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亮治⑩
***
牧野と別れて家に戻ったのは、午後十時すぎだった。牧野と会っていたのは実質一時間弱。たったそれだけの時間なのに、亮治の肩にはどっと疲れがのしかかっていた。
スマホから牧野に電話しても繋がらない。電源を切られているのか、はたまた着信拒否をされているのか……頑固な男だ。しばらくは、会ってくれるどころか電話にも出てくれないだろう。
部屋に真人が帰ってきた形跡はなかった。土曜日の夜、いつもなら七時前には帰ってくるはずだ。けれど、今日に限って部屋に真人の姿はない。
広く感じるリビングで、コートも脱がずにソファに腰を下ろした。なんだか無性に寒かった。関節も痛いような気がして、亮治はぶるっと体を縮こませる。明かりもつけずに横になると、ソファに触れた頬がやけに冷たく感じた。
ソファが冷たいんじゃなくて、自分の顔が熱いんだと気づいた時には、意識が朦朧としはじめた。酒だって二杯しか飲んでいないのだ。この体調不良がアルコールによるものでないことを自覚しつつ、亮治は目をつむる。
こんな時、牧野に連絡したら、あの男は「救急車でも呼べ」と軽口を叩きつつ、駆けつけてくれていた。結婚していた時はさすがに駆けつけてくることはなかったが、それでも電話で由希子にアドバイスをしてくれた。
――少し落ち着いたら僕のところに来い。点滴くらい、してやるよ。
電話越しに聞く牧野の声を思い出し、亮治はズズッと鼻をすすった。甘えすぎていた。ずっと……自分は。
目が覚めたのは、額に冷たいものが乗せられるのを感じたからだった。ひやりと冷たく、冷却シートのように張り付いている感じもしない。頭を少しでも振ったら落ちてしまいそうだった。これは……濡れたタオルだろうか。
亮治が薄目を開けると、ぼやけた視界が飛びこんできた。輪郭のはっきりしない人の形が、自分を見下ろしている。
「ま、こ……」
手を伸ばそうとするが、受け取ってはもらえず、力尽きた亮治の手はソファにボスンと落ちる。徐々に視界がクリアになってきて、自分を見下ろしている人物が「あら」と言った。女の声だった。
「ただいま。ごめんね、留守番頼んじゃって」
という聞きなれた声も、後からリビングに入ってくる。
「いいえ。それより真人さん、ちょうど今、お兄さんも起きられたみたいです」
え、誰……?
亮治はぼーっとする頭の中で、女の顔を検索する。だが、何度ふるいにかけても、女の顔は亮治の網には引っかからなかった。
「気分はどう?」
と、ソファの背もたれ側から顔を覗いてきたのは、真人だった。
「こ、の、じょせ……れ……」
――この女性、誰?
そう訊きたいのに、扁桃腺が腫れているのか、喉がすごく痛い。それゆえ、会話もままならない。
真人は亮治の額からタオルを取ると、今度は本物の冷却シートを額に貼ってくれた。安定感のある冷たさが心地よく、一瞬だけ体の不調を忘れる。
苦しそうに口をパクパクさせる亮治に気づいたのか、真人が言った。
「ああ。この人は双葉さん。ほら、母さんの友達のお嬢さんで、僕と同い年の」
双葉と紹介された女性は、写真で見るより目鼻立ちのハッキリとした、小柄な女性だった。とても真人と同じ三十歳には見えず、女子大生といわれても、おかしくないように思えた。
双葉は人懐っこい笑顔を見せ、ぺこりと亮治に頭を下げる。
「今日は急にお邪魔してしまってごめんなさい」
いや……と言おうとしたら、立て続けに咳きこんでしまい、先ほど吸った煙草の苦みが口内に広がった。
双葉は真人に向かって、「私、今日は帰りますね」と、気を遣った声音で言った。
「うん、ごめんね。せっかく来てくれたのに」
「ううん。お兄さんの体調が万全な時に、また来ます」
そう言うと、双葉は椅子にかけていたキャメルのコートを羽織り、真人に見送られてさっさと部屋から出て行った。
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