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覚悟のふたり④

 だけど、亮治は目を合わせるどころか、こちらを見ようともしなかった。 「財布を落としたんだってね。亮治を捜してた時に、お店の人から聞いたよ」  お金に困っていたから、亮治は偶然にも再会した溝口の部屋へ、一時的に転がりこんでいるだけだと思っていた。 「警察には行った?」 「……」 「カードとか、使われてなかった?」 「……」  反応がなかった。まるで壊れた機械人形のように、亮治は虚ろな目を真人に向ける。 「落とした……んだよね?」  訊くと、亮治は「知らない」と自身の顎から、真人の手を離させた。そこでようやく、真人は自分が歓迎されていないのだと知る。 「……新しい仕事を始めたら、ここを出ていくつもりなんだよね?」 「……」 「なんとか……なんとか、言って」  すると亮治は、ドアに寄りかかって、うなだれた。 「……もう疲れた」 「――は?」 「おまえのこと考えるのが、しんどい」 「……っ」  目の前で、シャッターを勢いよく降ろされたようだった。ズキッと胸が痛みを訴える。  言葉を失っていると、亮治はかまわずに続けた。 「……葵がいい」  葵――――それは溝口の下の名前だった。 「……それってつまり、溝口君のことが好きってこと?」 「……」 「好きになれるよう、努力するとか?」 「……」 「そんなんじゃ、溝口君に失礼だよ」 「俺は言ってない」  ということは、溝口が亮治に言ったのだろう。どんな言い方をしたのか知らないが、亮治に捨てられるという恐怖心で実家にまでやってきた溝口のことだ。『好きになってくれるまで待つから』と平気で口にするかもしれない。  そう思い、真人はぎゅっと拳を握りしめた。亮治にも溝口にも、腹が立ってしょうがなかった。どうしてそんなことを言う男がいいなどと、亮治は言うのだろう。理解できなかった。  自分をないがしろにする人間に、誰かを愛せることができるとは思えない。亮治はどうしてそんな男を……。  どうして、亮治はこんなにも不器用なんだろう。学生の頃は、なんでも要領よく器用にこなす人だったのに。格好よくて、自慢の兄だったのに。  真人はぐいっと亮治の体を押して、暗がりの玄関に入った。カチャリとドアの鍵を閉め、亮治を見上げる。  どうして、どうして、どうして。  いくつもの『どうして』が、大きな一つの疑問に突き当たる。  どうして、ボロボロで情けなくなった亮治のことが、自分はこんなにも愛おしいんだろう。見るたびに切なくて、泣きたくなるのだろうか。胸が痛いはずなのに、触れたくなるのだろう……。 「僕だって……しんどいよ。亮治のこと考えると。でも、顔を見ると、しんどいって思う気持ちが消える。亮治は……そうじゃないの?」  亮治の頬が、ヒクッと動いた。  前から亮治を抱きしめる。すると、亮治の体はずるずると下に落ちていった。脱力した体は三和土《たたき》に膝をつき、真人の体が半分支えたような状態になる。  真人は亮治の背中に回す腕に力を込め、亮治の首筋に鼻をくっつけた。知らない洗剤の匂いの奥には、たしかに亮治がいる。  亮治の体は、小刻みに震えていた。だけど、離すつもりは少しもなかった。  明かりのついていない玄関。三和土がヒヤリと冷たかったけれど、その分、亮治の匂いや体温が近い。 「お、俺は……」  耳元で、亮治の声が響く。同時に、真人は背中に強い力を感じた。亮治の両腕が、真人の背中に回された証拠だった。  亮治は泣いていた。恥ずかしげもなく、真人の耳の横で嗚咽を洩らしていた。 「お、俺は……それ、でも……しんど、い……っ」 「……僕の顔を見ても?」  亮治はコクコクと、真人の肩の上で頷く。 「もっと、しんどくなる……っ」  だが、真人は気づいていた。「しんどい、しんどい」と言いながらも、背中に回された腕の力が、一向に緩まないことに――。  嬉しくて、切なくて、鼻の奥がツンと痛む。背中に亮治の体温を感じるたびに、真人の目も霞んでいった。 「じゃあ、僕と考えよう。しんどくならない方法をさ……」  だから、お願いだから、諦めようとしないでほしい。自分自身を。そして、自分の人生を――。  それから真人は、亮治の体を離した後、「僕と一緒に行ってくれるよね?」と両手で向こうの頬を挟んで訊いた。その質問に対し、ためらいがちだったけれど、亮治はコク……とうなずいてくれた。  ただ、下心はあったかもしれないが、一時的に亮治の面倒を見てくれたのは溝口なのだ。黙って亮治を連れ出すのは、さすがに気が引けた。 「明日、溝口君の出勤前にここに来るよ。その時、二人でお礼言って、一緒に帰ろう」  亮治が世話になった分をきっちり返して、亮治を手に入れることを諦めてもらって……なかなか簡単にはいかないだろうけれど、わかってもらうまで頭を下げ続ける覚悟で、ここに来よう。  真人はそう決意する。  泣き疲れたのか、亮治は三和土に座り込んだまま、首を垂れていた。そんな男の頭を両手で上げさせて、真人は額から目の横、そして唇にキスを落とす。「明日ね」と言うと、亮治は震える指先で真人の手を取り、不安そうに見上げてきた。  亮治の不安は、なんとなくわかるような気がした。溝口は一ヶ月もの間、亮治の面倒を見てくれたのだ。どんな生活を二人でしてきたのか知らないし、想像もしたくない。  けれど、性癖から派生する様々な問題のせいで落ち着かない日々を過ごしてきた亮治である。溝口との生活は、少なくとも安定感のあるものだったのかもしれない。  だからこそ、ぶち当たる壁が多すぎる弟との恋など忘れて、溝口を好きになれたらどんなにいいかと、考えていたところなのかもしれない。  亮治は弱い。いや、強い人間など、どこにいるのだろう。楽な方に身を置きたいと思うのは、当然だ。  正直、真人も不安だった。明日には気が変わって、亮治は今度こそ、こちらの手を離してくるかもしれないのだ。  だけど、真人は亮治の手を強く握り返し、泣き腫らした男の目をしっかり見て言った。 「好きだよ、亮治。本当に好きだ」 「……っ」  まだ不安はあったけれど、不安を抱き続けてもしょうがない。真人は名残惜しい感触を手放し、玄関のドアを開けて、外へと出る。  ガチャンと閉じたドアの前で、たまらずしゃがみ込んだ。  神様。  思わず祈るように顔の前で手を組み、ぎゅっと目をつぶる。  ――早く明日にしてください。  心の中で、何度も何度も願った。けれど、願えば願うほど、時間はゆるやかな濁流のように流れていくように思えて、仕方なかった。

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