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亮治⑫

***  真人の部屋を出てから、亮治はとりあえず駅前の漫画喫茶に向かった。土日をそこで過ごし、月曜日は漫画喫茶から会社に行った。  牧野には頼れないし、新しい部屋を探すためにも、ホテルに泊まることで余計な出費は抑えたかったのだ。  だが、そんな生活は長く続くはずもなく、火曜日の午後には治りきっていない熱が再び上がり始めた。会社を早退させてもらい、病院で処方してもらった薬を漫画喫茶のフリードリンクの水で流しこむ。布団もない漫画喫茶の狭い個室で丸まって寝ていると、真人の顔が脳裏にちらつき、目に涙がにじんだ。  ――やっぱり熱が下がるまで、部屋にいさせてもらえばよかったのかもしれない。  ――いや、それはダメだ。  二つの気持ちの狭間で揺れる。熱でぼーっとする頭では、何が正しくて、何が間違っているのかあやふやになる。  手足の伸ばせるベッドか布団で、眠りたかった。暖房のおかげで寒いということはなかったが、本当は上から布団をかぶって眠りたかった。  真人の部屋を出て一週間。コンビニに行く元気もなく、漫画喫茶のレジ横にあるカップラーメンばかりしか食べていなかったせいか、薬を飲んでいるにも関わらず、風邪はなかなか治らなかった。  これはやばい、と思ったのは、会社でパソコン作業をしている時だった。ふと視線を落とすと、両手の指先が震えていたのである。  さすがにこんな生活を続けるのは無理だ。そう判断した亮治は実家の母に電話をして、新しい部屋を見つけるまでしばらくいさせてほしいと頼んだ。  初め、母の麻子は次男と一緒に暮らしているはずの長男の申し出に、何があったのか知りたがった。そんな母に、亮治はこう言うしかなかった。 「俺がずっとあそこにいたら、真人も女の子と付き合いづらいんじゃないかと思ってさ」  半分事実で、半分は嘘だ。自分が部屋にいたところで、真人はあの双葉という女性との付き合いをやめることはないだろう。まだ清い関係なように見えたが、もし本格的に付き合うことになったとしたら……キスやそれ以上のことも、あの小さくて可愛らしい女性とするのだろう。  もしもその形跡を、真人の体に見つけてしまったら。女の残り香を嗅いでしまったら……。  そう考えると、亮治はいてもたってもいられなかった。真人の幸せを考えれば考えるほど邪魔になる自分の存在が……苦痛だった。  母は「喧嘩でもしたの?」と言いたさげだったけれど、風邪が一週間も長引いてると言うとすぐに、「とにかく帰ってらっしゃい」と電話越しに強く言ってくれた。  会社からは有給休暇を一週間もらうことにした。申請前と復帰後が気まずくなるため、あまり使いたくはなかったが、この一週間で完全に風邪を治したかったのである。  だけど、由希子への慰謝料を毎月振り込まなければならないのだ。給与をもらえないのはつらい。  職場に有給の申請をしたその日、亮治は午後六時過ぎに実家へと到着した。正月ぶりに帰る実家は、玄関先のしめ飾りも当然しまわれていて、いつもの風景に戻っていた。  三月初旬。東京はまだまだ頬を切るような寒気に包まれているが、亮治は実家の門を見つけた瞬間、忘れかけていた温かいものが心に流れるのを感じた。  温かい布団の中で、手足を伸ばして眠ることができる。それだけで、わずかだが肩に乗っていた緊張の荷が軽くなる。  出迎えてくれた母は、亮治を玄関に招き入れると、今は物置部屋となっている、以前は亮治の部屋だった二階の部屋に行くよう言った。夕飯の時間帯だったため、てっきり居間に行けばいいのかと思った。だが、母の申し訳なさそうに歪む眉を見て、亮治は理解した。 「ごめんなさいね。お父さんも今、少し体調を崩してるのよ。食事はあなたの部屋に直接持って行くから、お兄ちゃんはゆっくり体を休めてて」 「なんか……こっちこそごめん。父さんに言っておいてよ。『すぐに治して部屋を見つける。そしたらすぐに出て行くから』って」  母は首を横に振って、「お父さんもそんなつもりじゃないわ」と亮治の腕を、言い訳するみたいにさすった。  父の武志は、年々頭が固くなっている。亮治が子どもの頃の父は、息子が不注意でまだ手のつけていないアイスを落としても怒らないで、同じものを買ってきてくれるような父だった。  だが新しい家庭ができ、守るべきものが増えるにつれて、頑固だった部分が強く出てきたように思う。今、亮治がアイスを落としたとしたら。きっと怒鳴りつけて、同じものを買うことはしないだろう。  だいたい、今の自分は大人の男なのだ。そんなことで寂しがるような齢でもないし、ファザコンでもない。

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