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亮治⑧
***
由希子と別れた後、亮治は寄り道することなく、真っ先に帰宅した。早く真人に会いたかったからだ。
玄関の鍵を開け、中へと入る。真人が出かけに履いていった靴は三和土 にはなく、まだ真人が帰ってきていないことがわかる。
リビングに足を踏み入れると、亮治は不思議な気持ちになった。ソファの横のサイドテーブルに置かれた家電批評の雑誌、真人が毎朝コーヒーを淹れる唐津焼のコーヒーカップ、テレビの上にかけられたシンプルな丸い時計、毎食どこからか出してくる網目状のテーブルマット……。
これが、真人だ。
はっきりとそう思った。亮治は普段見ている生活の中に、真人の気配を感じた。
そこかしこに真人がいる。真人に包まれて、ずっと自分は守られてきたのだ。この数ヶ月……いや、子どもの頃から。
ガチャリ、と玄関から音がして、亮治は振り返った。急いで廊下に飛び出すと、真人が玄関で靴を脱いでいた。
寒かったのだろうか、鼻が少し赤い。可愛いと思うのは、真人の中に幼少期の真人を見いだしたからではない。
亮治は前のめりになって、真人の元へと駆けつけた。「な、なにっ」と困惑する男の体を抱きしめる。久しぶりに抱く真人の体からは、共同で使っているシャンプーの香りがした。その中にコーヒーの香りも見つける。それが真人から漂うのか、自分から漂うのかはわからない。
そんなことは、どうでもよかった。
身をよじらせて「離してくれ」と訴えてくる真人の体を強く抱きしめる。以前は、「好きになれるよう努力する」なんて酷いことを言って、真人を傷つけた。
だが、もう二度と失敗はしたくない。傷つけたくない。
亮治は自分の心臓の音をわかってもらいたくて、真人をさらに強く胸に抱いた。
「好きだ」
その三文字を口にした途端、真人の動きがピタリと止まった。この前と同じだった。だけど、今回は自信があった。真人への想いに、自分の気持ちに。
それが……いけなかった。
おそるおそる体を離すと、真人は「それで?」と言った。
「え……。だから、その、俺と……」
『付き合ってほしい』ーーーーという言葉は、なんだか違うような気がした。兄弟だった期間が長い分、言えない。
勝手だけど、ニュアンスでわかってもらうしかないのだ。本当に、勝手だけれど……。
真人は呆然としたまま、自分の靴の先を見つめていた。「真人?」と顔を覗くと、真人はハッとなって我に返った。
「……ごめん。ちょっと今、自分でも驚いてて……」
真人は手で顔を隠すように覆う。
「ほしくないと思ってたんだよ、兄さんなんて……。でもやっぱりほしくて……それなのに、どうして僕は今……」
真人は続け様に、「どうして嬉しくないんだろう」と言った。そして玄関のドアにもたれかかると、ちらりと亮治を見て、再びうなだれる。
「兄さんはさ、たぶんそろそろ我慢できなくなったんだと思うよ」
「は……?」
「僕らがセックスしなくなってから、どれぐらい経つんだっけ」
「お、おい。なに言って――」
「そうだよね。兄さんだって大人なんだから。病気とか色恋沙汰に注意できれば……いいんじゃないかな。出会い系のアプリとかで相手を探しても……」
バンッ!
気づいたら、亮治は真人がもたれかかっている玄関ドアに拳を振り下ろしていた。わなわなと震えている自分の拳が、横を向いた真人の鼻先で苛立ちを抑えようと、血管を浮き立たせている。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。真人がこちらを見てくれないから、その瞳に映る自分の顔さえ確認できない。
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