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亮治⑦

***  家にいると、息がつまりそうだった。家事は真人が滞りなく済ませているし、亮治にはこれといった趣味がない。  仲の良かった友人達からも、向こうの結婚とこちらの離婚を機に、あまり飲みに誘われなくなった。じゃあ自分から誘えばいいとは思うのだが、SNSに投稿された写真で子煩悩な姿を見るたびに、悪いような気がして誘いにくい。  土曜日の昼時である。牧野は今日、製薬会社の営業マンと釣りに行っているらしく、飲みに誘ったら断られた。あいつが釣りねえ、と思ったが、竿がしなるまで待つのは嫌いじゃないようだ。先ほど釣ったらしい鯛の写真が、スマホに送られてきた。  休みのはずの真人が出かけていったのは、一時間半前のこと。紺のカジュアルスーツに身を纏い、髪型をいつもより念入りにセットしていた真人に、亮治は訊いた。 「今日どこか行くのか?」  真人は平然としたようすで、ワックスでべたついた手を洗った。 「まあね。この前話したでしょう。母さんの友達の」  ドキリとして、亮治は咄嗟に真人から目を背けた。 「あ、ああ……あれか」 「そう。今日会うんだ。ホテルの懐石料理だって。びっくりだよね。もっとカジュアルな席かと思ってたんだけどさ」 「……」 「向こうの家って、地主さんらしいんだ。僕なんかでいいのかなって思うよ」  真人は手を洗い終わると、脱衣所の電気を消した。 「それじゃ、行ってくる」  思わずその手を掴みそうになって、亮治はグッとこらえた。コートを羽織り、颯爽と玄関のドアを開けて出かけていく真人の背中は、そんな亮治の気持ちなんて、心底どうでもよさげに見えた。  真人が家を出ていった光景を思い出して、亮治はベランダで煙草を吸う。普段はあまり吸わないようにしているが、今日は無性に吸いたかった。  真人と食事をしている女性は、どんな相手なのだろう。真人はその女性を気に入るのだろうか。  そんなことが頭をよぎっては、指に挟んだ煙草を口に持っていってしまう。  このままじゃ駄目だと、亮治が外に出たのは、午後の(かげ)りが見え始めた頃だった。空が高く、鼻の先に冷たくて乾いた風が触れると、身の縮こまる思いがした。  ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、かすかながら暖を得ようとする。  コーヒーでも飲もうとカフェに入ろうとした時である。カフェの自動ドアのところで、亮治は店の外に出ようとした女性とぶつかった。突き飛ばすつもりはなくても、体格差で相手の体をよろけさせてしまう。 「あっ、すいません」 「いいえ、こちらこそ――」  同時に互いの顔を認めて、亮治は「!」となる。  それは元妻である、由希子だった。  長くストレートだった黒い髪はボブになり、少し吊り上がった一重の目は、一見冷めたように感じるが、奥ゆかしさも秘めている。最後に見た由希子の姿と重なり、亮治は思わず「げ、元気?」と訊いていた。  感情があまり顔に出ないが、由希子もそこそこ驚いているらしかった。 「え、ええ。亮治君は?」  由希子は耳に短くなった髪をかけつつ、目を伏せた。 「あ、うん。まあなんとか。いろいろあって、今は弟のところに世話になってる」  いろいろあって、のところで、由希子はチラッとこちらを見上げた。昔から察しのいい女性だ。何かが引っかかったようだ。  だが、そこを深く追求してくることはなかった。それが夫婦と、夫婦ではない男女の差だと、亮治は思った。 「せっかくだし、お茶でもしていく?」 「え、でも今出ようとしてただろ?」 「友達と待ち合わせしてたんだけど、仕事で遅れるそうなの。本屋さんでも行こうかなって、思ってたところだから。時間はあるわ」  そもそも、互いを嫌いになって離婚したわけではないのだ。一人娘を捨てた男として、向こうの両親の手前、今でも月々に少しずつ慰謝料を払っている。だが、最後まで由希子との関係が悪くなることはなかった。ただ、セックスが無いだけで……。  ――私、子どもがほしいの。だから亮治君とは……  そう言われた時、亮治は正直、ホッとした。これで解放されると、思ってしまったのだ。亮治は子どもを望む由希子の選択を、止めようとはしなかった。  ――ああ、別れよう。  その時の由希子の顔を、亮治はいまだに思い出すことができない。  元夫婦が、待ち合わせ時間までカフェで顔を突き合わしているというのもおかしな話である。亮治はブラックコーヒー、由希子はホットカフェラテを片手に、窓際の席に座った。   日曜日の昼下がりには、よくこうしてコーヒーを飲みながら、当時住んでいた部屋のリビングで、いろんな話をした。なんでもないようなほのぼのとした空気が流れ、胸の奥が切なさに似た幸福感でいっぱいだったことを思い出す。  由希子といると、亮治はたしかに安定していて、幸せだったのである。  慰謝料や互いの両親の話を、なんとなく避けながら、亮治は久しぶりの由希子との会話を楽しんだ。  ひとしきり話し終えた後、家族の話を避けていた由希子がポツリと「真人君は元気?」と訊いた。  一瞬で柔らかな空気が凍りつくように感じ、亮治はコーヒーの入ったマグカップを落としそうになる。 「今は真人君のところで、一緒に暮らしてるってことでしょう?」 「あ……うん」 「覚えてる? あなた達の実家の掃除機が壊れたからって、三人で新宿に行った時のこと」 「ああ、もちろん。あの時のやつ、まだ母さん使ってるよ」  そう。それは意外と家電に詳しい真人を連れて、三人で家電量販店に掃除機を買いにいった時のことだ。会計時、亮治が財布からクレジットカードを抜こうとしていると、担当してくれた爽やかな店員が言ったのだ。  ――奥様の弟さん、とても家電にお詳しいんですね!  当時を思い出したのか、由希子はふふっと笑ってからカフェラテをゆっくりと飲んだ。 「亮治君より、私の方が真人君に似てたのね。あの時は笑ったわ」 「……そう、だな」

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