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亮治⑬
本当の兄弟――。白々しさを感じるセリフではあるが、少なくとも亮治も真人もそれに守られて、育ってきた人間なのだ。母の言葉を簡単に否定することなど、できなかった。
「それなのに、ついには弟にまで……っ」
「……っ」
おそらく、母は先ほどの交わりが合意によるものではないと、信じて疑わないのだろう。たしかに、服装の乱れや二人の体勢を見れば、亮治が真人を襲ったと見えても仕方がない。
くい、とスウェットの腕の部分を引っ張られ、亮治は我に返った。ちらりと横を見ると、真人が不安そうな表情でこちらを見ていた。僕が言うよ、と口パクで伝えてくる。
真人が言ったところで……母は納得するだろうか。
さっきまで、『この男だけがいればいい』と思っていた時間が、今はこんなにも遠い。うまくいかないことだらけの、真人との関係。問題は掃いても掃いても出てくる埃のように、二人のあいだに積もる。
母はハンカチのようにビニール袋で顔を覆うと、すすり泣きながら訴えた。
「真人はこれから結婚するのよっ?」
「母さん落ち着いて。僕はまだ結婚すると決めたわけじゃない」
「しなくちゃ駄目よ! あなたには……あなたは幸せにならなきゃいけないの……っ。真人は普通の子なんだから……っ」
「ちょっと待ってよ。そんな言い方、まるで兄さんが普通じゃないみたいじゃないか」
「弟に手を出すなんて普通じゃないわよっ!」
性癖がバレても、どんなに馬鹿なことをしても、常に味方であろうとしてくれていた母。その母に、こんなことを言わせてしまうなんて――。
その時、玄関のドアが開く音がした。廊下を歩く足音とともに居間へと入ってきたのは、パートタイムの仕事を終えて帰ってきた父だ。
父は妻と息子二人の異様な空気を察したのか、すぐに「なにかあったのか?」と訊いてくる。母は父の質問に答えることなく、椅子に腰かけたまま「うう……っ」と嗚咽とともに涙を流した。
「じゃあ訊くけどさ、母さんの言う『普通』ってなに?」
「真人、少し喋るな」
「でも兄さん、このままじゃ――」
「いいから」
亮治は両手を膝に置き、母の顔を覗きこんだ。
「母さんは、真人に幸せになってもらいたいんだよな?」
コクン、と母がうなずく。母は父と再婚する前もした後も、亮治と真人のどちらかばかりを可愛がるということをしない人だった。平等に愛し、平等に叱ってくれた。
当時の亮治にはそれがとても嬉しかったのを覚えている。けれど今思えば、母は必死に健全な家族を――理想の家族、本物の家族を追い求めていただけなのかもしれない。
そして根底のどこかには、やはり真人だけは道を間違えないでほしいと思っているのだろう。だから『普通』なんて陳腐な言葉を使ってでも、真人だけは自分達側にとどめておきたいんじゃないかと……亮治は思う。
そして母の求める健全な家族には、嫁と孫も含まれているのだ。それらがないと、母の追い求める『家族』は完成しない――。
憐れむ気持ちを抱きつつも、亮治はそんな母を否定する気にはなれなかった。
亮治の問いにうなずいた母に、亮治は「うん、俺も」と返して、父と向き合った。事情がわからず困惑している父に、事のいきさつを説明する。
真人に欲情したこと。自分が無理やり真人を襲ったこと。その場面に母が遭遇してしまったこと――。真人に対しての恋愛感情だけは隠して、亮治は母の涙の理由を洗いざらい父に打ち明けた。
途中何度も真人の「ちがうっ」という邪魔が入ったけれど、亮治の頑 なな態度に観念したようだった。話し終える頃には唇を嚙みしめて、ただ自分の足元に目を落としていた。
亮治が話している時、父はひたすら絶句していた。まさか弟にまで手を出そうとするなんて、そこまで息子が落ちぶれているとは思ってもみなかったのだろう。
話し終わった後、父は地を這うような低い声で言った。
「……今すぐ出ていきなさい」
すかさず真人が反論する。
「父さん待ってよっ。僕の話も聞いてくれ。さっきのは無理やりじゃないんだ。僕だって――」
「真人は黙ってなさい。私は亮治に言っているんだ」
「……っ」
「亮治にはもう二度と、うちの敷居は跨がせない」
父の言葉に、亮治は奥歯を嚙みしめて「……はい」と言う。そして荷物を取りに二階の部屋に向かった。
部屋の中で、来た時と同じようにボストンバッグに荷物を詰め込んでいると、背中に真人の声を浴びせられた。
「兄さんっ、今のなに……っ? なにを考えてるんだよ!」
「……真人はまだ間に合う」
「間に合うって、なにがっ?」
「母さんも言ってただろ。おまえには幸せになってもらいたいってさ」
「そんなこと、今はどうだっていいよ! 僕が言いたいのは、兄さんはどうして父さんと母さんに、本当のことを証明しないんだってことだ! 二人とも僕の話なんて聞こうともしない……兄さんが自分で言うしかないんだっ。じゃないと、一生、本当に戻ってこれなくなるんだよ!?」
「だろうな」
「だろうなって……これからのことを、考えようよ。僕は双葉さんに言うつもりだよ。もちろん母さん達にもーー兄さんのことが好きだから、結婚はできないって」
「……よせ」
「なんで……! 言ってること……コロコロ変えないでよ……っ」
背中にドンッと衝撃が与えられる。自分の腹に視線を落とすと、小刻みに震えた細い手が、回されていた。背中に感じる体温は、真人そのものだった。
亮治は荷造りの手を止めて、腹にある真人の両手を撫でる。
「悪いな……」
「『好きだ』って、『誰も連れてくるな』って……っ、さっきそう言ったのは兄さんじゃないか……っ」
「それは今も変わんねえよ。だけど……真人まで父さんと母さんからあんな目で見られるのは……俺がキツい」
「でも、話せばきっとわかってくれるって」
亮治は真人の手を腹からどけて、振り返った。「わからなかったら?」
「話してもわかってくれなかったら、おまえだってずっと……いや一生、父さん達から軽蔑され続けるんだぞ。俺はいい。俺はもう慣れた。でもおまえは……っ」
そして亮治は、おそらく真人が最も口にしてほしくないであろう言葉を、耳元で言う。
「おまえは……結婚して、父さんと母さんに可愛い嫁さんと孫を見せてやってくれ」
見ると、真人の目からつーっと涙が一筋、頬を伝った。琴線を一本切ったら音楽を奏でられない琴のように、真人の繊細な心。そこに張られた糸が切れた真人は、ただ何も言わずにはらはらと涙を流したまま、焦点の合わない目で床のフローリングを見つめていた。
今朝、母が掃除してくれた部屋の中。真人から離れた亮治は、荷物を詰め終わってから布団をたたんだ。今までで、一番綺麗にたたんだつもりだった。
今は物置部屋となっている、かつての自分の部屋。亮治はそこに真人を一人残し、ボストンバッグを持って、一階へと降りた。
居間にいる両親に「今までお世話になりました」と頭を下げ、玄関で靴を履いた。玄関のドアを押し、外へと出る。
二十年間の家族ごっこ。それは自分さえいなければ、永遠になるのだ。
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