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覚悟のふたり①

***  口の左端にできた傷をかばいつつ、藤峰真人は古い絆創膏を顎に向けてゆっくりと剥がした。  だが、まだ傷は治っていなかったようである。剥がした絆創膏のガーゼの部分には、血と体液がうっすらと滲んでいた。  トイレの鏡に映った自分を見ながら、切れた口の端に人差し指で触れる。 「イッ……」  ズキッと痛みが走り、真人は新たな絆創膏をポケットから取り出して、患部に貼った。  トイレから自分のデスクに戻り、パソコンの前に座ると、同僚である綿貫英里菜《わたぬきえりな》が隣のデスクから顔を覗きこんできた。 「藤峰さん、ここ、どうしたんですか? 昨日はなかったですよね?」  綿貫は自分の口の横を指差す。 「……知ってどうするの?」 「どうするっていうか、気になるじゃないですか。口の端を切るのって、乾燥か喧嘩くらいだって、元ヤンの友達が言ってたし」 「君、元ヤンだったの?」 「私は違いますよ。ていうか藤峰さんのお肌ってプルプルじゃないですか。だから乾燥はないかなあって。誰かに殴られたのかとも思ったんですけど、藤峰さんは喧嘩とは無縁そうですし」 「僕ってそんなに喧嘩をしなさそうに見えるかな」 「まあなんとなく……って、あれ? まさか本当に喧嘩なんですかっ?」  答えないでいると、綿貫は「うっそー意外」と目を丸くしていた。それからすぐに綿貫が課長に呼ばれ、その話は掘り下げられることなく終わった。  絆創膏に覆われた傷を意識しながら、真人はパソコンに意識を戻す。  喧嘩は喧嘩だが、普通の喧嘩ではない。真人の口の端にできた傷――それは昨日の夜、双葉の平手によってつけられたものだった。  昨夜、真人は仕事帰りに、双葉を向こうが勤める会社近くのカフェに呼び出した。理由は一つ。 『これまでの曖昧だった付き合いを、終わりにしたい』  という旨を伝えるためだった。  真人の意思を伝えると、双葉は戸惑った様子で「私のせいですか?」と訊いてきた。双葉は、二度失敗した夜の営みを気にしているようだった。  けれど、それはあくまでも真人の問題であって、双葉のせいではない。彼女のせいにするなんて、あまりにも自分勝手だ。  だからこそ真人は、本当のことを言わなければ、不誠実だと思ったのだ。 「そうじゃないんです。僕には好きな人がいて……。弱くて不器用で、無神経で……一緒になったって未来なんてないってわかってる。だけど、僕はその人とずっと一緒にいたいと思ってます」  そう言うと、双葉はすうと息を浅く吸った。双葉にとっては自分のせいじゃないことより、ショックな告白だったのかもしれない。だから真人は言い訳をするつもりはなかったし、双葉に何を言われても甘えるつもりはなかった。  頼んだブラックコーヒーに口をつけないで、真人は続けた。 「正直に言います。あなたと結婚すればその人のことを忘れるんじゃないかと……僕はそう思って、あなたと会っていました」  双葉はギュッと唇を噛むと、通勤用のオフィスバッグから薄いピンクのハンカチを取り出し、目頭に当てた。そして「私は……真人さんのことを好きになってたんですよ」と涙声で訴えた。  それは真人も気づいていた。ふと目があった時に動揺する目にも、手を繋いだ時に汗ばむ手のひらにも……。  だから抱き合おうとしてうまくいかなかった時に、はっきりと感じたのだ。  自分はいつか、この人と結婚をしても離婚する――と。  セックスの問題をあやふやにして結婚し、そしてそれが原因で離婚に至った亮治のことを、真人は糾弾した。それなのに、今度は自分が、全部わかった上でこの女性に同じことをしようとしている。傷つけようとしている。その事実に気がついた時、真人は啞然としたのだ。  こんな自分を隠したまま、ただ謝り、別れを告げるのは簡単だ。  でも――。 「僕はあなたと会ってる時も、兄のことしか頭にありませんでした」  双葉はハンカチを離し、「お兄さん……?」と疑問を洩らした。 「僕がずっと一緒にいたい相手です。双葉さんも一度会ったでしょう。僕は兄と寝ていたベッドで、あなたを抱こうとしたんですよ」  そう言うと、パシッと頬に痛みが走った。慣れてなそうな平手打ちだったが、口の端裏の粘膜に歯が当たり、鉄の味が口内に広がる。双葉の中指にはめられた指輪のせいで、口の外側も切れたようだった。  前を見ると、テーブルを挟んだ向こう側で、わあっと泣く双葉がハンカチに顔を埋めていた。「最っ低……っ」と、言いながら。  昨夜のことを反芻し、真人は昨夜から鳴りっぱなしのスマホをスーツポケットから取り出し、画面を表示させる。  母からの着信音やメッセージがずらりと並んだ画面を見ていると、タイミングがいいのか悪いのか、新しいメッセージが届いた。 『ちゃんと説明してください。今晩電話します。』  昨夜、双葉を残して先にカフェを出た後、真人はすぐに双葉との関係を終わらせたことを両親に報告したのである。こちらにも『好きな人がいるから、結婚はできない』と正直に説明した。

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