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第七話

 こちらから呼び寄せた訳ではなかったようで、何事かと父は腰元に尋ねる。 「膳奉行(ぜんぶぎょう)様より、樹木の下でお過ごしなので、琉球酒を召し上がり下さいとの事でございます」 「ふむ、膳奉行がのう……」  確かに琉球酒は薬酒として患部に塗ったり、飲んだりする。戸外で過ごす主人に対して、障りがないよう配慮したのであろうと、紅は納得したのだが父は思案げに呟いている。  どれも同じ塗りの升に注がれた酒は金箔が散らしてあるが、その中に一つだけ金箔ではなく桜の花びらを浮かべたものがあった。  腰元から升を受け取りつつ、気になった紅は尋ねる。 「それは?」 「はい、お(ひぃ)様には琉球酒は強うございますので、極々少量を甘酒で薄めたものをお持ち致しました」と腰元は微笑みながら、その酒を藤野に手渡す。  確かに甘酒であれば酒に弱いおなごでも、口当たりの柔らかさから飲みやすいではあろうが……。  そう思いつつ紅は藤野を眺めた。  腰元から升を受け取りはしたものの、彼女は口を付けずに戸惑っている。  どうやら酒は飲めぬのだろうと、紅は微笑ましく思う。  己の身の回りの女人と言えば、他の者を牽制しつつ紅にすり寄る機会を狙い、宴が続く限り杯を重ねても平然としている。  まるでうわばみのごとき者ばかりであったから、藤野の見せる恥じらいや戸惑いといった様子は新鮮で、可愛らしく思えて仕方がなかった。  升を配り終えた腰元は、軽く頭を下げてその場を辞そうとするが、「そちは誰の命を受けておる?」と、黙り込んでいた父が不意に声を掛けた。 「はい、膳奉行の館脇さまの、お言いつけで……」  先程までは藤野や豊成と他愛もない話に柔かな笑みをこぼしていた父であるが、今、腰元に向けられた眼差しは厳しく、冷笑を浮かべている。  その様子に何か大御所様の機嫌を損ねるような行いをしたであろうかと、慌てた腰元はその場に平伏する。 「館脇には、わしが呼ぶまで何人も近寄らせるなと、伝えてあったのだが……」  人払いしていたにも関わらず、腰元が現れたのであれば確かに府に落ちぬ。  膳奉行が主人の言い付けを守らぬのも問題であるが、そうでない場合この腰元はどんな意図でこの場にいるのだろうか?   豊成もその事に思いいたったのであろう、すぐに動き出せるよう片膝立ちで身構えている。  腰元から注意は逸らさぬまま藤野の様子を伺うと、彼女は手にした升を見つめ、何やら覚悟を決めたように小さく頷くと、升を口許に近づけ、口を開いた。  臼桃色の唇の奥に潜んでいた鮮やかな赤が、紅の視界に広がる。  細く白い喉を傾け乳白色の甘酒を、藤野が口に含もうとしていた。 ※ ※ ※ 「藤野、待ちなさい」  藤野の手首を掴んだ父が、彼女から升を取り上げ、怯えて平伏したままの腰元の前に置いた。 「飲んでみなさい」  告げられた言葉に視線を上げ、目の前に置かれた升を見た腰元は、自分のような身分の低いものが口にして良いものではないし、酒も飲めないのだと言い張る。 「我が命がきけぬと?」  荒げぬが、怒気のこもった声が腰元に注がれる。 「きけぬのなら仕方ない。豊成、この女を斬れ」  腰元は体を震わせるが、それでも升に手を伸ばそうとはしない。  いきなり斬れと命じる父の性急さに、紅は苦笑するものの、主の命を頑なに断る腰元も怪しすぎると静観する。 「かしこまりました」  斬れと命じられた豊成は、動じる様子もなく立ち上がる。  己に近づく豊成の気配を感じたのか、「お、お待ちください」と腰元がかすれ声を上げた。 「飲むか」  執拗に言い立てる父の言葉に、それ以外に道はないと諦めたのか、震える身体を起こし腰元は、升を手に取った。  腰元が傾ける升の中、揺れる花びらを、紅は見つめていた。  その花びらが乳白色の酒と共に、藤野目掛けて飛び出す。  空になった升を豊成の顔に投げつけ、敏捷な動きで腰元は後方に跳びすさる。  飛んで来た升を刀を抜く動作で切り下げて、真っ二つに弾き飛ばした豊成は、藤野が着物の袖で酒が掛かるのを防いだのを確認し、腰元と対峙する。 「貴様、何者だ。誰を狙った?」  刀を手に問い詰める豊成に臆することなく、女は不適な笑みを浮かべる。 「貴方にお答えする義理はございません。まぁ、山内家ご当主に聞かれても答えはしませんが」  ふざけた答えを返しつ懐剣(かいけん)を取りだすと、己の体と帯の間に刃を差し込み、女は帯を一気に断ち切った。  はだけた着物の下から覗く黒装束に「忍びか……」と豊成が呟く。  立ち上がりかけていた紅に、女が脱いだ着物を投げ掛けていた。  ふわりと広がった着物が、紅の視界を遮る。 「上様!」  それを取り去ろうと手を伸ばした豊成の隙を突いて、女は動いた……大御所目掛けて……  その場に座ったままの父に、女が懐剣を振り下ろす。 「お祖父様」  着物を剥ぎ取り視界を取り戻した紅の視界を、父と女の間に割り込んだ藤野の姿が占める。  父を庇い抱きつく藤野の背に、刃が突き刺さっていた。 『桜の精の血の色は、やはり臼桃色であろうか?』  一瞬の静寂……紅の心に浮かんだのは、そんな益体(やくたい)もない事であった。

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