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亮治⑬
***
有給でもらった休みも、残り二日となった土曜日のことだった。だいぶ回復したので、亮治は散歩がてら不動産屋に行った。
すぐにでも契約を結ぼうとしたがる不動産屋だったので、時間があまり無いと嘘をつき、物件の資料をいくつかもらうだけにして、夕方までには実家へと戻った。
玄関ドアを開け、三和土 に目を落とす。その瞬間、亮治は手にしていた不動産屋の資料もバサッと落としてしまった。
そこには見慣れた靴――形のよい白のスニーカーがきちんと揃えられて置いてあったのだ。少し汚れているが、白色がくすんで見えるほどではない。定期的に浴室で洗っているおかげだと知っているのは、これが真人のものだからだ。休日にしか履かないことを、亮治が知っているからだ。
呆然と立ちすくみ、不動産屋の資料に囲まれた真人の靴を見ていると、居間の方から母の「おかえりなさい」という声が聞こえてえきた。
頭を上げると、居間からこちらを窺 っている母がいた。
「……た、ただいま」
「今ね、真人が来てるの」
ここに靴があるのだ。言われなくてもわかるが、一応「へ、へえ」と返し、亮治はばらまけてしまった資料をかき集めて拾う。靴を脱いで居間に向かうと、真人はリビングテーブルで茶を飲んでいた。
向こうも気まずそうだ。湯飲みを置くと、ぎこちなく笑った。
「体調はどうなの?」
真人は目線をどこにやればいいか迷っているように泳がせている。
「あ、ああ。まぁなんとか……」
「心配、して……どこかで野垂れ死んでるんじゃないかって」
土曜日といえば、双葉というあの女性と毎週のように出かけているはずだ。今日は行かなかったのだろうか。それとも、これから行くのだろうか……。
とにもかくにも、心配してくれたのだ。様子を見るために、来てくれたのだ。それだけで十分だと思うしかない。
亮治の胸に、うれしい痛みが走る。
亮治は複雑に歪む自分の顔を隠すため、真人に背を向けて、不動産屋からもらった資料をソファに置いた。
日が陰りかかった空を見た母が、ふと真人を見て言った。
「真人、あなた今日お夕飯は?」
「夕飯? べつに考えてないけど」
「そう。なら食べていきなさい。三人分も四人分も変わらないから」
「ほんと? じゃあ、お言葉に甘えようかな」
真人の言葉を受けた母は、スーパーに出かけるため、財布と携帯電話をエコバッグにしまいながら言った。
「お昼も会ってたんでしょう? 双葉さんと。せっかくなら、連れてくればよかったのに」
ズキッと亮治の胸が痛む。そうか。やはり今日の昼間に、双葉と会っていたのか……。視線を感じ、ソファの近くからちらりと横目で見る。すると真人もこちらを見ていたようで、目が合った瞬間に逸らされた。
「きょ、今日は、はじめから兄さんの様子を見にいく予定だったからね。双葉さんも、兄さんに悪いって言ってたし」
エコバッグを肩にかけた母は「優しい方ね」とうれしそうにつぶやくと、亮治と真人を残し、家を出て行った。
久しぶりの二人きり。何を話せばいいのかわからなくて、亮治は困惑した。他の女性の話なんてべつにしたくないし、かといって重たい空気になるような話も今後のことを考えると避けたい。
現在寝泊まりしている部屋に戻ろうかと考えていると、真人が口を開いた。
「ご、ごめん」
「え?」
「その……双葉さんの話」
どうして真人が謝るのだろう。
「それは言わない約束だろ。特にここではさ」
「……」
「俺、母さんが戻ってくるまで上にいるよ。正直まだ、どんな顔しておまえに会えばいいのかわかんねえんだ」
居間を出て行こうとすると、真人に「あのさっ」と呼び止められる。
「もし、僕が今日双葉さんを連れてきてたら……どうしてた?」
今日の真人は変だ、と思った。しかも質問の真意が見えない。
「それを俺に訊いて、おまえこそどうしたいんだよ。俺の答えは一つしかない。どす黒い感情殺して……おまえの兄貴として挨拶するしかねえだろ!」
思わず語気が強くなり、声が天井に響いた。
真人はキュッと下唇を噛んで、悔しそうに下を向いた。柔らかなマッシュヘアの前髪が、暖簾のように揺れる。
「兄さんが出て行ったあと、双葉さんが泊まりに来たんだ」
「だからなんだってんだよ。そんな話……俺が聞きたいとでも思ってんのかよ……っ」
「ごめんっ。でも聞いてほしいんだ」
「うるさい……っ」
亮治は耳を塞いだ。
「キスをして、自然とそういう流れになって……」
「もう黙ってくれっ!」
椅子から立った真人が近づいてきて、亮治の耳を覆う手をどけた。
「でも、いざというときに僕は……兄さんの顔が、浮かんで……っ」
真人は掴んだ亮治の手の甲に目を落としながら、涙目になっていた。
「『できない』って、はっきり思ったんだ」
「……っ。そんなこと、俺には関係ない。あの部屋だから、まずかったんじゃねえの」
真人の部屋の寝室で、何度も自分たちは交わった。そんなところでよく女を抱く気になれたなと、むしろ感心していたところだった。
「僕もそう思ったよ。だからホテルに行こうとしたけど……ダメだった。ホテルにも入れなかった」
そう言う真人に、亮治はおそるおそる訊いてみる。「俺の顔が浮かんで?」
真人は亮治の手を見つめたまま、ためらいがちにゆっくりとうなずいた。
ほのかに頬が赤い……ような気がする。確かめたくて、亮治は真人の手から右手だけ逃れた。顎を親指と人差し指で挟み、くいと顔を上げさせる。
緊張と恥ずかしさに目を震わす真人――その頬は、思っていたよりも赤く染まっていた。半開きの唇からは、さくらんぼのように赤く光る舌が顔を覗かせている。
条件反射のように、亮治は真人のそこに唇を落とした。拒まれることはなかった。短い口づけのあと一旦唇を離し、二人のあいだに唾液の糸が引いた。
目と目が合うと、たまらない気持ちが亮治の胸に押し寄せてきた。諦めると決めたはずなのに、独占欲が腕に蘇ってくる。
亮治は強く、真人の体を抱きしめた。離したくない。誰にも渡したくない。そう思いながら……。
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