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亮治⑮

***  溝口の住むアパートは、本当に店を出てから五分足らずの場所にあった。新宿は人が住む場所なんてないと思っていたが、少し離れるだけで住宅街があり、そこにある当たり前の日常が繰り広げられている。  亮治が溝口とセフレとして付き合っていたのは、離婚してからの約半年間だ。けれど、その間に溝口のアパートに亮治が足を運んだことはない。  行きたいとも思わなかったし、来てくれた方が楽だと思っていたからだ。  部屋のドア前までたどり着くと、溝口は「ちょ、ちょっと待ってて」と言い、一人先に中へと入っていった。外にまで缶や瓶がぶつかり合う音が響いている。  ドアに寄りかかりながら、亮治は溝口の片付けが終わるのを待った。アパートの廊下から夜空を見上げると、ビル風に運ばれて繫華街の喧騒が聞こえてくるような気がする。  かつてのセフレの家に泊まるのはまずい。そう思ったけれど、かといってこの寒空の下、公園のベンチや冷たい路上で身を縮こませながら眠るのは、できれば避けたかった。  初めは溝口の提案に躊躇(ちゅうちょ)したものの、自分が無一文であること、病み上がりであること、そしてもう二度と家族に頼ることはできないこと、真人に触れられないこと――それらが現実として一気に押し寄せてきて、亮治はどうしようもなく心細くなった。  気づけば溝口にバーの代金を立て替えてもらい、溝口の背中に引っ張られるようにして店を出ていたのである。  五分ほどで片づけを終えた溝口に案内され、亮治は中へと入った。七畳ほどの、お世辞にも綺麗にしているとは言い難いワンルームが、亮治を迎えてくれる。  座卓の上に薄く積もった埃は、おそらく敷きっぱなしであろう煎餅布団の足元で丸まった分厚い毛布が原因だろう。床にあった延長コードには何に繋がっているのかわからない電気コードがみっちりと差さっていて、その横では不用心にも漫画の単行本が七冊ほど積まれている。  窓際にはいつのかわからない洗濯物がいくつも部屋干ししてあり、溝口の案外ズボラな一面を知る。  真人とは正反対の部屋を、亮治はぐるりと見渡した。どこをどう片づけたのか、いまいちわかりかねる部屋である。 「き、汚くてごめん……」  亮治の反応から、言わんとしていることが伝わってしまったらしい。溝口は恥ずかしそうにうつむいた。 「亮治はそこの布団使って。おれは床で寝るから……あっ、慣れ慣れしく呼んでごめん……。前みたいに藤峰先輩って呼んだ方がいいよね」 「名前は別に。っていうか、おれが床で寝るよ。もともと野宿になる予定だったし。それに比べたら、屋根があるだけで十分助かってる」 「じゃ、じゃあ一緒に寝るのはどう……? おれには、泊まりに来るような友達もいないから……布団はこれだけしかないんだよ」 「悪いけど」溝口の提案に亮治は間髪入れずに言う。 「そういうつもりだったら、他を当たってくれないか。今すぐ出てくから」 「……そ、そうだよね。ごめん……」  おそらくまだ、溝口は自分に気持ちがあるのだろう。事実ならなおさら寝れないし、それに自分にはもう――。  それからシャワーを借り、浴び終わった後は持ってきたスウェットを着た。溝口がシャワーあら上がってくる前にジャケットを上からかぶり、床の上で丸まる。  出勤用のスーツも実家に置いてきてしまったので、明日新しく買わなければいけない。溝口に飲み代も払わなければいけない。あれ、そういえば明日は何曜日だっけ……そんなことを考えながら、いつの間にかうとうとと、混濁した沼に意識を手放していた。

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