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初恋は遠くにありて想うもの 8
「千夏、受け取ってやれよ。じゃないと、シロが美帆子さんに叱られるんだろ」
美帆子さんというのは俺の母親の名前だ。森正は昔から俺の母親をおばさんではなく美帆子さんと名前で呼ぶ。
「そう、そうなんです! 受け取ってもらえないと、俺が母さんに叱られるんです。俺を助けると思って、お願いですから受け取ってください」
俺は封筒をテーブルにおくと、千夏さんに向かって拝み倒した。それはもう信仰している女神を拝むという勢いで拝みまくった。
千夏さんは困った表情で俺と封筒を交互に見つめていたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「……わかった。じゃあ、これは預かっておくね」
「千夏さん……! ありがとうございます!」
「お金を渡したほうがお礼を言うなんておかしいでしょ。あ、そうだ。大切な息子さんをお預かりするんだから、シロちゃんのお母さんにもご挨拶しないといけないね。シロちゃん、連絡先の電話番号を教えてもらってもいいかな」
「いや、うちの母親のほうから今日か明日あたりに電話がかかってくると思うんで、そのときにかわります。千夏さんにご挨拶しないとって、うちの母親も言ってたんで」
お金のことで少々もめてしまったが、それからはまた穏やかで温かな時間が流れた。
千夏さんとの会話はつきない。なにしろ六年間も会っていなかったのだから、聞きたいこと、話したいことが山のようにある。千夏さんもそれはおなじらしく、俺にあれこれと訊いてきた。
「そういえば、シロちゃんってつきあってる子いるの?」
何気なく放たれた千夏さんの質問に、俺の心臓はドキリと飛び跳ねた。
思わずつきあってる子――森正の横顔に目を向けてしまう。千夏さんに似ているだけあって整っていないわけではないが、そこにあるのはどこからどうみても男の横顔だ。動物に例えるのなら虎とかライオンとかの、獰猛な肉食獣だ。
これが俺の好きな子なのかと思うと、いまさらながらに目眩がする。
いない、と答えるのがもっとも無難なのはわかっている。が、しかし、つきあっている本人が隣にいるのにそれはいかがなものか。ついさっきも不用意な発言で森正を傷つけたばかりだ。いや、こいつが本気で傷ついたとは思っていないが、それはともかく。
いると正直に答えてしまったら、千夏さんはどういう子なのか訊いてくるだろう。まさか俺よりも背が高くって空手をやってるがさつないかつい子です、などと答えるわけにはいかない。どう考えたって、それは俺の隣でマカロンを貪り食っている男のことだ。
俺が答えあぐねていると、千夏さんは目を細めて笑った。ちょっとたちの悪い微笑だったが、そういう表情もまた魅惑的だ。
「ふうん、答えられないってことはいるんだね。別に照れなくたっていいじゃない。シロちゃんは私のもうひとりの弟みたいなものなんだから」
「いや、あの、まあ、いるようないないような……」
俺はごにょごにょと口の中でつぶやいたが、千夏さんは微笑んでいるだけだった。どういう子なのか訊かれるだろうと思っていたので、ホッとした反面、いささか拍子抜けした。
「千夏さんは? 彼氏いるんですか?」
これほど美しく、また心優しい人を男たちが放っておくはずがない。たぶんいるんだろうな、と思いながら訊いたのだが、
「秘密」
悪戯っぽく笑っただけで、答えてはくれなかった。
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