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亮治⑭

***  トントンと肩を叩かれて、亮治は腕の中に収めていた顔を上げた。口の端からはよだれが垂れ、咄嗟に手の甲で拭う。  アルコールで視界がぐわんぐわんと揺れる中、ここはどこだっけと頭を押さえて考えていると、亮治を起こした男性従業員がきっぱりとした口調で言った。 「うち、カウンターで寝るのは禁止してんのよ」 「す、すいません。いくら?」 「今伝票出すから、ちょっと待ってねー」  栗毛の髪色をした可愛らしい顔つきに似合わず、意志の強そうな眉が印象的な男である。客に物怖じしない態度ができるのは、ここが普通のバーではないからかもしれない。  行く当てもないのに実家を出たのは、夕方のことだ。それから別の不動産屋に行き、とにかく安く借りることができて即入居できる部屋を探してもらった。  けれど、保証人がいないという理由で、条件の合うアパートからは、ことごとく断られてしまった。ただ丸井というラガーマン風の担当だけは、「保証人がいなくても借りれる部屋を探しておきますよ!」と厚い胸板を叩いて約束してくれた。  それから職場のある新宿に出て、フラフラと今夜の宿を探すことにした。そのうちに一日の疲れがドッと出て、その時ちょうど近くにあったバーに立ち寄ったのだ。   狭い店内にもかかわらず外国人や騒がしい男女でひしめきあい、派手なBGMが流れ、バーというよりクラブといった方が正しいような店だった。けれど、今の亮治にはこれくらいの方が、気を紛らわせることができると思って入ることにしたのだ。  そこがいわゆる、『ゲイバー』だとも知らずに――。 「はい、コレ」  伝票を差し出され、亮治はボストンバッグに手をつっこみ、財布を取り出そうとする。だが、いくらバッグの中で腕を回しても、手に財布らしきものは当たらなかった。  サーッと額から血の気が引いていく。どこかで落としたのかもしれない。いや、それとも――。 「あのっ、ここらへんに財布の落とし物ってなかった?」  栗毛の男に訊くと、男はやれやれというような顔をして言った。 「遅かったみたいだね」 「遅かった……?」 「うちね、ご覧の通り観光バーでしょ? そりゃまあいろんな人間が出入りしてるわけ。だから当然、店の中での犯罪やトラブルには気をつけてるんだけど……」  男は憐れんだ目を、亮治に向ける。 「ほらね、カウンターで寝ちゃダメな理由、わかったでしょ?」 「それって、俺の財布が誰かに盗られたってことなのか?」 「おそらくね」  嘘だろ……と、亮治は自分の置かれた状況に戸惑った。まさかこんなところで無一文になるとは、思ってもみなかった。  財布を盗られた怒りよりも、ただ単にこれからどうしようと思う気持ちの方が勝っていた。盗った犯人は外国人なのかもしれない。通帳と印鑑には手をつけられていなかったのが幸いである。  だが、この時間だ。金を下ろそうにも、銀行の窓口が開いているはずもない。よって通帳と印鑑を持っていたところで、今夜は金を引き出すことはできない――。 「ごめんね。店として犯罪が起きないように気をつけてはいるんだけど、起きちゃったことには責任もてないの」 「……すいません。支払い、明日まで待ってもらうことって、できますか」 「ホントはダメだけど、まァ事情も事情だし、あんたいい男だから特別に――って、そうだ。今店に入ってきたコ、あんたみたいなのがタイプだから、うまく口説けば払ってくれるかもよ?」  男はそう耳打ちすると、カウンターの中から手を上げて、「みっちゃん、こっちこっち!」と入口付近にいる男に手を振った。  みっちゃんと呼ばれた男は暗がりの中、ゆっくりと亮治達のいるカウンターに近づいてくる。 「今日、人多くない?」  人混みをかきわけてきた線の細い男が、灯りの下に立つ。男の顔を見て、亮治は「あっ」と思わず声を洩らした。  その男は亮治の中学の後輩であり、そして去年セフレとして付き合っていた男――溝口だった。  どことなく真人に似ている、細身の男。茶色に染めた髪と、重心が定まっていない背中は真人と違う。だが、柔らかで繊細な雰囲気と、細くも抱き心地のよさそうな体は、真人にそっくりだった。この男とはじめて寝た時のしっくり感は、今でも覚えている。  亮治はこの男に、「好きだから恋人として付き合ってほしい」と言われたため、セフレの関係を終わらせることにしたのだ。自分勝手だと自覚しているが、好きになられなければ、ずっと付き合っていたいと思う男だった。  向こうも瞬時に亮治の存在に気づいたらしい。泣きそうに歪んだ顔が、亮治の罪悪感を煽る。  そうだった。この溝口という男は、感情が高ぶると、喜怒哀楽関係なく泣きそうな表情をするのだ。もともと全体的な色素が強くないせいで、幸が薄い印象である。  そのわりに亮治に対してあまりにも実直すぎるところがあった。セフレだとお互い納得して始めた関係なのに、いつの間にか向こうだけマッチングアプリを退会し、スマホの待受画面を亮治が寝ている間に撮った写真にしていた。仕事で疲れて少し不機嫌な態度をとっただけで、「ごめんなさい。直すから、おれのこと嫌いにならないで……っ」と土下座してきたこともある。  亮治は溝口のそういうところが苦手だった。弱々しい見た目に反して、熱い愛をもっているこの男のことが……。  けれど、この世界のどこかには、溝口の儚い部分や、見た目とギャップのある愛に惹かれる人間がいるはずだ。今なら、そう理解できる。理解できるが――。  弟である真人に恋をして、ダメになっても……溝口のそういったところを好きになれる自信は、昨年と同じように、亮治には無かった。  カウンター越しに、ちょいちょいと小さく手招きして、栗毛の男を呼ぶ。 「明日必ず持ってくるよ。これ、俺の名刺」  亮治は男に会社の名刺を渡した。 「なんなら銀行の窓口開くまでこの店にいたいところだけど、さすがに邪魔だろ」  男は「まァ、邪魔じゃないって言ったらウソになるね」と、自分の顎を触って少し上を向く。 「じゃ、まあそういうことだから」 「でももう終電ないでしょ? どうすんの? お金ないなら、帰れないんじゃないの」 「もともとここらへんのビジネスホテルか漫喫に泊まる予定だったからな。終電は関係ないんだ」 「あらら、出張中とか? でもこの名刺には新宿勤務って書いてあるけど……」  名刺を凝視している男をよそに、亮治は席を立とうとする。  すると、静かに亮治達の一連のやりとりを見ていた溝口が、緊張した声で「あ、あの」と口を挟んだ。 「おれのウチ、すぐそこだから……もしよかったら、泊まっていかない……?」

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