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亮治⑨

***  ほら、と牧野が持ってきたのは、ジンソーダだった。ジンを炭酸で割って櫛切りライムを落としただけの、甘くないカクテル。洋酒と甘い酒が苦手な亮治が、唯一バーで飲める酒だ。  ジンソーダを受けとり、亮治はパチパチと小さな泡が表面に現れては消えるさまを、じっと見つめる。飲まずにそうしていると、「ビールがよかったか?」と牧野に顔を覗かれた。亮治は「いや、サンキュ」と答え、ぐいと細長いグラスを傾けた。  土曜日の夜である。亮治は牧野とともに、学生時代によく来ていた渋谷のバーに訪れていた。  駅や繫華街から少し外れ、青山方面に坂をのぼった先の路地を曲がったところに、そのバーはある。地下へと続く階段を降り、板チョコのような深い茶色のドアにかかったゴールドの看板が目印の、大学生が背伸びしたくなるようなバーだ。  亮治と牧野は大学は違ったが、大学時代、よくこのバーを拠点に、よく牧野と飲み歩いていた。  亮治は安い居酒屋やチェーン店のバーの方が、財布にも優しい&気兼ねもないので好きだった。だが牧野は学生ながら、育った環境のせいでカフェもバーも居酒屋も、質の高い店にしか行こうとしなかったのだ。よって牧野と遊ぶと、財布の中身をよく(から)にしたものである。  今、亮治達がいる酒を飲んでいるこのバーは、そんな高級志向の牧野でさえうなる、そして亮治の財布にも優しい店だった。  人件費があまりかからないのだろう。十年前より少し皺と白髪の増えた店主と、学生らしき二十代前半の男性が二人で酒を作り、カウンター越しにテーブル客が各々取りに行くスタイルは、昔から変わらない。  牧野から「久々に渋谷で飲まないか」と誘われたのは、昨夜のこと。土曜日の渋谷なんて、と思ったが、すぐにあのバーのことを思い出し、亮治は行くと返事をした。  浮かない顔をしていたのだろうか。亮治が狭いテーブルにグラスを置くと、牧野は「元気ないな」とつぶやいた。 「元気……か」 「またどこか体調でも悪いのか? おまえは離婚してから、ずっとどこかしら不調だな」  牧野はウイスキーのロックを舐めるように飲み、脚を組んだ。  先日、真人が母の友人であるという女性の娘と会った。それからというもの、真人は毎週土曜日の昼から夜にかけて、その女性とどこかへと出かけているのだ。  どこに出かけているのか、真人の口からは聞いていない。だが、日曜日にかけてくる母の電話で、否が応でも知ってしまうのだ。  母は真人とその女性がうまくいけばいいと思っているようで、亮治のスマホに毎週のように「真人のようすはどうかしら?」と電話をかけてくる。  その電話で亮治は、真人がその女性と動物園や水族館、プラネタリウムや映画館など、典型的なデートスポットに行っていることを知ったのだった。  ただ会うだけではない。当人達がどう思っているのか知らないが、少なくとも周囲は未来を見据えた関係になることを望んでいる。母から聞かされる願望は、親として至極当然のものだった。  だけど……つらかった。  真人が女性と並んで歩く姿や、女性の手をとる様、食事をする様子などを想像するだけで、亮治の胸は締めつけられた。どんな女性なのだろう……と。  真人は相手の話を、亮治には一切話さないし、こちらも聞かない。だが、聞きたくないのに気になって酒と煙草の量が増えてしまう自分に……亮治は心底嫌気が差していた。  こんなにも、真人への想いを募らせている自分が、信じられなかった。  よほど余裕がないのか、今日は外出時にはいつもつけているワックスをつけ忘れてしまった。久しぶりのバーだというのに、パーカーにコートを羽織っただけという身なりには、駅で待ち合わせた牧野にもあきれられたものだ。  牧野といえば、イタリア製のどこかのブランドのカジュアルジャケットを羽織っている。その裾からちらりと見える腕時計は、高そうだ。ブランドだらけのアイテムに囲まれても、この男には嫌味がない。  照明を落とした薄暗い天井に、牧野の後ろで煙草を吸う客の煙がくゆりながら立ちのぼっていく。コーヒーに回りながら溶けるミルクのようで、先日、落としても割れなかった真人のコーヒーカップのことを思い出す。  モテるんだろうな……と、亮治は対面に座る男を観察しつつ、ジンソーダを一気に煽った。 「おい、一気に飲むなよ。また倒れるぞ」  注意してくる男に、亮治は酔いに任せて「なあ」と投げかける。

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