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亮治⑧

 亮治がドアから拳を下ろすと、真人はずるずると横向きのまま、三和土に腰を落とした。  ハッと我に返り、驚かせてしまったのだと焦る。亮治は膝をついて、真人と同じ目線までしゃがんだ。 「わ、悪かった。でもなんで……どうして、そんなことを言うんだよ」 「……じゃないか」 「え……?」 「なにも望まないでくれって、僕は言ったじゃないか……っ」  絞り出す真人の声に、亮治はグッと息を詰まらせる。確かに真人は『自分になにも望むな』と言った。だけど、真人のことが好きだと自覚したのだ。努力なんてする必要もなく、真人のことが好きだと。  これが恋じゃないというのなら、一体何だというのだろう。喉の奥に何か詰まっているような息苦しさも、部屋の中に真人の名残を探してしまうのも、どこの箇所でもいいから肌を触れ合わせていたいと思うのも……これが恋じゃないというのなら。 「俺は真人が好きなんだ。だから……おまえがほしい」  真人の手をとろうとすると、「やめてくれっ」とバシッと振り払われた。  胸にズキッと痛みが走る。亮治は拒絶された手を下ろすことも忘れ、うずくまる男をただ見つめることしかできなかった。  ゆっくりと手を下ろしながら考える。どうすればいいんだろうか。傷つけた相手の傷を、無かったことにはできない。傷つけたのは紛れもなく自分だけど、傷は……真人のものだからだ。自分が真人の傷を癒すことができるなんて、思っていない。思っちゃいけない。  自分にできること。それはーーーー。  亮治は胸に手を当てて、真人に向き合った。 「き、気づいたんだ。俺は……男とか、女とか、関係ない……性癖を問題にして逃げてただけなんだって。ただ俺自身が、誰のことも見ていなかった。誰のことも、愛してなかっただけなんだって……」  懺悔(ざんげ)はいらない、というように、真人が首を横に振る。だが亮治は止められなかった。 「俺は……ゲイでもバイでもない。誰も好きになったことがない、バカな男だ……っ」  前、真人から『可哀想』という言葉で非難されたことがある。その言葉が今になって、こんなにも自分の存在を否定するものだとは、その時は知りもしなかった。  でも、やっと気づいたのだ。愛してくれていた人達がいると、気づいたから――。  沈黙が、重たい空気をさらに重たくしていた。平然と立つドア横の傘立てが、羨ましい。 「風邪引くから、とりあえず早く上がれ」  真人の腕をためらいがちに引き上げる。力の抜けた真人の腕は予想以上に重く、だらりと垂れ下がった。 「遅いよ」  突然、真人が言った。 「もう、遅いんだよ」  亮治はその言葉を無視して、真人をリビングまで連れて行く。ソファに座らせると、真人は疲れたような顔で「なにか飲みたいな……」と独り言を呟いた。  今日会った女性と前向きにまた会うことになったと聞かされたのは、亮治が真人のためにコーヒーを淹れようとキッチンに立った時のこと。  亮治の手から滑った真人のコーヒーカップは、ゴトリと床に落ちたけれど、意外と割れなかった。それを拾おうとした時、ほのかに香ったコーヒーのにおいは真人のものだったんだと、亮治はふと思った。

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