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覚悟のふたり⑤
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翌日、仕事が終わり次第、真っ先に溝口のアパートに行こうと思っていた真人である。だが、終業時刻間際のこと。それまでデータ入力を行っていたパソコンが、何の前触れもなくフリーズしたのである。
マウスを動かしても、キーボードをでたらめに押してみても、うんともすんともいわない。明日に持ちこしてもいい仕事だったけれど、できれば今日中に終わらせたかった。
新しく課長職に就いた政井 という中年の男が、うるさいからだ。政井は『たとえ役所勤めの公務員だとしても、その日の仕事はその日のうちに』というモットーを掲げている。しかも、勝手に設定したそれを、睨みをきかせることによって、自分以外の職員にまで押しつけてくるのだ。
フリーズした画面を前に、焦りが政井にも伝わってしまったらしい。どうしたのかと訊かれ、思わず「パソコンが固まってしまって……」と答えると、
「一回電源を落としてみたらどうかね? データ入力? ああ、それなら簡単に打ち直せるじゃないか」
と、軽いノリで言われてしまった。ここで言い返したり、何も言わずに帰れていたら、おそらく自分は公務員という仕事に就いてはいないだろう。
真人は焦りを腹に押しこみ、パソコンの電源を落とした。再起動したパソコンは、案の定、それまで保存していなかったデータの部分すべてが失われていた。
パソコン画面と腕時計を交互に見ながら、再びデータを入力していき、終わりが見えてきた頃には七時を回っていた。
結局、職場である市役所を出たのは、八時すぎ。
急いで電車に乗り、新宿へと向かった。溝口のアパートを目指し、足早に歩いていた、その途中のことだった。
新宿公園を囲う柵の横を歩いていると、前から溝口らしき若い男が歩いてくるのが見えた。あっ、となり、真人は思わず立ち止まる。
「溝口君!」
呼ぶと、溝口はゆっくりとした動作で、顔を上げた。
「これから仕事?」
訊くと、溝口は「そうだけど」と真人を避けるように答えた。
「僕は今から、君のアパートに行こうと思ってたところなんだ」
「は……?」
「実は昨日、溝口君がいない時に、君の部屋に行った」
溝口の顔が、あからさまに怪訝そうに歪む。
「どういうこと?」
「ごめん。亮治のことでどうしても訊きたいことがあったから、君の後をつけたんだ」
「……なにそれ」
「亮治にも会ったよ」
そう言うと、溝口は乾いた笑いを口元に浮かべて、「そういうことだったの」とつぶやいた。
「そういうこと?」
「……ううん、こっちの話」
「君の部屋で、今から少し話せないかな。亮治のことについてだよ。厳しければ、また日を改めてもいいんだけど……」
溝口のきつい視線が突き刺さる。
「藤峰君ってバカだよね。おれに断らないで、勝手に連れていけばいいじゃん」
「そういうわけにもいかないよ。この一ヶ月、亮治の面倒を見ていてくれたのは溝口君なんだから。勝手に連れ出すなんて、できるわけがない」
「あのさあ、藤峰君は亮治の何なのっ? 何のつもりなのっ? 弟? 保護者? 恋人?」
溝口の問いに、真人はぐっと押し黙った。どれにも即答できなかったからだ。そんな真人の反応に、愕然とした溝口が「なんで?」と頭を押さえてうなだれる。
「なんで、『弟』って言わないの!?」
「……っ」
「弟として迎えに来たんなら、いいよ連れて帰って。でも、それ以外の理由で迎えに来たんなら……絶対に亮治は渡さない!」
「……君なら、そう言うと思ってたよ」
「じゃあ『弟』って言えばいいじゃん! なんでそんなところでバカ正直になってんの!?」
「そ、それは……」
「おれ、藤峰君のそういうところ、大っ嫌いだよ!」
普段のぼんやりした表情からは想像もつかないような声で、溝口は一気にまくし立てた。そして肩で息をしながら、じわりと目に涙を浮かべて、両手で顔を覆った。
「藤峰君、ゲイじゃないじゃん。亮治を好きになったのも、最近じゃん。でもおれは、ずっとゲイだった。ずっと、ずっとずっと、亮治のことが好きだった……っ」
「……知ってるよ」
「せっかく今、ずっと好きだった人が近くにいてくれてるんだよ……? とらないでよ……っ」
亮治を想って涙を流す男を前にして、真人はようやく、この男に嘘をつけなかった理由がわかった。
「……うん、だからきっと、僕は君に嘘をつきたくなかったんだ」
そう言うと、溝口はクラッチバッグを投げつけてきた。真人の体に当たったバッグが、弾んで地面に落ちる。
その拍子に、中に入っていた財布やスマホなどの小物が、真人の足元に散乱した。その中の一つに、目が留まる。
バッグの中から飛び出してきた二つ折りの財布に、見覚えがあったからだ。
外の黒い革製の生地に印されているブランドの名前に、外からも目立つダークグリーンの内側。
真人は身を屈めて、その財布を手に取った。
それは、以前亮治が持っていた財布と、まったく同じものだった。
どうしてこれを、溝口が持っているのだろう。
抱かざるを得ない疑問を頭に浮かべながら、真人は手の中の財布と溝口を交互に見た。
溝口は服の袖で目元を押さえながら、肩を震わせていた。
「まさか……」
溝口はかすれた声で、「お願いだから、亮治にはゆわないで」と言った。
「こうでもしなきゃ、ダメで……傍にいてほしかったから……っ」
「……っ」
最低でしょ、と溝口が鼻をすする。
「ちゃんとお金も引き出して、被害届も出されないように、おれ頑張ったんだよ」
「なんで、こんなことを――」
「こんなこと……? なんでかって?」
溝口は涙を流しながら、「それしかなかったんだもん」と、自らに対してあざ笑った。
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