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亮治⑨

 ノンセクシャルにアロマンティック――そういった性的趣向があることを知ったところで、亮治には正直ピンとこなかった。長年の苦しみは名称が与えられたところで簡単には消えない。真人への恋情が嘘だなんて、思いたくない。 「なら、まずいことを……言ってしまったかもしれない」  突然、牧野が口を開いた。 「は?」 「亮治が男を好きになることはないと僕も思っていたから、言ってしまったんだ。『つらくなったら、いつでも亮治を手放していい。変な責任を感じるな』――と」 「責任……?」  つかみどころのない男が、珍しく動揺の表情を見せている。 「なんて言ってたかな……真人君はもしかすると、欲の()け口としてでもいいから、亮治と寝たかったんじゃないのか」 「真人がそう言ったのかっ?」  歯切れ悪く、牧野が言いよどむ。「言ったというか、これはあくまでも僕の推測――」 「俺らが寝てたこと、真人はおまえに言ったのかよっ?」  焦って訊くと、弱々しく半分開いていた牧野の口が、徐々に閉じられていった。そして明確な意思をもった唇が、「真人君と寝たのか?」と低い声で訊いてきた。怒りを(たた)えたような語気の強さに、亮治はハッとなって口をつぐむ。  牧野は勘の鋭い男だ。亮治と真人の現状からこれまでのことを(かえり)みるような目をして一言、「最悪だ」と発した。  しまった……と、亮治は自分の失言に焦る。真人のためを思って牧野には寝ていたことを言うつもりなんてなかったのに、自分の勘違いから牧野に知られてしまったのだ。  牧野はウイスキーのロックを一気に煽ると、口の端を手の甲で拭った。 「いいか亮治。『相手は弟だ』なんて、ありふれたことを言うつもりは、今の僕にはない。だがな、真人君が無理だと思った時点でおまえに彼をどうこうできる権利は無いんだよ」 「……わかってる」 「わかってない」 「……わかってる」 「わかってないっ!」  声を荒げた牧野が、ダンッとテーブルを叩いた。ちらほらといる客の視線が、亮治と牧野に刺さる。人前で怒りをあらわにする牧野は、初めてだった。 「わかっていたら、真人君が結婚したいと思う気持ちを尊重するはずだっ! そんな子どもじみた嫉妬をむき出しにして、酒や煙草に逃げるなんてことはしないはずだっ!」  牧野は亮治から煙草を奪うと、灰皿に押しつけて火を消した。 「普通の生活をしろ! 朝昼晩ちゃんとした食事を摂って、仕事をして、酒も煙草もほどほどにして……男を好きになれるとわかったなら、他の男と付き合えばいい……っ」  消された煙草に視線を落としながら、亮治は他の男、他の男……と、思考を巡らせる。  だが、考えれば考えるほど、真人の顔がちらついてしまうのだった。くしゃりと顔を歪ませて、亮治は絞り出す。 「男は真人しか……考えられないんだ」  牧野はチッと舌打ちすると、胸ポケットから財布を取りだし、押しつけるように一万円札をテーブルに置いた。 「だったらもっともっと苦しめ。真人君と由希子さんと……僕の分まで」 「え……? おまえの分ってどういう――」  亮治の疑問を無視して席を立つ牧野に、「多すぎる」と言って一万円札を返そうとする。だが、牧野は悔しそうに笑って言った。 「餞別(せんべつ)だ」  店主に後で会計すると伝え、迷いなく店を出て行った牧野を追いかける。だが、路地を抜けた先は、渋谷方面へと流れる人の波にあふれていて、すぐに見失ってしまった。  新旧が入り混じったテナントビルに囲われた渋谷の夜空。星なんて見えそうにないのに、今日は天気がいいのか、うっすらとその存在を認めることができる。  ――僕の分までな。  牧野の声が聞こえてきて、やっとその言葉の意味に気がついた。「苦しめ」と言った牧野。口にした本人が、誰よりも苦しそうな目をしていた。  気づいた後、人混みにもかかわらず、亮治は泣いた。静かに頬を伝う涙を止めようとは思えなかった。  高校の時から隣にいた、優等生の牧野。  亮治が教師に叱られるたび、文句を言いながらも「うちのバカ亮治がすみません」と助け船を出してくれた。  真人への欲を隠しきれていなかった時も、マッチングアプリで出会った男と揉めた時も、たまに自分を強く注意しつつ……でも必ず傍にいてくれた。  だが、もう遅い。  亮治は失ってしまったのだ。一人の親友を――。  それから数年間、牧野は会ってくれなかった。

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