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第6夜第17話
「え? なに?」
意味が分かんないんだけど、と呟く捺くん。
「……いいもなにも、いいっていうか、え? だって俺と優斗さんはずっと一緒でしょ?」
当たり前のことだと真剣に俺を見てくる捺くんに安心する。
嬉しいと思う。
だけど、一旦切りだした以上……最後まで話さなきゃならない。
本当はクロくんのこととか関係なく、まだもっと先で話しあいたかった。
それができなかったのは俺の弱さで……。
「うん、そうだけれど。でも――これからさき就職して……捺くんの頑張りが認められてステップアップして……そうしていったときに男の俺と付き合ってるのはマイナスにしかならないと思うんだ」
最初からわかっていたことなのに、それでも始めたのは俺なのに。
「俺の存在はたくさんの可能性のつまった捺くんの未来に、邪魔になるんじゃないかな」
繋いだ手は温かいのに、空気は冷たい。
呆然としている捺くんに全部なにも見ず、未来など考えずに、俺もずっと一緒にいると言えたらいいのに。
一歩足を踏み出せば触れあえる距離にいるのに……。
「――……それ……マジで言ってんの……。優斗さん」
「……うん」
手から力を抜くと、するりと捺くんの手が滑り落ちていく。
そのまま脱力したように顔を俯かせ小さな呟きを落とした。
「……んだよ……それ」
ずきりと胸が痛む。
ごめん、と、嘘だよ、と言って抱き締めたくなる。
でも、いつかは俺は捺くんの傍から――……。
「……」
どれくらいの沈黙のあとか、俯いたままの捺くんがぼそりと呟いた。
小さすぎて聞こなかった言葉。
「……じゃあ」
問い返すべきか迷っていたら、ゆっくり顔を上げ笑みもなにもない表情で捺くんは俺を見つめて、言った。
「――別れる?」
冷え切った声で紡がれた言葉に、俺がそう示したはずなのに、心臓が凍りついた。
いつかは離れなければいけない日が来ると思っていた。
いつかは、と考えて、いつかが来なければいいのにとも思っていた。
でもそれは全部"いつか"先のことで、それが意味することが別れしかないというのに。
理解していたはずなのに。
それを捺くんの口から聞くと、途端頭が麻痺した。
俺が全部、言いだしたことなのに。
いつか、と思って、迷いながら、その準備を先延ばしにしていたのは俺で。
真っ直ぐに俺を見て言った捺くんに呆れるくらいにうろたえた。
「……」
なにも返せない。
『別れよう』
と、言うべきなのに言葉が重く沈んで上ってこない。
「……」
長い沈黙だった。
捺くんはずっと口をつぐみ俺を見つめ続けている。
俺は、俺は――。
「……」
一ミリも口を動かせない。
そしてその沈黙を破ったのは捺くんのスマホだった。
静かな室内に響きだした着信音。
ポケットから取り出したそれを見て、
「ごめん、家からだ」
と捺くんは俺に背を向けて電話に出る。
「もしもし……なに」
話しだした捺くんの背中を身動きとれずに見つめる。
片手をポケットに入れて携帯を耳にあてている姿はいつだって見かけるものだ。
けれどいつもと違うように感じるのはさっきの捺くんの言葉があるから。
「あー、ああ、はぁ? いまから? 今とりこんでるんだけど」
家に帰ってこいと言われたんだろうか。
手に持ったままのビール缶は水滴を浮かび上がらせてきていた。
飲む気にはなれずにカウンターに置く。
心臓は異様に速く動いていて息苦しい。
「はぁ? ……まじで? まじで? ほんっとに? うんうん」
後退りして冷蔵庫に背中がぶつかる。
そのままもたれかかり捺くんの電話が終わるのを待った。
「わかった、わかった。でもぜったい、頼むからな! うん、了解」
そして電話を切った捺くんは携帯をじっと眺めてから俺を振り返った。
いつもの笑顔はなく、感情の読み取れない顔をしている。
「ごめん、優斗さん。いま家に叔母さんが来てて酒盛りしてるらしくって、俺も参加しろって帰宅命令でた。……話の途中だけど帰るね」
「……え、あ……うん」
「明日から土曜までバイト入ってるし……次のインターンの準備もあるから、明日明後日は自宅帰る。土曜日は来るよ。多分遅くなると思うけど、連絡する」
「……うん」
ソファの横に置いていた荷物を手に取り捺くんはお土産だけをソファに乗せると肩に担いだ。
「じゃあ、ごめんね、急に」
「いや……」
ほんの少しだけ頬を緩めた捺くんはリビングを出て玄関へ向かう。
本当に帰るんだ、と俺も重く足を動かし向かった。
なにか言わなければと思うのになにを言えばいいのかわからない。
靴を履いている捺くんの姿を眺めていることしかできない。
「――あのさ」
ドアノブに手をかけた捺くんが俺を見た。
真剣な目に鼓動が跳ねる。
「さっきの、よく考えといて?」
「……」
「もう一回考えておいてほしいんだ。優斗さんはどうしたいのか」
わかった。
その一言さえ喉に張りついて出てこず、俺は小さく頷いた。
「おやすみ、また土曜日に」
「……おやすみ」
そして、玄関ドアは静かに閉まった。
閉じたドアを眺め、しばらくしてようやくなんで送ってあげなかったんだろうと我に返った。
携帯を取り出し今からでもと思ったけれど――迷惑だったらと電話することができなかった。
なにをしてるんだろう。
深いため息が出る。
玄関にもう10分近くたたずんで動くことができないなんて、どれだけ情けないんだろう。
この場にいたってなにもならないのに。
もう一度ため息をつき鍵を閉めるとリビングに戻った。
キッチンカウンターに置きっぱなしにしている俺の飲みかけと捺くんが手をつけなかったビール。
一口しか飲んでいないけれど飲む気にはなれずソファへと腰を下ろした。
『じゃあ――別れる?』
ほんの少し前、この部屋で捺くんが言った言葉が頭の中を埋め尽くしている。
それは俺が切り出したことだ。
捺くんの未来のために離れるということは"別れる"ということ。
その話をしはじめたのは俺なのに直接的な別れという単語にひどく動揺して頭はうまく機能しない。
なんで……あのとき、クロくんとの電話のことを言ってしまったんだろう。
言わなければこんなことにはならなかったかもしれないのに。
捺くんの口から"別れ"なんて聞かずにすんだはずなのに。
「……馬鹿か、俺は……」
そんな後悔に、自嘲してしまう。
矛盾だらけ。
捺くんの傍にいていいのだろうか、と将来を考えているのに、実際その話をすることを厭うなんて。
考えているつもりだったけれど、それは机上の空論だったのだと思い知らされる。
それでも――捺くんの未来を……と思うのは本心だ。
なのに、だけど……。
前髪をかきあげ、ぐしゃりと掴む。
ただ……俺が流れを作ったのに"別れる"かと問われたのは心臓が押しつぶされそうなくらいショックで。
そしてあっさりと帰っていったことにも動揺していた。
正直、捺くんは別れなんて言葉を使うとは思わなかったし、あの流れで帰るとも思わなかった。
理不尽で傲慢だと、自分のことながら呆れてしまう。
でも――不安でたまらなかった。
切り出したのは全部俺なのに。
『別れる?』
別れられる?
捺くんを手放せる?
手放すことができる?
答えはNOで、でも、だけれど――と思考はループに陥る。
考えはまとまらないまま時間だけがすぎ、重いため息だけが何度もこぼれおちてしまっていた。
――――
―――
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