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亮治⑪
***
目が覚めたのは、翌日の朝方だった。亮治は真人の寝室――かつて真人と愛し合ったベッドの上に、亮治は寝かせられていた。
真人がここまで運んだのだろうかと首を横に傾げたが、記憶がないだけで自分で覚束ない足を引きずらせてやってきたのかもしれない……と思うことにした。
リビングに行くと、キッチンの流し台に真人が両手をついた状態で、疲れているように頭を下に向けていた。水は流しっぱなしで、リビングには水道から落ちる水の音で響いている。
亮治が起きてきたことに気づいたのか、真人はゆっくりと顔を上げた。その目の下には隈ができていて、唇は不健康そうに乾いていた。
「……お、おはよ」
意識を失う前に飲んだ薬が効いたのか、喉の腫れも痛みも、いくらかマシになっている。
挨拶すると、真人は「はあ」とため息をついて、流し台にあったマグカップを二つ、洗いはじめた。一つは真人のもの。もう一つは、来客用に出すカップだ。
不思議に思い、「誰か来てたのか?」と尋ねると、真人は答えた。
「牧野先生だよ」
「え、牧野っ?」
自分達は昨夜、喧嘩をした。いや、あれを喧嘩なんて言葉で片づけようとするには無理がある。それだけのことが……昨夜、牧野とのあいだにあったのだ。
『餞別』という言葉を使っていた。何度連絡しようとしても、繋がらなかった。
その牧野が昨夜、亮治が意識を失っているあいだに訪れたのだという。
「事情を説明したら、飛んできてくれたんだよ。それで、兄さんをベッドまで運んでくれたんだ」
「そうだったのか……」
「もう遅い時間だったし、始発までここにいてもらった。さっき帰ったばかりだよ」
牧野がつい先程までいたというリビングを見渡す。男のいた形跡は、シンクの上のマグカップだけだ。
ねえ、と水道の水を止めた真人に呼ばれる。
「昨日の夜、僕に好きだって言ったこと、覚えてる?」
「……あ、ああ」
もちろん覚えている。意識を手放す直前、亮治はメッセージアプリから『すきだ』と真人に送ったのだ。脈絡のないタイミングだったかもしれない。だけど、何を言っても真人に聞いてもらえないような気がして……どうせ聞いてもらえないならと、一番言いたいことを指に込めたのだ。
真人は少し乱暴に、マグカップを水切りカゴに置いた。
「じゃあどうして、僕が兄さんと寝てたこと、牧野先生に言ったりしたの……?」
サーッと亮治の頭が冷える。言ったら牧野がどう思うのだろうかとは、実際に考えた。だが、言うつもりは本当になかったのだ。
だけど、てっきり真人が牧野に言ったのかと思い、問い詰めてしまった。それが自白することになるとは、思いもしないで……。
「ちが……っ」
「なにが違うっていうんだよっ?」
「……っ」
何も言えなかった。言うつもりがなかったと否定したところで、口をすべらせたことは事実なのだ。何を言っても、真人には言い訳にしか聞こえないだろう。
「兄さん、昨日僕に言ったよね。『言わなきゃわからなかったのか?』って。その言葉、そっくりそのまま返すよ。言わなくちゃ、わからなかったの? 『言わないで』って」
「……っ」
「熱に浮されてたとはいえ、よくそんなことを牧野先生に暴露したあとで言えたよね。好きだって」
「傷つけたなら謝る……悪かったよ」
「僕は兄さんなんかで、傷つかない。もう傷つきたくもない」
真人は吐き出すように言った。そして布巾で濡れたマグカップを拭きはじめた。
「……牧野先生にはすごく心配されたよ。体も、心も。心配されるのはありがたいけど、僕も男だ……っ。やっぱり恥ずかしくて……きついなあって……っ」
真人はマグカップを拭く手を止めて、流し台に両手をついた。真人のマグカップが、ゴトリとシンクに落ちる。シンクの上に残っていた泡がマグカップの表面につく。
真人は泣いていた。まつ毛に乗った涙の粒を、ポロポロと手の甲に落としながら――。
受け止めたい、と亮治は思った。願わくば頬に線を引く涙の痕 を、舌を這わせて辿りたかった。
けれど、ここで手を伸ばせば、払いのけられてしまうことも同時に理解していた。亮治はグッと拳を握り、太ももの横に置いた。
胸が苦しかった。愛おしい相手が自分の過ちで涙を流している姿を見るのは……つらい。
自分にできること。それは――。
亮治は真人に近づき、シンクの上に落ちたままの真人のマグカップに手を伸ばした。水道の水で泡をサッと流し、真人の手から布巾をなるべく優しい手つきで取り上げる。
そして布巾で拭いたマグカップを、再び真人の手に戻した。
「俺、ここを出る。おまえの前から消えるよ……」
え……と真人が顔を上げる。出ていってほしいさえ思わないくらい、本当にどうでもよかったんだなと思うと、胸がチクリと痛む。
亮治は拒絶に怯える手を悟られないよう、ポンと真人の頭に手を乗せた。拒絶されなくて、ちょっとだけホッとする。真人の額に自分の額をコツンとくっつけてみたけれど、これにも拒絶の手が飛んでくることはなかった。
「今までごめんな」
すぐに額を離し、わしゃわしゃと真人の繊細な髪を撫でる。ずっと触っていたかった。
でも、これでおしまい。
亮治はすぐに、自分の荷物をまとめた。真人の部屋に引っ越す際、必要なもの以外は、すべて実家に置いてきたのだ。亮治の荷物は、ボストンバッグ一つで納まる程度の量だった。
数ヶ月のあいだ、住まわせてもらった真人の部屋。出て行くのは風邪が治ってからでいいと言ってくれたけれど、そんなことをしていたらズルズルと真人の好意に甘えてしまう気がする。
亮治はまだ痛む喉とボストンバッグ一つを抱え、その日の昼には真人の部屋を出た。
行くあてなんて、ないけれど。
道すがらに見上げた冬の空は、すがすがしいほどに晴れていた。最後に見た真人がどんな顔をしていたのか思い出せなくて……ただひたすらに、真人の幸せを願うことしか、できなかった。
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