4 / 19
第4話
「……でな? ココはこっちの方程式でこの数式に変えんねん」
「ええ……なんで? 」
「それは……」
律は、ふむふむ、と橘の説明を必死に聞く。
「あー、分かんないなぁ〜。てか何で橘は滅多に学校来ないのにいつもそんな頭良いの? 」
律はシャーペンを置いて背中を伸ばしながら橘に訊いた。橘は珍しく眼鏡をかけている。
「んー? 何でやろなぁ〜。まぁ、勉強ぐらい出来ひんと、俺は出席日数足りひんしなぁ」
「あー脳細胞の出来の違いかぁ〜」
絶望に打ちひしがれながら、窓の外に目をやる。少し外の景色を見ないと、頭が狂いそうだ。放課後の教室で、珍しく来た橘を捕獲し勉強を見てもらっている。一年の時、全く学校に来ないし見た目も性格もおちゃらけのチャラチャラの助だったから、成績順位表で上位三位以内に食い込んでいるのを見た時は、大変驚愕したし、思わず「カンニングしたの⁉」と失礼な事を聞いてチョップされたのは記憶に新しい。
「まぁまぁ、俺は天才やから天才と比べるんは時間の無駄やで?」
ふふん、とドヤ顔をされ俺はムッと口を尖らす。
「あーあーわっかんないなー! もー!」
目の前の問題も分かんないし、相変わらず由伊の事も良く分からない。何もかもが面倒くさくなってきた。
「何がそんな分かられへんの?」
橘は問題集を覗き込んで「どれどれ」と言ってくる。そんな橘を見て、律はそれとなく聞いてみた。
「……ねぇ橘ってさ、好きな人に告白して友達でいたい、って言われたら、相手のこと嫌いになったりする?」
唐突な律の質問に橘は「おー?」とキョトンとした。
「どないしたん、急に?」
眼鏡を外し、律と目を合わせてくれる。
「いや、別に俺の話じゃないんだけどさ。友達がね? 好きな子に告白したら友達で居たいって言われたから、嫌になったんだ、的な事を言っててさ、……俺、好きな子出来たことないから、そういうのよくわかんなくて」
そう言うと、橘は再びキョトンとした顔をする。
「でもりっちゃん友達居らんやん。俺しか」
「いや今はそこじゃないから」
ムッと見やると、橘は苦笑する。「んー」と考える素振りを見せて、ゆっくり口を開いた。
「……嫌いには、ならへんかなぁ。仲良いフリは多分、俺は出来っと思うけど、逆に言うたら『フリ』しか出来ひんかも」
「んん? どういうこと? 」
橘のセリフが難しくて首を傾げる。
「せやから、俺がりっちゃんを好きで告白したとするやん。でもりっちゃんは俺をフるんや。ごめん、友達で居りたいってな」
「……う、うん?」
「俺は、分かった。明日からはまたよろしゅうな言うて、翌朝も普通に話せんねん。けど、俺ん中ではずっとモヤモヤは残ると思う」
「……なんで?」
橘は優しい顔になり、律の瞳をまっすぐ見る。
「当たり前やん。俺は、りっちゃんが好きやったんやで? でも、その好きなりっちゃんは俺と友達で居りたいて思っとる。ほんなら俺はそれを優先さして、恋心は殺さなあかんやん?」
「……うん」
「でも『友達』やから、俺は恋心を押し殺して、りっちゃんとは普通に話さなあかんし、友人として信頼してくれとるりっちゃんを裏切らへんように下心も全部奥の奥に隠して、りっちゃんが普通に恋人を作ったとしても、その幸せな話を聞かなあかんかもしれへんやん」
「……」
「好きな人のしあわせを願わん奴はおらんよ。せやから、いっちゃん近くに居るようで実は、いっちゃん遠い『友人になってくれ』っちゅーんは、残酷なんやと俺は思うで」
そうか。そうだったのか。俺は……
「好きな人の『自分以外との幸せ』を、無条件でいっちゃん最初に知れてしまうんも、友人やったりするしな」
橘の静かな声に、律は益々自分がどうしたら良いのか分からなくなった。好き、って単純じゃないんだ。好きなら好き、嫌いなら嫌い、それを伝えられて、はいそうですか分かりました、なんてならないんだ。そこから、考えるべきだったんだ相手の事を、もっと良く。
「……俺、……どうすればいいか、分かんない」
気づけば取り繕う事も忘れて、橘に話してしまっていた。
「話してみ?」
優しく聞かれ、律は導かれるように思わず話していた。
「……由伊に、好きって言われて一時期付き合ってた。……でも、俺、何かの罰ゲームで由伊が言ってきたんだと思って、適当に返事してた……けど噛み合ってないことに気付いて、三ヶ月くらい後にお互いの勘違いに気付いて、俺はごめんって言ったんだ。……友達で居たいって、そしたら、残酷だ、って言われて……」
「うん」
「……その時は深く考えてなくて、終わったものだと思ってたんだ、俺は。でも、……由伊からしたら、終わってなくて、……上手く言えないんだけど、色々あって俺、……由伊に優しくして貰ったのに、……由伊とどうなりたいのか分かんなくなっちゃった……」
全然上手く説明出来なくて、俯いた。
「そうか」
「……ずっと、考えた。由伊が苦しそうな顔で、わざと俺に酷いこと言うの……何考えてるのか分かんなかったけど、……今の橘の話で何となく、分かった……」
言いたくない事を言わなくちゃいけなくさせたのは、自分だったのだ。あの時は、一方的に意地悪なこと言われたと思っていた。けどそれはお門違いも甚だしいわけだ。
全部、自分のせいなのに。
「……まぁ正直、どっちがどう悪いゆう話でも無いやろうし、俺が兎や角言える立場でも無いんやけど」
橘は、ふと窓の外に目を向けいつもの陽気な表情とは一転して、大人びた表情で続けた。
「言葉が足りひんのはあかん事やと思う」
「ことば……」
「人間は、テレパシーなんて使われへんやん。少なくとも俺は使えへん。せやから、口に出さな相手の考えなんて全くわからんし。そりゃ表情や相手の癖なんかで歴が長ければ分かることは多少なりともあるけど、限界はあるやろ。ほんで、大抵が思い込みや」
橘の言葉たちが俺の胸にすっと入ってくる。
「思い込みがいつの間にか、相手が言うたと錯覚し始めて段々自分の中で拗れてくんねん。けど相手はなんでそうなっとんのか分からん。自分も何でこうなってんのか分からんくなって、分かり合えんって思ってまう。ちゃんと、言葉にすれば永遠で居れたかもしれへんのに、勿体ないやん。一文字二文字でも、口に出せばええねん。上手く言われへんくても、伝わる。伝えようと思えば、必ず伝わる」
優しげに細められた瞳に見つめられて、律は泣きたくなった。
「……俺は、そう思うで」
橘は、自分の意見をしっかりと、伝えてくれる。律は、ようやくわかった。自分たちに足りなかったのは、『会話』だったのだ。
「……橘、ごめん、ありがとう。どうすればいいか、漸く分かった」
「そぉか、それは何よりや」
「勉強教えて貰った上に、なんか、こんな話して、ごめん……」
律はしゅん、として謝ると、橘は「何言うとんねんー! 」とくしゃくしゃ頭を撫でてきた。
「俺は今むっちゃ嬉しいで! りっちゃんが自分のこと相談してくれんの初めてやん⁉めっちゃ嬉しいわ〜!」
「そうだっけ……?」
「せやでー!何があっても俺はりっちゃんの味方や、思いっきりかましたれー!」
橘の言葉が面白くて、律は思わず笑ってしまった。つくづく、良い友達を持ったと思う。律たちは気を取り直して、再び日が暮れるまで笑い合いながら勉強を進めた。
やっと、中間考査が終わり生徒達の雰囲気もゆったりモードに戻っていた。律も無事、赤点は免れ無事に単位を貰えそうだ。あとはもう冬休みを待つだけとなり、そして今がチャンスだと思っている。考査前に橘に教えて貰ったこと、今なら実践出来る気がする。あの後考えてみて気づいたことがあったのだ。自分たちは、由伊が話しかけてこないと何の接点も無くなってしまうという事に。初めの頃は、由伊が犬のように尻尾を振りながら話しかけてきたから律も答えていた。けど今は、律が話しかけないから接点が無くなってしまったのだ。これがダメなんだよな。これから、友人に戻るか否かは話してから決めよう。いやそれを判断するのは、由伊だもんな。話しかけるなら、今日の放課後の由伊が生徒会に行く前のちょっとした時間だな。女の子達が居て、話せないかも……。あ、じゃあ、生徒会室の前に居ればいいんじゃないか⁉生徒会室の前で待ち伏せて、「久しぶり、テストどうだった? 生徒会頑張れ」って……。これいいじゃん! 名案じゃん!
律はようやく纏まった案に一人興奮して、放課後が待ち遠しくなった。由伊、どんな反応するかな?ビックリするかな?あ、久々だしなんか飲み物でも買ってってあげようかな? 甘いの好きかな? 好きな物、なんだっけ?こんな時に、思い出す。ああ、あの時ちゃんと由伊の話聞いてれば良かったな。好きな物も嫌いな物も教えてくれていたのに、俺全然聞いてあげてなかったな。何故か今になって、由伊に謝罪しか思い浮かばなかった。最低だな。
遂に待ちに待った放課後が来た。今日は、橘は来ていないので元々一人で帰る予定だったのだ。途中で自販機に寄って、ホットココアを二つ買ってポケットに入れる。由伊が来る前に生徒会室に行かなきゃ、と由伊がいつも通り女の子達に捕まっているうちに足早に向かった。ドアの前でしゃがんで暫く待つ。頭の中では念入りにシミュレーションをした。話しかけるだけなのに、なんでこんなに緊張しているのだろうか。ただ由伊と話すだけなのに、こんなに心臓が激しくドクドクする。はやくこい、やっぱりまだ来ないで欲しい、心の中はこれの繰り返しだ。大丈夫、ちゃんと伝えようと思えば伝わる、大丈夫大丈夫─……。覚悟を決めていると、廊下から足音がする事に気づいた。
「あれ? 宮村?」
聞き慣れた懐かしい声が、耳に届き律はパッとそちらを向く。
「ゆ、い……あ、」
早速話しかけようと思い、彼の顔を見たが由伊は隣に取り巻きの女の子を一人連れていた。……なんだよ、由伊のヤツ。教室でだけかと思ったら生徒会室にまで女連れ込んでんのかよ。律の中で黒いモヤモヤが心をぐるぐると支配し始める。
「じゃあ俺、生徒会だから、また明日ね」
「うん、またねハルくん! あ、バイバイのちゅーしてよ!」
女のその言葉に、律は驚き目を見開く。ハル、くん……? バイバイのちゅー……? なんだよそれ、そんなの由伊がするはず─……
「もー仕方ないなぁ。宮村、ちょっと後ろ向いてて」
「へ、あ、はい」
……え、するの?頼まれなくても見たくなんてないから後ろ向くに決まってる。
「ふへへ、じゃあまたねぇ」
「うん、またね。気をつけて帰ってね」
由伊の優しい声が嫌でも聞こえてきてしまう。その声、知ってる。だって前までそれは俺に向けられていたんだもん。律は、話したくてココに来たのに何故か心がぐるぐるしてしまう。気持ち悪くもなってきてしまった。その原因不明の不快感にぎゅっと俯いて耐えていると、後ろから声がした。
「もういいよ、宮村。で、どうしたのこんな所で」
「……あ……えと……」
もう、微笑みもしない由伊の表情に、律はさっきまで考えていた台詞を吐き出す事が出来なかった。
「……俺、生徒会始まるからもういい?」
由伊の少しイラついた声に、律も何故か段々イライラしてくる。おかしい、こんな筈じゃ無かったのに。
「……今の、彼女?」
気づいたら、そんな事を聞いてしまっていた。違う、こんな事気になってない。俺は、テストのこと聞きたくて─……
「そうだけど?」
「……え」
その返事に、律は再び目を見開いた。彼女……?嘘でしょ……? なんで……?いや、嘘じゃないんだよ、ね。キスしてたもんね。頭が混乱して、律はただ由伊を見つめるだけになってしまう。由伊は「はぁ」とため息をついた。
「あのさぁ、話す事ないんだったらもう行くから」
渡したくて、ポケットに入れていたホットココアの缶はいつの間にか、ぬるくなっていた。震える手でそれを、ポケットの中で握る。
「……付き合ってるの?」
「そりゃそうでしょ」
「……好き、なの?」
「じゃなきゃ付き合わないよね」
……ダメだ、何聞いても、聞きたくない答えしか返ってこない。聞きたくない……?なんで聞きたくないと思ったんだ、俺は。友達になりたいなら、喜ぶべきじゃないか?おめでとう、久しぶり、テストはどうだった、これから冬休みだね、そう言えばいいじゃないか。……なのに、なんでこんなに、胸が苦しいの。
「何しに来たの」
冷たい声がして、律はぴくり、と肩を揺らした。もう何言っても、無理なんだ。友達にも戻れない……いや、俺は友達に戻りたいんじゃない。じゃあ何になりたいの。何になりたかったの。俺はただ、二人で温かいココアを飲みたかった。宮村、って呼んで欲しかった。他愛ない話をして、お昼食べたり、また前みたいにゲームしたり、二人で肩並べて、歩きたかっただけなのに。それを壊したのは、紛れもない自分なのだ。
「……ココア、あげる」
そっと、ポケットから缶を持ち、差し出した手は外気に触れすぐに冷えた。僅かに震えてしまう手に、必死で止まれと願いながら受け取ってもらうのも待った。でも、由伊の手はソレを受け取ることは無かった。代わりに、
「……俺、甘いのは嫌いだよ」
冷めた目が俺を見下ろしていた。
「……やっぱり話、聞いてくれてなかったんだね」
告げられた言葉は、酷く寂しくて悲痛なものだった。
「……ちが、う」
「違くないでしょ」
「……っちがう!」
廊下に俺の叫び声が響いた。一度叫んでしまったら、もう、抑えきれなかった。
「だから、話そうと思った、由伊と話さなきゃいけないと思った、自分がどうすればいいか、どうしたいのか分かんなかった、だからずっと考えた、由伊のこと、ずっと考えてた……っ」
思ったらもう止まらなかった。じわじわと視界が歪んで、鼻がツンとする。握りしめた両手は、力入れすぎて白くなってしまっている。それでも律は、伝えた。友人の、伝えようと思えば伝わる、この言葉を信じて。
「……おれ、……おれ、まだ、わかんない……っ、どうしたらいいか、分かんない……っでも、由伊とこのままでいたいわけじゃない……」
ぐちゃぐちゃだ。少し話して帰るだけだった。なのになんで自分は今、泣いているんだ。
「……ごめんっ、ごめんね、ゆい……っ」
必死に絞り出した声は、由伊に届いたのだろうか。由伊は今何を思っているのだろうか。
「……どのくらい」
「え?」
顔を上げると、由伊は少しだけ苦しそうな顔をして律に言った。
「……どのくらい俺の事、考えたの」
ど、どのくらい?
「そ、そんなのわかんないよ……っ、いっぱいいっぱいかんがえた……っ!」
そう伝えれば、由伊は困った顔をする。
「分かんない分かんない、って、宮村、分かんないばっかじゃん」
「……ご、ごめん……」
「……俺がね、言いたかったのはさ」
由伊は律から目を逸らして、言った。
「俺の事を、好きになる可能性があるのか考えて欲しい、ってことなんだ」
好きになる、可能性……。
「でももう、良いよ」
「え?」
嫌だ。その先は聞きたくない。嫌だ、良くないことを言われる、そんな予感がした。
そして、その予感は見事に─……
「もう、好きじゃないから」
的中してしまった。
「戸惑わせるような事言ってごめんね。嫌な態度取ったのもごめん。全部謝る」
「え、え……待ってよ」
「ちゃんと、幸せになってね」
「ねぇ、やだ……っ、なんでそんな、さいごみたいなっ……‼」
律は由伊に縋る。制服を掴み、みっともなく泣きながら見上げた。なんでそんな、最後の会話みたいなこと言うの。俺違うよ、そんなつもりで来たんじゃない。ちがうんだよ、つたえたかったの、ねぇ、ちがうんだよ……っ
「宮村、離して。そろそろ本当に行かないと、……」
「やだよ、ゆい、ねぇ、やだ……‼」
子供のように嫌だと泣いて縋ると、由伊は眉を寄せ困ったように律を引き離そうとする。
「おれ、おれは……っ‼」
「ねぇ、何してんの」
どこかで聞いた事のあるような声が聞こえ、ハッと顔を上げて見ると、生徒会室の扉から男の人が顔を出していた。
「か、会長……。すみません、すぐ行きます」
由伊は「やべ」といった顔で、その人を見た。律はそれでも由伊を離さなかった。今、手を離したら、終わってしまう気がする。そんなの嫌だ、俺はまだ何も言えてない。
「ねぇキミ、迷惑だよ」
ピシリ、と生徒会長さんに言われ律は泣きながら睨んだ。
「でも、生徒会より大事なことです……っ‼」
そう言い切ると、会長さんは律を鋭く見て、言った。
「泣きながら縋るなよ、みっともない。どうしたら聞いてくれるのか、自分の頭で考えろ。泣き喚けばなんでも聞いてもらえるなんて考えるのはただの馬鹿だよ。そんで時と場合と場所を考えな。今は迷惑だ、帰りな」
……至極、正論だ。ぐうの音も出ず、律はおずおずと由伊から手を離した。
「……じゃあ、今度の日曜日空けといて」
律が由伊を見つめ、そう告げると、由伊は驚いた顔をして「え?」と言う。
「……話したいこと纏めて、ちゃんと話す。由伊と仲違いしたままは嫌だ。分かんない、なんてセリフでもう逃げたりしない。……だから、最後にチャンスください」
真っ直ぐにみてそう伝えると、由伊はまた困った顔をして渋々といった様子で、「分かった」と言ってくれた。
「次の日曜日、十二時に駅前の時計台の前で待ってる」
それだけ言って、律は会長に向き直りポケットから二つ差し出した。
「……迷惑料、これで勘弁してください」
そう言って渡すと、会長は「えぇ……」と言う。
「冷めてんじゃんこれ、要らないだけでしょ」
呆れた顔でそう言いながらも受け取ってくれる。律は「すみませんでした」と頭を下げて、由伊の横を通り過ぎ帰ることにした。次の日曜がラストチャンス。それまでに、自分の気持ちを整理したい。どうなるかは、分からないけど。律は不安で苦しくなる。この痛さを、由伊にずっとさせていたのだと思ったら余計に胃がモヤモヤしてきた。
大丈夫、大丈夫─……
ついに、約束の日曜日が来てしまった。自分から言いだしたのに、由伊と最後に話したあの日から考えすぎてまともに寝られなかった。頭痛がずっと治らず、目の奥もズキズキしている。眠れないせいで普段よりも早起きしてしまい、あの人の分の朝ごはんも妙に豪華になってしまった。一方で律自身は大した食欲も湧かず、水分だけを摂取する。とりあえず行く場所を考えて、着る服も何となく考えてみた。しかし結局何がベストなのか分からず、だいぶ某有名検索サイトの大先生様にお世話になった。今日は、グレーのパーカーの上にモスグリーンのMA-1を羽織り、黒のスキニーの裾を少しロールアップさせて、赤いキャンパススニーカーを履いた。黒いリュックを背負って、中に財布を放り入れ、携帯を尻ポケットに。最後に黒に近いグレーのマフラーを巻いて完成だ。一昨日くらいから寒気が酷くて厚着に厚着を重ねなきゃ寒くて仕方なかった。今日も寒くて、ガクガクするのでマフラーをぐるぐるに巻いて家を出た。待ち合わせの時間にはまだ早いが、家に居てもじっとしてられないので、家を出てしまった。あっという間に駅前に着いてしまうが、時刻はまだ待ち合わせの一時間前である。早く着きすぎた……。鼻水がズビズビし出したのでとりあえず近くのカフェに入ろうかとキョロキョロしたが、席はどこも埋まっていて座れそうになかった。お昼時の日曜だもんな、皆来るよな。そんな事を思い、仕方なく暖かいココアだけ買って外に出た。駅前のベンチに腰掛け、ココアをちびちび飲みながら由伊が来るのを待つ。手の感触が無いくらい寒いし、かたまって動かない。
……というか、耳がキンキンで痛い。耳あてとニット帽もしてくればよかった……。
けどそこまでしたら、遠くから見た、自分が律だと分からないんじゃないか。それは困るのでやっぱりこのまま待つことにした。
約束の時間ちょうど。周りを少し見てみるけど、由伊らしき人はまだ現れない。
まあまだ時間ぴったりだし、そんなすぐには来ないか。寒さに身体がぶるぶる震えるが、もうココからは動けないくらいに体が固まっているので、マフラーに埋まりながらじっと待った。時折携帯を取り出して通知を見るけど、特に何も来ない。
待ち合わせの時間から三十分が経った。由伊はまだ来ない。もしかして、俺が言ったこと忘れてるのかな……。口約束で、言っちゃっただけだし、もしかしたら……いや、でも……。ズキズキ痛む頭で考えたが、それらはどれもただの憶測に過ぎない。もう少し待つ事にした。やっぱりMA-1だけじゃ寒かったな。いきなりこんな冷え込むとは思わなかった。水のような鼻水は止まらず、ズビズビ啜る。
約束した時間から一時間経った。流石に、来ないのはおかしいよね……。俺が間違ってる? いや、俺は合ってるな。やっぱり忘れちゃったのかな。律は震える手で何度も打ち間違えながら、やっと「今どこ?」と、もうだいぶ会話をしていなかったらしいチャット画面を開き送信した。由伊、来てくれるよね……? 飲み終わったココアのカップをギュッと握って、あまりにも寒いので律はもう一度ココアを買いに行った。二杯目のココアも飲み終わり、律は段々吐き気がしてきた。寒い、まだかな。相変わらず由伊からの返信はなく、律がベンチに座ってもう二時間が経とうとしていた。お昼時は過ぎ、カフェも席が空き始めたようだ。頭がガンガンするし、ボーッとするし、胃が気持ち悪いから、カフェに入ろうかと思ったけれど、もしかしたら由伊が来るかもしれない、彼がもし来てくれた時、すぐ自分が気づけなきゃ帰っちゃうかもしれないから、やっぱり律はここでこのまま待つ事にした。
「……ゆい」
ぽそり、と呟くも来る様子は無い。……由伊、最後にチャンス、くれなかったんだな。ダメだったんだな、ておくれだったんだ。それを言われた時がラストチャンスだったんだな。なんでもっと早く行動出来なかったんだろう。なんでもっとはやく、自分の答えを見つけなかったんだろう。自分がバカすぎて、ほんと……。 周りの人達がチラチラと自分を不思議そうに見て来るのが嫌で、マフラーに顔を埋めズビズビと鼻を啜った。
三時間経った時、律はもう確信した。由伊は来ないんだ、と。帰ってしまっても良かった。どうせ待っても来ないのだ。帰ったって良かったのに、帰ってしまったら本当に由伊と終わりな気がして、この寒さよりもそっちの方が耐えられなかった。もはや、何を伝えたかったのか頭が上手く動かなくて思い出せない。何を話したかったんだっけ。なんでここで待ってるんだっけ。今はただ、早く由伊に会いたい、とそれしか考えられなかった。頭の痛さと寒さ、由伊が来ない寂しさで、涙が流れそうになっていたその時、誰かに声を掛けられた。
「お客さま、大丈夫ですか? 」
そっと顔を上げると、律の前にしゃがんで心配そうに覗き込んでくれていたのは、さっきから律が体を温める為にお世話になっていたココアのカフェの店員さんだった。爽やかなウェーブがかかった明るい髪に、くりくりとした目が綺麗な男性。カフェの緑のエプロンを来た店員は、律の手に新しい暖かいココアを握らせてくれる。
「お兄さん、ずっとここに座っていますよね? もう手がかたまっちゃってますよ? 僕のお店入りませんか? 風邪引いちゃいます」
店員の優しさに律は思わずぽろ、と涙を少し零してしまった。しかし、ふるふると頭を振り答えた。
「……大丈夫です。……待ち合わせ、しているひとが、来るかもしれないので……」
鼻声になっている自分に今、気がついた。それに何だか、身体がポカポカしてきて熱い。ココアと店員の優しさのお陰かもしれない、と律はぼんやり思った。店員は如何にも体調の悪そうな律に困った顔をして隣に座って話を聞いてくれようとする。
「待ち合わせは何時だったんですか?」
ボーッとする頭で何時だっけ、と思い出す。
「……たしか、十二時」
律の言葉に、店員は「え⁉」と驚く。
「お兄さん、もう、十六時ですよ⁉いい加減帰りましょう?それか、僕のお店に入ってください!死んじゃいますよ‼」
必死に律を説得しようとしてくれる、店員。店員こそ、仕事着だから薄着で今寒いだろうに律の心配をしてくれる。 しかし律は、頑なに首を横に振った。
「……だいじょうぶです。まだ、まてます……」
「でも……っ」
律よりも店員の方が泣きそうな顔になっていた。困り果てている店員に、律がぼんやりした頭で申し訳なく思っていると何処からかずっと聞きたかった声が聞こえてきた。
「……宮村?」
その声に、律はハッとして顔を上げる。するとそこには、驚いた顔の由伊と……彼女らしき女が由伊の腕に自身の腕を絡めて二人並んで立っていた。
「ゆ、い……」
会いたかった。ずっと、会いたかった、待っていた。やっと会えた、会えたのに、あえたのに……。身体が震える。血の気が引く、隣の女の子は、当然なのだ。離れる理由は無い。だって、由伊の彼女だから。俺はずっと、こんな所で何していたんだろう。会いたくて待っていたけど、それは俺だけだったのだ。俺だけが、会いたいと思っていて、俺だけがここに居て、でも由伊はずっと女の子と、いたのだ。頭がぐるぐるする。胃がモヤモヤする。
「宮村、ずっと待ってたの……⁉」
慌てて駆け寄ってくる由伊。けどそれを、隣の彼女が引き止めた。
「……は、ハルくん、まってよ……!」
その高い声が耳に届いた時、律は身体の震えが止まり、瞬間、周りが静かになった。いや、俺が聞こえなくなっただけだった。身体から力が抜け、意識が遠のく。ふらり、と前に倒れるけど受身を取れる力もなく段々と視界が暗転してゆく。痛みや寒さから解放され、そのまま意識を失った。
ともだちにシェアしよう!