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覚悟のふたり④
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退勤時刻になると、真人はすぐに立ち上がり、身支度を整えた。隣のデスクで凝り固まった肩をほぐすように天に向けて伸びをする綿貫から、「藤峰さん、最近帰るの早くないですか?」と驚いた顔をされる。
お疲れさま、と短く言葉をかけ、十七時五分にはエントランスホールの自動扉から外に出た。
昨夜、栗毛の男の話を聞いて、亮治がまだ溝口のところにいると確信した真人である。今夜は溝口の自宅を突き止めることを目的に、例の新宿公園で溝口らしき人物が通るのを待ってみようと思ったのだ。
見逃してしまうかもしれないし、何よりストーカーのような真似をしている自分に内心呆れたが、待たないという選択肢はなかった。
公園に着いたのは、十八時半頃だった。ベンチで三十分ほど待つと、どこからか中年の男がやって来て、閉園時間だと言った。公園を囲む柵は犯罪防止のためであり、夜間は完全に閉め切ってしまうのだという。
追い出された真人は、公園の柵に寄りかかりながら、新宿二丁目方面に続く大通りの道に絞って、溝口の姿を探した。
それから一時間待ち、二時間待った。徐々に日が長くなってきたこともあり、待ち始めた頃にはまだ空がうっすらと明るかったけれど、八時半を迎えるとオフィスビルの窓から漏れる部屋の灯りと、電柱の明かりだけが頼りになった。
照明の落とされた公園で二時間もジッと動こうとしなかったからか、人生で初めて警官に声をかけられてしまった。まさか人の家を特定しようとしているなんて言えるわけもなく、「悩み事があって、ぼんやりしていたんです」と苦しい言い訳をする。
警官の質問に受け答えをしていた、その時だった。道路を挟んだ反対側の道に、新宿二丁目方面に向かって歩く溝口の姿が見えた。
警官から解放された後、すぐに公園を出て、溝口がやってきた方向を目で追う。
けれど、アパートなんていくつもあるのだ。絶望的な気持ちになり、真人の肩に連日の疲れがどっとのしかかる。もう無理かもしれない……と思いながら、電柱の明かりの下で足元に目を落としていると、息を切らした男の足が真人の横を追い抜いていった。
顔を上げると、何か忘れたのだろうか、見覚えのある背中が新宿二丁目とは反対の道に向かって、小さくなっていく。溝口だ、と真人は一瞬でピンときた。
相当焦っているのか、真人のすぐ横を通り抜けたことには気づいていないらしい。真人は急いで足を前に出し、溝口を追いかけた。
溝口が立ち止まったのは、各階に二部屋くらいしかないような、細長の四階建てアパートの前だった。むき出しの出入口に溝口が入ると、タンタンタンッと階段を駆け上がっていく足音が外にまで聞こえてくる。
ガチャッとドアの開く音がしたと同時に、「スマホ忘れちゃった」という声が聞こえてくる。
外まで声が聞こえてくるというのなら、部屋は二階なのだろう。溝口はすぐに階段を降りてくると、再び走って今来た道へと消えていった。
溝口がいなくなった後、真人はおそるおそる建物の中へと足を踏み入れた。どこか盗みに入るような気持ちで、階段の手すりに手をかける。音を立てないように一歩ずつ階段を昇って到着した二階には、右と左にそれぞれ部屋が一部屋ずつあった。
どちらが溝口の部屋かわからないので、試しに左の部屋のインターフォンを押してみる。『はい』という若い女の声が出たので、「すいません間違えました」と謝る。もう一方の部屋のドアの前に立つと、心臓が自然とドクンドクンとうるさく鳴り始めた。
このドア一枚の向こうに、亮治がいる。
そう思うと、緊張と恐怖と喜びで、インターフォンを押そうと伸ばす指先が小刻みに震えてきた。
意を決してボタンを押す。
だが、いくら待てども反応はなかった。もう一度押すと、ドアを隔てた向こう側から、ドタドタと床を踏む音が近づいてくる。
ガチャッと鍵が開けられてからドアが開くまでの時間は、あっという間だった。ドアの隙間から覗いた男の顔を見た途端、大きく弾んでいた心臓がぎゅっと縮こまる。
真人の前に現れたのは、口周りが無精ひげに覆われたスウェット姿の男だった。髪もボサボサで、不健康そうな猫背のせいで男を太って見せている。
「りょう、じ……?」
尋ねると、それまで反応の鈍かった男の目がみるみるうちに開かれていった。
「ま、まこ……っ」
咄嗟に閉まろうとするドアの隙間に革靴を履いた足を入れ、制止する。
「亮治っ! 一緒に帰ろう!」
再び会えたら、何よりも先に言わんとしていた言葉をぶつける。
「また僕の部屋で一緒に暮らそう!」
亮治の腕に手を置くと、静電気にでも触れたみたいに、亮治の体がビクッと跳ねた。そして亮治はためらいがちに、首を横に振った。
「……無理だ」
「無理じゃない」
「……」
「もう母さん達にはバレてる」
「えっ……」
「だから、ね。とにかく帰ろう。僕の部屋に」
諭すように、優しく言う。
だが、亮治は口をつぐんだままうなだれた。
「……俺には何も無い」
「そんなことない」
「金も……仕事も……」
「ぜんぶ後からどうにかなるものだらけじゃないの。亮治にはたくさんあるよ」
亮治は糸が切れたように、「無いって言ってんだろっ!」と叫んだ。狭いフロアに、野太い声が反響する。
「亮治……?」
「おまえ、なんで来たんだよ! 俺がどんな思いで手離したと思って……っ」
亮治は前髪の中でグシャッと拳を作り、前屈みになった。
手離した、という言葉にカチンとくると同時に、胸が押し潰される。だけど、もう傷つけ合うだけの言い争いはしたくなかった。
真人は亮治の手をとり、ギュッと指に力を込める。
「少なくても僕は、亮治の手を離した覚えはないよ」
「……うそだ」
「……たしかにそう思った時期もある。でも今は……」
この手が憎くて……懐かしい。その感触が、たまらないのだ。関節がはっきりとしていているくせに、自信の無いこの手に触れることができて、素直に嬉しい。
けれど、全く心に響いていないのか、亮治はさっきから真人と目を合わせようとしなかった。
不安になり、真人は亮治の顎に触れた。ざらりと伸びた髭の感触が、真人の指から手のひらをこする。
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