方は、亮治が付き合っていた一年生の彼女だった。  男の方は――。 「きゅ、急にごめん……その、好き……です。よかったら、僕と付き合ってください」  真人だった。  亮治は音を立てずに起き上がり、おそるおそる壁と手すりに隠れて、踊り場を見た。角度的に真人の斜め後ろの姿だけが、視界に入る。  付き合っている人がいるから、と真人はあっさりと振られていた。ダメもとだったらしい。謝る彼女に「気を遣わないで」と言って明るく振る舞っていた。  その夜、亮治が風呂から上がると、リビングで本を読んでいた真人が「松井さんって、兄さんの彼女だったんだ」と言ってきた。バスタオルで顔を隠すように「あー、うん」と返すと、真人は「知らなかったから、告白しちゃったよ」と笑った。 「いい子だね。僕のこと、自分の彼氏の弟だって絶対知ってたはずなのに。そういうことを、一切言わなかった」  真人は本に目を落としたまま言った。「俺の彼女だって知ってたら、コクってなかった?」と訊くと、真人は本から顔を上げた。そして眉をハの字にして笑うと、こう言ったのだ。 「まさか。言ってたよ。兄さんには悪いけど」  と。  亮治が不思議そうな顔をしていたのだろう。真人は続けた。 「相手に伝えないと、無かったことになりそうじゃない。そう考えた時に、思ったんだよ。それはちょっと嫌だな……って。無かったことにはしたくないなって」  脱衣所から出て行く真人の足音で、亮治はハッと我に返った。どうして当時のことを、今になって思い出したのか――。それは、ただ、あの時に見せた笑顔と、今さっき自分に向けた笑顔が似ていたというだけではないような気がした。  ――無かったことには、したくないなって。  高校生の真人の声が、どこからか聞こえてくる。それで亮治はわかった。  無かったことに……したいのだろう。兄と体を繋いだこと、そして兄に恋をしてしまったことを。  ツキッと胸に痛みが走る。亮治は廊下で立ちすくんだまま、ウインウインとうなる洗濯機を見つめる。  真人と交わるのが当たり前になっていた一、二ヶ月間。亮治はこれ以上の幸せはないと思っていた。すべて真人の我慢によるものであったことに、気づきもしないで……。  真人にとってはつらい日々だったかもしれない。だが、真人が自分にくれた幸せは本物だった。現実だった。それを自分は、無かったことにしたくはない。  それを認めた時、亮治はたまらなくなった。自分だけが覚えていればいいだけの話なのに、どうしてだろう。心のどこかで、真人に、無かったことにされるのは苦しいと叫ぶ自分がいる。  リビングから、「向こうでお餅食べ過ぎたから、今日は軽めでいいよね」という声が聞こえてくる。なんて普通の声。体を繋げる前と同じ声の調子だろうか。  口は開けれるのに、亮治はそれに返すことができなかった。

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