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第二章~森(まどろみ)の中で/第三節 光(きぼう)を届けて~
ある日、千巻 は華都 にずっと気になっていたことを質問してみた。
「華都お兄さんは、この森の中に家があるの? 地図にはそれらしき物が載っていなくて、ずっと気になっていたんだ」
今日は、湖ではなく、近くの草むらにある岩に座って、一緒に全裸で日光浴をしているところである。それぞれの手には、千巻の持ってきたトランプが数枚ずつあり、ババ――ジョーカーは今、千巻が持っている。
華都は、どれを取ろうか真剣に悩んでいるようだ。
「うんと、今はね、逃亡中の身でね、ずっとこの湖と付近で暮らしているんだ。これかな?」
――ん? 今逃亡中って聞こえたような?
残念ながら、彼が引いたのは、ハートのエースだった。
――取りそうな位置に置いておいたのに、なぜババを取らないの。くやしい~。
取られた一枚で気がそれてしまい、千巻は逃亡の部分に触れることを忘れてしまった。
「雨の時はどうするの?」
「木の下で雨宿りをしたり、穴を掘ったりとか近場にあるものを利用しているよ」
「何それ、寒そう......」
――あ、スペードのエースがきた。後で、さっきのを奪還せねば!
「三角座りをして、髪の毛にくるまったり、集めておいた葉っぱを毛布代わりにしたり、ウサギがいたら抱きしめたり、運動をしたりしながら体温を保っているよ」
――学校の七不思議の、雨の日に森を眺めると毛玉のオバケが見えるってまさか......?
「ホームレスのおじさんよりも寒そうなんだけど、本当に大丈夫なの?」
「まあ、寒い時もあるけど......十九歳からかれこれ、七年ほど森で生活しているからね、もう慣れもあるかも。よいしょ」
非常に残念なことに、先ほどのスペードのエースだった。
「やったね♪」
「くやしい~。じゃあ、食事は森の木の実とか小動物たちなの?」
「そうだよ。火を起こすところからちゃんとしているんだ」
千巻の手元には後は三枚。何としてでも、ジョーカーのカードを取ってほしいところである。
「じゃあさ、華都お兄さんの野糞がこの付近にあるってことだよね?」
「ふえっ! いくら好きな人でもそれ、面と向かって聞く!?」
「あははは。じょうだんだよ。あ、これお兄さんの真似ね。さ、さ、どうぞ」
「あ~、なるほどね。ぼくを動揺させて、判断力を鈍らせるという作戦なのね」
「ドキ!」
――やっぱり華都お兄さんは、天才さんのほうなのかな?
「どれどれ、これかなあ」
彼が引いたのは、スペードのエイト。これで手元にある札は、ジョーカーと、スペードのキング。彼の手元には今の一枚を合わせて四枚。
――しかし、スペード続きだなあ。
「お、やったね。手元にエイトあったよ」
「うわ、負けそうで嫌だなあ。これかな」
千巻が引いたのは......。
「え!? なんでジョーカー! ババ抜きだから一枚だけのはずじゃ......」
「あはっはは、うっかり入っちゃったのかな? これ、ぼくの次の引くカードによってはエンドレスでジョーカーの送り合いになるってことだよね」
「そうなるけど......ま、負けたくないっ。って、配った人、華都お兄さんでしょうがっ」
「ははは、ごめんごめん。てへぺろだよ。ん? もう死語かな、これ? 今度から気を付けるよ。そおれっと。お、やったね♪」
彼は、見えているかのようにキングをかっさらっていった。
「やったね♪」
「うわあ~。くやしい~っ!」
「久しぶりにトランプで遊べて楽しかったよ。千巻くん、ありがとうねえ」
華都は、千巻の頭を撫でて笑顔で言った。
うれしそうに、わしゃわしゃと撫でられていると、悔しい気持ちが薄れていった。
――俺は、この笑顔に弱いかも。もっと見てみたくて、仕方なくなる。
「明日は、何を持ってこようかな......」
「ふふふ。縄跳びも久しぶりに遊びたいなあ」
「うん。じゃあ明日は縄跳びを持ってくるよ。普通に跳んで、何回跳べるか勝負しようよ!」
「おっけ~。ぼく、三百回跳ぶ自信あるよ」
「え!? 三百回!?」
「まあ、脳内のマイクロチップから電気信号を必要箇所に送られたらだけどね。じょうだんでなくてごめんね。だから、そういうのなしでは何回跳べるか、楽しみ~」
華都は、てへへへと頭をかいて笑って答えたが......。
「もう、マイクロチップを入れているの!?」
じょうだんに聞こえることをじょうだんではないと言われて、千巻は困惑した。
そして、困惑ついでに思い出した。
「そういえば、逃亡中ってどういうことなの?」
「そうだね、この国では導入が始まったばかりだものね。驚くよね~。ははは。これはね、別の国のプロジェクトに参加した時に入れられたものなんだ」
華都は、明るい声ではあるものの、泣きそうな顔になっていた。
「お兄さん? 大丈夫?」
「ごめんね、千巻くん。ぼく、そろそろ、さよならの日が近づいているかもしれない」
そう言うと、彼は、両腕を千巻に見せた。
「す、けてる......?」
この前は太陽の光加減だと思っていたが、今日はどこからどう見ても、てのひらから二の腕のまでが透き通っているのである。かろうじて輪郭はうっすらとあるものの、骨さえも見えない......。なぜ、今日はこんなにも近くにいるのに気付かなかったのだろうか――。
「びっくりしたでしょう? ぼくはね、そのプロジェクトの後遺症から、透血病 という難病にかかっているんだ」
「と、う、けつ病?」
「そう。じょじょに血が透明になっていって、そのうち細胞も、骨も透明になっていく病気。お話の透明人間のように今は物をまだ持つことができているけれども」
と、彼は、トランプを持って、ひらひらと動かしてみせた。
「かかったことがある人がほんのひとにぎりだからか、資料が少なくて、経過の様子は数件あったけれども、さいごはどうなって終わるのかは一部情報ぐらいで、検索をかけてもほぼ出てこないんだ。きっと研究所に連れて行かれたり、秘密裏に処理をされているのかもね」
トランプがクルッと回されて、彼のてのひらの中で姿を消した。
千巻は、全裸で手品をする人は初めて見たので、少しわくわくしそうになってしまった。
「何だか怖いね。急に知らない人たちが家に来て、研究所に連れて行くとかあったら、俺、怖くてたえられないよ......」
「ぼくの場合は、プロジェクトに参加終了間際に症状が出始めたから、帰国後すぐに関係者側の研究所に連れて行かれた感じ。でも、経過を記録したりするための毎日の多すぎる検査とか、閉鎖環境のあれやこれやからここで人生を終えるのは嫌だなあって思って、逃げ出しちゃったんだよ」
「それで逃亡中なんだ......。もしかして、元の家には追跡が怖くて帰れないの?」
「ぼくは、孤児院出身でね、両親はぼくの小さな頃に交通事故で天国へ旅行へ出かけたままなんだ。だから帰るとしたら院になるんだろうけれどね。脳内のマイクロチップで居場所もすぐバレれるだろうから迷惑はかけられないよね。もちろん今ももしかしたらそうかもしれないけれども。色々と体のデータも勝手に取られているんじゃないかな?」
上を向いて華都が言うので、思わず、近くに受信機があるのかとつい探してしまった。
――ハッ! 人工衛星を使うのか!
「怖っ。SF小説の世界みたい」
「ふふん。つまり、簡単にまとめると国家機密の男ときみは恋人なのだよ、千巻くん」
「ちょっと、華都お兄さん。顔とセリフがちぐはぐじゃん。本当は、死にたくないんでしょう? 余裕ぶっこいて森の一部になりたいだなんて言ってはいたものの......」
「だって、前までとは違って、千巻くんが今はそばにいてくれるから。ぼくは、きみとさよならをするのがさみしくて、怖い。もっと長生きして、楽しいことをいっぱいして、できればお嫁さんの代わりに一緒に暮らして、くいのないように人生を終えたくなっちゃった......」
彼の目から静かに涙が零れていく――。
「も、もしかしたら、透明人間として存在できるかもしれないじゃないか」
「どうだろう......。透明人間のようにそこで生きているわけではなく、その魂は風に乗って辺りに溶け込む説があってね。空気や水のように形を失って、誰も抱きしめられなくなって、自然界に溶け込んで、生命力エネルギーの一部になったという、書き手さんが親友さんのことを調べた結果を含めたブログのページがあって、そこのコメント欄にも触ることができないけれど、温度や音で確認できる機材を用いて、空間全体に反応を確認できたとか、写真撮影で不思議な七色のもやのようなものが写り込んだりなどの同じ意見も多数あって、それがもしかしたら有力説かもしれないと思っていて......」
「研究所の人は教えてくれないの?」
「会話があっても検査内容や体調面のことばかりで、なあんにも。詳しく聞こうとしたらにらまれちゃうんだよね。もしかしたら、モルモットよりもひどい扱いかも。毎日あれやこれや試されて血を抜かれたり、脳波を調べられたり。血液中の病原物質がどんなことをすれば減るよりも、増えるのかを主に観察されていたみたいで、そのままいたら早死にするんじゃないかと思っていたよ。未だに進行を止めるお薬はこの世にはないみたいだから、ぼくはここで日光浴をしている方が体に合っているよ」
「増え方をみるって、それ、治療じゃないじゃん......」
「そうだよ。同じ後遺症の子を増やさないようにするための実験体のようなものさ。ぼくには家族がいないからね。好都合だったんだろう。いつ死んでも気にする必要がない存在として。他にも孤児院出身者ばかりだったよ。同期のプロジェクトメンバーは」
「そんな......。じゃあ、他の人たちも後遺症があれば同じようにひどい目に合っているの?」
「そうだね。大半は、幻覚や幻聴を見続けてしまう子が多かった。電気信号の調節による解決方法と称して、実際には別の実験を行って様々なデータを集められていて――。中にはその時に他の後遺症を発症してしまう子もいた」
「その子たちは、どうなったの?」
「何人かはまだ研究所にいると思うけど、十人は発狂した後、数日して天国へ行ったよ」
「ひどすぎる......」
華都は、手を上げて腕の透き通りを見た。
「ぼく、最近ね、腕とか手の感覚がなくなってきたような気がするんだ。紙よりも重たいものはもう持てないんだ」
と、近くの石を持ち上げようとするが、浮かせることすらほぼできず、わずかに前に動かすことができただけだった。
「そんな......。体が消えちゃうだなんて、そんな不思議なことあり得るのかな? 今でも手の輪郭は少しわかるし、まだ少しでも持つこともできるのに想像できないよ......」
「本来なら生まれない攻撃物質が血液に乗って、体全体を移動していって内部から組織を壊しているらしいんだけど、まさかプロジェクトのマイクロチップの作用が原因とは上も認めたくないらしくてね、初めの頃、ここにたどり着くまではかなり追いかけられていたよ。でも、ぼくは無害だとわかってくれたのか今はそっと監視しているのかもね」
「怖いよそれ。追っかけられるのも監視されるのも」
「ぼくも初めの頃は、怖かったよ。データ取得のために殺されることはないとは思うけれども、捕まえられたら、厳重に鍵をかけて、監禁されそうだからね。一生懸命、山と谷を越えてきたんだ」
「山と谷を越えて? どこかの忍者じゃん! ここよりもすごく遠くから来たの?」
「まあね。その頃には、ここが光を放っていたから、人がいる場所ではウロウロできなかったよ。恥ずかしすぎて......」
華都は、足の間で光っている袋をそっと手で隠した。隠しきれない光の強さに、彼も千巻も苦笑いをする。
「何で今更隠すの~」
「だって、思い出したら恥ずかしくて。へへ......。もしさ、形を失うことになるなら、この前話した通り、ぼくはこの森の一部に、一緒になりたいんだ」
「透明人間になれるなら?」
「う~ん。どんなデメリットがあるかわからないけれども、千巻くんの家に遊びに行って、お風呂も、お布団の中も一緒に楽しいことをして、それから毎晩きみに軟膏を塗って、おやすみのキスで一日を終えられたら良いなあ」
「それ、楽しそう。でも、大丈夫かなあ。研究所の人たちが来そうで怖いよ。そのチップはなんとかならないの?」
「残念だけど、すごく小さいものだから手術をしないとね。簡単にできる場所でもないし、何よりもぼくにはお金がないからね、秘密裏に取りのぞくことはそこが危険になるだろうから無理そうだし、その時点でプロジェクトチームに殺されちゃうかもね」
「そんなに危険なところに入っていたの?」
「まあねえ。今も進行中のプロジェクトなんだけど、こういう後遺症が出る子どもたちが多くてね。おそらく直 に中止になるんじゃないかな。解決策が見つからなければだけど......」
「そのプロジェクトって、まさか『月の楽園、ムーンショタプロジェクト』のこと?」
「ピンポン~♪」
「大国じゃん! 華都お兄さんの恋人として、色々な覚悟が必要らしいことだけは何となくわかってきたよ」
「ごめんね、怖がらせちゃった? でも、あの日、逃げ出して良かったよ。きみに会えたんだもの」
「ありがとう。華都お兄さんがぼくのことを守ってくれるから、そんなには怖くないよ。......そうだ。明日の縄跳びは、俺が回すから一緒に跳ぼうよ」
「うん!」
華都にようやくいつもの笑顔が戻ってきた。
★
千巻が華都と森で出逢い、お互いにひとめぼれから両想いになってから、八日目の朝は日曜日で――。
腕を見せてくれた後の「透明化」の進行は速くて、昨日の時点でもう胸から上を残して広がっていた。
いつもなら、平日の学校帰りに森に顔を出していた千巻だったが、不安になってしまい、図書館に行くと嘘をついて、走って向かった。
今日は、草むらから顔を出したものの、覗き見することなく、すぐに声をかけた。
「はあ、はあ。華都お兄さあん、今日は、缶ぽっくりを持ってきたんだ。ぼくが操縦するから、乗ってみて。はあはあ」
湖に、華都がいることを確認して、千巻は安堵した。
――あは、雪だるまの生存確認と確かに変わらないかも......?
彼もすぐに気付いてくれたので、いつものように、明るい声が飛んできた。
「あはは。そんなに乱れちゃって。『今日も、のぞき魔千巻くん』よりも、何だかドキドキしちゃうね。今日から、『乱れて! 飛び出せ! 千巻くん』かな?」
「むう。また人を番組のタイトルのように」
――心配して嘘ついてまで来たのにぃ。まったくもう。
「そうだ、見てみて、千巻くん。ぼくもう首から上だけになっちゃった」
「え?」
彼は、体の輪郭はうっすらと見えはするものの、ちゃんと見えるのは本当に首から上の頭部だけになっていた。遠目では水面に生首が浮いているように見えるあれである。
「ちょちょちょっとぉ、昨日よりも進行速すぎるじゃん!」
千巻は、缶ぽっくりを足元に置いて、服のままじゃぶじゃぶと湖の中に入り、彼のそばに駆け寄った。
「どうしてこんなに一気に進むのさ。出逢った頃はゆっくりだったのに......」
腕の力をあまり出せなくなった華都のために、千巻は彼を離さないようにぎゅっと抱きしめた。
「今日はね、朝から特に進行が早くてね、今も止まらずに、速さが目に見える感じで『透明化』していっているんだ。きっともうさいごに向かっているんだよ。ぼく、直感かな、わかるんだ。脳が透明になってしまったらもう体は保てないって。口に達した時には、いつまで話せるか......」
――さいご......。
重くのしかかるその三文字に泣きそうになったが、千巻は、ぐっとそれをこらえた。
――泣きたいのは、お兄さんのはず。俺が泣くわけにはいかない。
「......大丈夫だよ。話せなくなっても、さいごまで俺が華都お兄さんに愛をささやき続けるからさ。だから、今は色んなことをいつもみたいにおしゃべりしようよ」
「ありがとう。だいすきだよ、千巻くん」
「お、俺もだいすき!」
華都のやわらかな唇に、自分の唇を重ねて、千巻はこれが最期のキスになることを瞬時に理解した。唇の温度が異様に冷たかったのである。直に「透明化」が迫っているのだろう......。
舌を入れて、絡め合い、やさしくて濃厚な時間を彼に届けた――。
「はあ、はあ。今日の千巻くん、えろすぎるよ。いつもより舌の動きが、えろい」
「お兄さんの舌の動きを覚えたんだよ。ふふん」
「ははは、どや顔まで覚えなくても良いよお」
ケラケラ楽しそうに笑う華都を見て、千巻の胸の中の、これからむかえることへの怖さや焦りが少しやわらいだ。
「笑ったら寿命がのびるって本当なのかな?」
「うん、本当だよ。細胞が活性化したり 、脳内に幸福感や鎮痛作用のあるエンドルフィンという物質が分泌されたり、色々な効果があるらしいよ。ぼくは、きみに出逢って楽しい時間をすごすことができて、本来よりも進行をおさえられていたんだと思うんだ。急に『透明化』が進んだのは、きっと体を修復するには細胞が死にすぎて、少しばかり遅かったのかもしれない。もしくは、研究所の操作もあるかもしれないよね......」
華都の「透明化」は、首から顎、耳たぶまで広がってきていた。
――待って。まだ伝えたいことがいっぱいあるんだ。
千巻は、彼の耳へ囁いた。
「俺、華都お兄さんがだいすき。長くてキレイな形のペニスも、やさしくて甘い声も全部。今は、全部俺のものだからね? これからもし森のみんなのお兄さんになっても、いつまでも忘れないから」
そして、舌でゆっくりと耳穴を舐めた。
「あふっ。ちょっと死に際にゾクゾクさせられるってかなりシュールじゃないですか、千巻先生っ、あんっ、そこは、だ、ダメ、ヤバいよもう勃起する力ないはずなのに、嘘でしょう」
わずかだが、もうほぼ動かなくなってきていた華都の透明のペニスが起き上がりかけていた。
透明になっても、袋の中は相変わらず光り続けているので、睾丸そのものはもう消えてしまっていても、光を放つ玉がその中にあるのが見えているおかげで、彼の分身の位置がいつでもすぐに分かった。
千巻は、やさしくやさしく扱いていき、透明の乳首にも口づけを繰り返した。
そして、速度をじょじょに速めていった。壊さないようにこわさないように――。
「あん、あふ、はあ、はあ、イキそうだよ。ヤバい、これがさいごの言葉になったら恥ずかしくて死にそう、はあはあ」
「ちょっと、お兄さん。笑わせないでよう。俺もそんなのは嫌だよ~」
彼のペニスから精液は出ることはなかったが、果てるところまで、一人でしっかりと手伝えるようになったことは、千巻の誇りだった。
――これって人前では自慢できないあれだよね?
「千巻くん、お願いがあるんだけど」
唇が透明になりつつある中、彼がそっと耳元へ千巻だけが聞き取れるような、小さな声で言った。
「ぼくが森と一緒になる前に、頭からマイクロチップが出てくるはずなんだ。それを研究所の人が来る前にきみが回収をしてくれないかな? そして、これから言う人にお願いしてデータをコピーしてもらって、ぼくの記憶をたどって、できれば色々なことに役立ててほしいんだ。月へ行って悲しい死に方をしたメンバーもきっと喜んでくれると思うんだ。あの日、生きていて良かったって。賢いきみには、どんなことに使えるか、すぐにわかると思う。そして、チップはその後この湖へ沈めに来たら良いよ。持ったままだと危ないからね」
盗聴されている可能性もあるのか、詳しくは語らないが、千巻には何となく内容が理解ができた――。
だから、きりっとした表情で答えた。
「わかったよ。俺はまだ子どもだからできることが限られているけれども、大人になるまでに必ず行動を起こすよ。俺は誰でも心から笑って楽しくすごせるようなことをするって約束するよ。だから、もし俺が危なくなった時は助けに来てよね」
「ありがとう! もちろんだよ。その人は――」
名前を告げ終えた後、華都の「透明化」は、目の下まで一気に進んでいた。
あの睫毛が長くて二重瞼の、おだやかそうな瞳が、千巻を今またさみしそうに見つめてくる。
「どこにも行かないよ。さいごの瞬間まで、俺がずっとそばにいるから、大丈夫だよ」
「うん、怖いよう。ぎゅと抱きしめて。『透明化』が速くなってからすごく寒いんだ」
「うんうん、俺が温めてあげるよ」
千巻は、彼をぎゅっと抱きしめて、背中をやさしくやさしく、母親が子どもを寝かし付けるようにとんとんとリズムをつけてたたいた。
「華都ぉ、だいすきだよ。俺の宇宙で一番だいすきな人だよ」
「......うれしい。名前だけで呼んでくれるだなんて! すごく新鮮で、うれしくて、どうしよう......! しかも宇宙一だなんて、うれしいよお」
彼は、最期の涙をたくさんあふれさせて、笑った。
口も動かしづらくなってきたのだろうか、後半は音がスムーズに出せなくなっていた。
そして、目から額にかけての「透明化」が始まってしまった。
視力は最期まで残るのかわからないので、千巻は、しっかりその瞳に自分が映るように、まっすぐに見つめた――。
その後、目は見えなくなっていったものの、目を閉じていても、心で感じ取ることができるようで、千巻のいる方向へ透明の顔をうごかしてくれた。口はもう動かせないようだ。
そしていよいよ、頭と髪だけになってしまった――。
千巻は、ぎゅうっと彼を強く抱きしめて、覚悟を決め、愛の言葉をささやき続けた。
「だいすきだよ。ありきたりな言葉かもしれないけれど、百回でも一千回でも言い足りないから、ずっと言わせて。華都ぉ、だいすきだよ......!」
その時、彼の体の中からあふれ出すあのやさしい光が、いつもの百倍ぐらいものすごくまぶしく光り出したかと思うと、辺り一帯を光で覆いつくした。
そのまばゆい光の中、華都の最期の頭部が透明になり、体全体がすーっと空間に空気のように風のように流れていくのが見えた。
その時、はっきりと、あの口の中でミルクチョコレートをそっと溶かすような心地の良い甘さのある、おだやかな声で、
「千巻、だいすきだよ。ぼくもね、きみが宇宙で一番、永遠にだいすきっ」
と、聞こえた。
「華都――!」
千巻は、喉から出せるだけのありったけの大きな声で、一生懸命彼の名前を呼んだ。
★
気が付くと、やさしいお日様の光が降り注ぐ、波紋一つない静かな湖で、千巻は一人立ち尽くしていた。
手には、最愛の人の美しい栗色の髪の毛の束と、「小さなちいさな秘密の約束ごと」があった。
――華都は、森の一部になったんだね。夢が叶ったねえ、おめでとう......!
彼は、逝ってしまったのではなく、ようやく行きたい所に、好きな場所に行くことができるようになったのだと、まだこの森で彼は生きているのだと思うと、千巻は泣きそうになることを何とかこらえることができた。
湖の中央にある大きな岩に背中を少し預けて、華都のようにゆっくりと水浴びをしてみた。
目を閉じて、耳を澄ませると、鳥のさえずる声、樹々が揺れ合って歌う声がやさしくやさしく聞こえてきた。
何も考える必要がここにはなくて、おだやかな時間だけがあるのである。
研究所から平穏な世界を目指した、ここを選んだ気持ちが千巻には、何となく理解できたような気がする。
――ああ、きっとどれも華都の歌声なのかもしれないなあ。
ふいに、そよ風が吹いた。
「来てくれたの?」
――どこを感じても、見ても、あなたがそばにいるようで......。
そよ風は、しばらく千巻のそばから離れることはく、ずっとそよそよとそばにいてくれた。
「ふふっ、くすぐったいよお。あはははは」
夕方になるまで、そよ風は千巻のそばを離れなかった。
「そろそろ帰らなくちゃね。また、学校の帰りに遊びに来るよ」
千巻は、湖から上がると、服を脱いで水分をしぼった。
「あちゃあ。干してから水浴びすべきだったかなあ」
服の中に、彼の髪の毛と「約束ごと」を包んで隠し、千巻は、入り口まで全裸で帰ることにした。
――ヤバい。初めて出逢った時よりもハレンチな格好になっているよ。
ペニスがぶらぶら揺れるのを眺めていると、
「ここ、が好きなの?」
と、彼の言葉が脳裏をよぎった。そして、どんどん彼からこれまでに贈られた言葉の数々が思い出されていき――。
「やあやあ、露出狂くんでしたか~」
「また、遊びに来てくれる?」
「......うれしい、ありがとう!」
「ぼくの名前は、野薔薇 華都 。きみはなんていうの?」
「あ~。そうか、これから野」
「千巻くんったらHなんだからあ」
「ふふ。ドキドキしちゃった? 恋しそう?」
「大切な所だけ見えないって、ちょっとHだと思わない? 鏡で見ると生えているようには見えなくて、女の子になったような気持ちになるよね。ほら、湖に映してごらんよ」
「こんなに大きくして、昨日と同じこと、してほしいの?」
「うん、すごくうれしいんだよ。目の前でやさしく抱いてくれているのが、大好きな千巻くんだから」
「大丈夫だよ、ぼくがいるからね。きみがぼくを必要としてくれるならいつでも守ってあげるからね」
「うん。どこまでも、一緒だよ。今は目には見えないけれど、空の向こうにある星空の下でぼくはきみにもう一度約束をするよ。きみがぼくを必要としてくれるならいつでも守ってあげるからね。だからこれからもどこまでも、一緒にいるからね。......だから、さいごの時が来ても、ぼくのことを探してくれる?」
「その時がきた時、きっときみは、ぼくのためにたくさん泣いて探してくれるのだろうけれども......。ぼくがなりたいのは、森を駆け抜けるそよ風や、森やきみの心を照らす月の光を通して見守るような存在や、森の生命力の素になるような存在なんだ。だから触れることはできないかもしれない。それでも、どうかぼくのことを探して感じてくれたらうれしいなあ」
「......うれしい。名前だけで呼んでくれるだなんて! すごく新鮮で、うれしくて、どうしよう......! しかも宇宙一だなんて、うれしいよお」
「千巻、だいすきだよ。ぼくもね、きみが宇宙で一番、永遠にだいすきっ」
――千巻は、今になって涙があふれ出てきた。
「おかしいなあ、ほとんど下ネタなのに......」
――しかも野糞の会話まで思い出すとか、俺どうかしているわあ。
千巻は、入り口付近の草むらで服を着た。まだ全部は乾いていなかったが、夏の日差しの中を二十分歩いたのでだいぶマシにはなったとは思う。
髪は近くにあった大きな葉っぱにくるんで、ズボンのポケットに、「約束ごと」は、パンツの中へ入れ、ペニスと袋の間に挟んだ。
――さすがに、人の下着を街中で下ろしたりしてまでは、研究所の人たちは奪ったりしないだろうと思ったのである。
そして、念のため図書館に寄ってから、先ほど華都から聞いた、今後の協力者の元へ向かうことにした。万一のことも考えて、家に持って帰るわけにはいかないからである。
★
千巻がたどり着いた所は、隣町の小さな白い建物だった。
建物に名前などなかったが、その真っ白で美しい見た目から、研究所もしくは美術館かもしれないと推測することは可能だった。
呼び鈴を押してみた。
「隣街の図書館の横のカフェの裏に白い建物があるでしょう。あそこはね、月で親友になった弓斗ちゃんがね、研究所を作るために土地と建物を買い取る予定なんだ。もしその夢が叶って、所長さんになっていたら、データを開いてもらうと良いよ。ぼくの夢の一つの賛同者で、なおかつ同期のプロジェクトのメンバーの中で唯一研究所に送られることなく、目立つ後遺症なく生還した一人なんだよ。きっときみのことを手伝ったり助けてくれるよ。黒髪のロングヘアーで可愛くて、それからね頬には――」
――って、言われて来たものの、一か八かも良いところだよね、ははは。
その時、扉が開き、少し長めの黒髪のショートへアの細身の、美しい顔立ちの青年が顔を出した。頬には、ハートの形のほくろがあった――。
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