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亮治⑦
真人の話は、あまりしたくなかった。正月明けのやりとりを思い出して、苦しくなってしまうからだ。それに今頃、真人は――。
顔も知らない女性と笑いあう真人を想像して、亮治は自然と眉間に力が入ってしまう。そんな時、真人は子どもの頃から、盛り上がった自分の眉間の皺をエレベーターのボタンを押すように、指で押してくるのだった。
二度と押してくれることはないだろう。そんな気がして、亮治はやりきれなかった。残念……なのだろうか。最近、真人のことを考えては、やるせなくなることが多い。
「亮治君は今、いい人はいるの?」
由希子に訊かれ、亮治は顔を上げる。こんなに際どいことを、サクサクと訊くような女性だっただろうか。言葉を濁しながら「や、今は……」と否定すると、「私はいるの」と笑った。
懐かしい空気感から、一気に現実に戻され、かすかに芽生えかけた期待が引き潮のように引いていく。気が抜けて、亮治は大息をついて背もたれに重心を預けた。
「なに、もしかしてショックだったの?」
「そういうこと言うなよ。よかったよ、由希子が新しい人と幸せそうで。もしかして、これから会う友達っていうのもあれか?」
「その通り……って、なに? さっきから不思議そうな顔してるけど」
「いや、だからなのかって思ったからさ」
「?」
「なんとなく、由希子の雰囲気が変わったような気がして。前よりもサバサバしてるから」
あら、と言うと、由希子はマグカップを口から離した。
「これは亮治君のせいよ」
「え?」
「私、子どもがほしいって言ったじゃない。あれ、あなたと離婚したいっていう意味じゃなかったのよ」
由希子の言葉に、亮治は啞然とした。
「え、だって俺とはもう無理だって――」
――私、子どもがほしいの。だから亮治君とは……
由希子は当時の控えめな口調を意識するように言った。
「『亮治君とは、夜の生活ができないぶん協力して、人工授精や体外受精で不妊治療したいの』」
言い終わった由希子は、窓の外を眺めながら、「もう終わったことだけど」と寂しげな顔をする。
「う、嘘だ……だって由希子おまえ、俺が『別れよう』って言ったら、すぐに離婚届をもらってきたじゃないかっ」
「亮治君が勘違いしてることはわかったわ。でもね、『ああ、これがこの人の本心なんだ』って思ったら、呆然としちゃったのよ。だって、あんなにもあっさりと『別れよう』だなんて……私だったら絶対に言えない。亮治君のことが、本当に好きだったから」
頭を鈍器でガツンと殴られたような衝撃に襲われ、亮治の目の前は真っ暗になった。口の中が乾く。まわりの音が、遠のいていく――。
由希子は当時の苦しみを思い出しているのか、唇をわなわなと震わせていた。
「亮治君、あなたはもう、誰とも触れあっちゃダメ。じゃないと、相手の人が本当に可哀想で……。あなたは優しいから、求められればその手を取ろうとするでしょう? でも、同じ気持ちになれないからって、いつも手放したり、逃げたりする。そんなのって……あんまりじゃない」
かつて愛した女性に、自分は一体、何を言わせているんだろうか。放心状態のまま、亮治はどこか他人事のように目の前で感情を吐露する由希子を見つめる。
――だから僕に……僕に、なにも望まないで……っ。なんにもいらないから、僕にも望まないでほしい……っ。
どうして、真人の声が聞こえてくるのだろう。
亮治は太ももに置いた自分の両手が、かすかに震えていることを認めた。いや、焦点が合わないために、目が揺れているのだろうか。それとも、この世界自体が――。
揺れる。何もかもが、揺れる。
この世界じゃない。由希子でも、真人でもない。本当は気づいていた。いつだって揺れているのは、自分自身だということに。だけど、亮治はそんな自分を見ているようで、まったく見ていなかったのだ。まっすぐと直視しているようで、どこか他人事のように上から見ていただけにすぎない。
大切な人ほど、苦しそうに亮治の前で泣く。批判し、詰 り、最後には亮治のことを諦めて去っていく。きっと、それだけ自分のことを愛してくれていたからだ。
どうして今まで、平気でいられたのだろう。自分以上に、藤峰亮治という人間を見つめていてくれた人達を、無下にできていたのだろう。
「亮治君、大丈夫……?」
由希子の声に呼び戻され、亮治は自分の頬が濡れていることに気がついた。
「あ、あれ……俺、なんで……」
感情の伴っていない涙に、亮治は戸惑う。
「なんで、泣い……あ、時間……大丈夫、か? 俺もそろそろ……真人が帰っ――」
『真人』
口に出した途端、駄目だった。感情に覆いかぶさる蓋という蓋が一気に開き、亮治の視界は完全に見えなくなった。口を両手で覆い、前屈みになって額をテーブルに押しつける。
「ふ……っう……っ」
涙と嗚咽が、一体どこからくるのか、亮治にはわからなかった。どうして真人の姿を脳裏に浮かべると、どうしようもなく胸が締め付けられるのかも。
由希子は手を差し伸べてこなかった。紙ナプキンを持ってくることも、慰めの言葉も言わなかった。ただ一言だけ。
「私ね、亮治君に言いたいこと、本当はもっとたくさんあったのよ」
それが亮治には申し訳なくて……心底ありがたかった。
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