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亮治⑯
***
翌日、亮治はコーヒーの香りで目が覚めた。むくりと上半身を起こすと同時に、分厚い毛布が亮治の背中からずり落ちる。ふと隣にあった煎餅布団を見ると、その上にはバスタオルが数枚、重ねられた状態でぞんざいに放置されていた。
自分の上にかけられていた毛布とバスタオルを見比べて、溝口が毛布を譲ってくれたことを知る。
溝口は亮治が目覚めたことに気がつくと、インスタントの粉で淹れたコーヒーを座卓の上に置いた。
「朝はいつもコーヒーを飲まないと始まらないって、言ってたから……」
そんなことを言ったような気もするが、覚えていなかった。ん、と頭を小さく下げて、茶渋で黄ばんだコーヒーカップを手に取り、口に運ぶ。
薄めすぎたコーヒーを飲んでいると、溝口が「今日って日曜日だけど、銀行の窓口やってるの?」と訊いてきた。
ゴフッとなり、口の端に流れたコーヒーを手で拭う。
そうだった。今日は日曜日なのだ。銀行のATMならともかく、窓口が開いているわけがない。よってスーツを買うどころか、昨夜と同じように金を引き出すこともできない。
しまった……という顔をしていると、溝口は追い打ちをかけるように、「カード会社や銀行に電話した?」と訊いた。
「あ……」
「盗まれたなら、使われてるかもしれないよ。早く電話した方がいいんじゃない?」
そこで初めて、亮治は寝床を確保したりスーツを買ったりする以前にやらなければならないことを思い出した。ダンッとコーヒーカップを座卓に置き、スマホからクレジットカード会社と銀行に電話をかけた。
だが、期待も虚しく、恐れていた現実がすでに亮治を襲っていたのだった。
幸いクレジットカードは使われていなかったものの、キャッシュカードから預金が引き出されていたのである。しかも最悪だったのは、預金していた八十七万六千円――全額である。現在、亮治の預金残高は三百七十円しかない状態だそうだ。
「犯人は誰なんですかっ? 補償はしてもらえるんですよねっ?」
電話の向こうにいるオペレーターに切羽詰まった声で尋ねる。オペレーターは亮治のような客に慣れているのか、寄り添うような声を出しつつも、ATMにつけられている監視カメラを確認しても変装されていたら特定は難しいと言った。
さらに被害届を出してからではないと、補償を受けることはできないこと。場合によっては補償が受けられない可能性もあることを、マニュアル通りに伝えてきた。「補償が受けられない時って、どんな場合ですか」と訊くと、相手は言った。
『キャッシュカードの暗証番号が生年月日や電話番号、ご住所など――お財布の中に入っているもの、たとえば免許証や保険証などから簡単に予測できてしまうものですと、お客様にも過失があったということで、補償が受けられない場合がございます』
そう言われた瞬間、亮治は頭が真っ白になった。銀行口座を開く時、亮治はたった四桁の数字を考えるのを面倒くさがり、営業時代に使っていた携帯の番号下四桁を、暗証番号にしていたのだ。
営業時代の名刺は……なんとなく捨てられなくて、盗られた財布の中に数枚、入っていた。そこには当時使っていた携帯の電話番号も、確実に記載されていた。
電話を終えた後、亮治は絶望でしばらく動くことができなかった。完全な無一文である。運よく補償されたとしても、最低でも一週間から二週間後になること、そして全額補償はおそらく厳しいという事実だけが、亮治の体にのしかかっていた。
由希子への慰謝料だって、まだ払い終わっていない。金がいるから、とにかく働かなければいけない。でも、スーツがない。バーの代金を立て替えてくれた溝口に返さないといけないし――。
亮治の頭に、『借金』の二文字が浮かぶ。
大学生の頃、奨学金を遊び代に回してしまい、結局借金をして学費をまかなっていた内田という友人がいた。明るくてバカで、楽しい男だった。
だが内田は借金返済のために始めたバイトで忙しくなり、次第に講義をサボるようになり、大学三年生の時にはすべての講義に完全に来なくなった。『借金で退学した』という事実だけを残して――。
あの時は馬鹿じゃねえのと、本末転倒になった内田をどこかで蔑んでいた。けれど、ボールは一度坂を転がりはじめたら、どこまでも転がっていくものである。
そのことに、亮治はこの齢になって気づいたのだった。
転がっていくボールを止めるには、壁がなくてはいけない――。
スマホを持っていた手から力が抜ける。その手をあぐらをかいていた太ももにだらんと置くと、溝口の優しくもためらいがちな手が、頭に乗せられた。さわさわと撫でられ、視界がかすんでいく。
営業時代の名刺を捨てられなかったのは、未練があったからだ。
体調のせいで自ら事務課への異動を申し出たけれど、いくら毎日のように仕事をこなしても好きになれないし、向いているとも思えなかった。営業時代の同僚である佐渡 の活躍を聞くたびに、みじめな気持ちになった。
だけど――。
真人と触れ合っている時だけは、すべて忘れられた。自分の体も価値も……安心して真人にゆだねることができた。
「うっ……うぅ……っく……っ」
どこからともなく涙があふれ、亮治は真人の前でも出したことのない涙を流した。何も考えたくなかった。目の前の現実が、嘘か夢であればいいと、弱々しく願うことしかできない。
情けなく肩を震わせていると、頭全体を溝口の腕と胸に包まれた。トクン、と溝口の優しい心臓の音が聞こえる。
「……大変だったね」
いたわってくれる溝口の声が、耳の奥に響く。
ものすごい速さで転がり落ちるボールだって、本当は止まりたいのだ。止めてくれる壁が、ほしいのだ。
「亮治さえよければ、いつまでもここにいていいんだよ。おれ、家事もできないし友達もあんまりいないけど……ちょっといいところのゲイバーで働いてるんだ。貯金もあるし、しばらくは亮治一人くらい養える。夜だっておれはほとんどいないから、この部屋も好きに使っていいよ」
亮治は無意識のうちに、溝口の背中に震える腕を回した。ギュッと相手のスウェットを握りしめて、すがりつく。
「今は休もう。いったん全部休んで……また一から始めればいいんだよ」
溝口はそう言いながら、亮治の頭を胸に抱きしめたまま、子どもをあやすような手つきで撫でてくれた。撫でられるたびに、目からボロボロと涙がこぼれては、溝口の服を濡らしていく。
「布団、もう一枚買おっか。柔らかくて、あったかいやつ」
溝口の言葉に、亮治はただゆっくりと、うなずいた。
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