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覚悟のふたり①

 けれど、当然父や母が納得するはずもなかった。相手は誰なのか。その人と結婚するのか。特に母からは、電話越しにしつこく問いただされた。  本当は、相手が兄の亮治であることは、直接会った時に……いや、亮治を連れ戻した後に二人で言うべきだと思った。  だが――。 『あなたまで勝手なことをしないでちょうだい!』  電話の向こうから焦燥に駆られた母の声が聞こえてきた瞬間、真人は失望した。母のために、自分の人生があるんじゃない。本気でそう思った。スマホを握りしめながら、こみ上げてくる感情を必死に抑えて、真人は母に言ったのだ。 「僕のことを勝手だって言っていいのは、双葉さんと……亮治だけだ……っ」  真人はそう言って、母の電話を切った。  その後、『どういうことなの?』や『どうしてお兄ちゃんが出てくるの?』といったメッセージが送られてきた。だが、真人はそのどれにも返事をしなかった。  しばらくすると、語尾に『?』がついた文から、『。』で終わるメッセージが送られてくるようになった。 『説明して。』、『お兄ちゃんを名前で呼んだ理由を教えてください。』、『お願いだから。』、『無視をしないで。』  仕事中にもかかわらず、母からのメッセージは止まない。おそらく、亮治と真人の関係を無視できなくなったのだろう。  先日、亮治を追い出した時に、真人の話を一切聞こうとせず、気づかない振りを貫いた結果がコレだ。あの時に自分の話を聞いてくれれば、亮治は家を出ずに済んだかもしれない。いや、せめて実家を出ていく背中と並び、二人でどこかへ行くことだって、できたかもしれないのだ。  ――話してもわかってくれなかったら、おまえだってずっと……いや一生、父さん達から軽蔑され続けるんだぞ。俺はいい。俺はもう慣れた。でもおまえは……っ。  慣れた、と諦めたように言う亮治が、ショックだった。結婚して両親に嫁と孫を見せろ、と言われたことよりも、親から軽蔑されることに『慣れた』と言う亮治のことが――。 「……ばか」  真人は小さな声でつぶやくと、スッと立ち上がった。名刺入れから、以前、亮治にもらった名刺を手に、課長のもとから戻ってきた綿貫に「ちょっと出てくる」と言い残して、エントランスホールのある一階にまで降りた。  天井が吹き抜けているエントランスホールを進み、真人は住民票や印鑑証明の窓口の近くにある公衆電話に向かった。  亮治が消えてからというもの、スマホの充電が切れているのか、いくらかけても亮治は電話に出ない。名刺に記載された会社の電話番号に電話をかけるしか、亮治と話す方法はないと思ったのである。  母からの着信がいつかかってくるかもわからないスマホで、今は下手に電話をかけたくなかった。  受話器から流れる発信音を聞きながら、真人は相手が出るのを待つ。  お電話ありがとうございます、とすぐに出たのは、爽やかな男性の声だった。 「私、そちらで働いてる藤峰亮治の弟の藤峰真人と申します」  亮治の名前を出すと、相手は『ああ、藤峰さんの……』と、あからさまに声のトーンを落とした。 「急用がありまして、本人の携帯に連絡したのですが、充電が切れているみたいなんです。お手数おかけしますが、この電話から兄と話をさせてもらってもよろしいでしょうか」  すると相手は『残念ですが、それはできません』と言った。 「できない……? どうしてですかっ?」 『先週、辞めたんですよ』 「はっ? 辞めたっ?」 『はい。先週の月曜日に無断欠勤したので連絡したら、藤峰さんの携帯に若い男性が出たらしいんです。それで、藤峰さんに代わってもらった途端に、辞めるって』 「本人がそう言ったんですか?」 『藤峰さんに電話をかけた同僚が、本人に言われたって言ってましたよ』  亮治が仕事を辞めた。その事実に、真人は衝撃を受けた。 『すごく急なことだったので、社内もバタバタしてしまって……まあ、引継ぎをちゃんとしなくちゃいけない業務ではなかったのが不幸中の幸いです』 「じゃ、じゃあ亮治――兄は今どこにいるんですかっ? どうやって生活して……」  亮治は住む部屋を決めることなく、ボストンバッグ一つで実家を出て行ったのだ。即入居できる部屋もあるかもしれないが、それにしたって一日二日で見つかるものではないだろう。  電話を切った後、真人は『若い男性』という言葉が引っかかり、しばらくのあいだ、公衆電話の前から動けなかった。  仕事を辞め、帰る場所もない亮治は今、その男の家にいるのだろう。そしてその男が、亮治の身の回りの世話や面倒を見ているのかもしれない。  金を援助し、食事を与え、寝床を分け与えて――。  そう考え、真人はスーッと青ざめた。自暴自棄になった亮治は、完全に自分と終わったと思い込んでいるかもしれないのだ。  焦燥感で、真人の脚は震えた。  なんとかしないと。亮治を見つけて、連れ戻さないと。でなければ、亮治は一生諦めたまま……軽蔑されることに慣れたまま、これからの人生を歩むことになってしまう。  兄弟だった分だけ、藤峰亮治という男と過ごしてきた。今はそれだけで、充分だった。  受話器をガチャンと強く戻し、真人は吹き抜けの天井を見上げた。

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