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第5話

次に目を開けた時、見知らぬ白い天井が視界に入った。 一瞬、何をしていたのか思い出せず、ボーッとした頭を必死に回転させる。 「……ど、こ」 思ったより掠れて痛む自分の喉に驚いた。いつも以上にハスキーになっている。ぼーっと天井をと見ていると横から声が聞こえた。 「病院だよ」 その聞き慣れた静かな声の主を視界に収めようと、律はゆっくりと首を動かした。 「…………ゆ、い」 動かした視線の先には、何故か左頬に大きな湿布を貼っている由伊が居た。律は目をしっかりと開き、その怪我に驚く。 「……な、に、それ……どしたの」 そう問うと、由伊は「ああ」と思い出したように言う。 「宮村を介抱してくれていたカフェの店員さんに殴られた」 「……え、なんで?」 あの温厚そうな優しい店員が由伊を殴るなんて想像がつかなかった 「……人との約束破って女を優先させてんじゃねぇぞって」 律はその傷にゆっくり手を伸ばした。あの店員は見た目、優男なのに意外と人情味溢れる人なのか。 「……だいじょうぶ?」 そう聞くと、由伊は一瞬苦しそうな顔をしてぐっと唇を噛んだ。 「……っそれは、宮村でしょ……!」 「え……?」 「なんであんな寒いとこで四時間も待ってんだよ! 馬鹿かよ! 死んじゃうだろうが!」 由伊は狼狽えた顔で、そう叫んだ。その声の大きさが頭に響きズキズキと痛む。少し顔を顰めれば由伊はそれに気づいたのか、しゅん、と静かに「……ごめん……」と呟いた。 「………………医者が、睡眠不足と栄養不足、水分も少し不足してるって。疲労からくる風邪って言ってた」 「……そうなんだ」 なんだ、風邪か。通りで調子が悪いと思った。 「……寝てる間に点滴も終わったから、起きたらいつでも帰っていいって言われてる」 「……そうなんだ。じゃあ、かえる」 律はゆっくりと体を起こして、あいたた、と呟いた。慌てて由伊が身体を支えてくれる。 「別に大丈夫だよ? おじいちゃんじゃないし」 そう言って苦笑すると、由伊はまた苦しそうな顔をして「……そう」と言って離れた。律は靴を履いて、上着を着直し、マフラーをぐるぐるにしてぐわんぐわんする頭を起こして必死に歩く。うー、頭痛い。ふらふらするし、気持ち悪い。産まれたての小鹿よりはマシだろうか……といった具合に、よたよた、と覚束無い足取りで病室から出る。すると見かねたのか、由伊は黙って律の前に背を向けてしゃがんで「……ほら」と手を伸ばした。 え、このポーズってもしかして、おんぶってこと?乗れって?え?俺高校生だぞ? 「……ゆ、ゆい……?」 「嫌なら姫抱っこでもいいけど」 有無を言わさないその言い方に、律は言いたいことを飲み込み、おずおずと由伊の背中に乗る事にした。じんわりと暖かい背中が心地よい。きゅ、と手を回してピッタリくっ付く。 人の背中に乗せてもらうのは、父親以来だ。その父親とももう暫く顔を合わせていない。元気……だといいな、と思いつつ由伊の背中にホッと、頭を預けてぼんやりする。 ぼーっとし過ぎたせいで由伊が会計を済ませてくれており、律は慌てて払う、と申し出たが何故か無視されてしまったので、仕方なく掠れる声で「ありがとう」と伝えた。病院の外に出ると一気に冷えた空気が体に当たり、ぶるっと震える。 「……寒い?」 由伊の問いに、律は「……ううん、寒くない」と答える。 「そっか」 短い会話だけれど、今の律には嬉しくて声を出す代わりにぎゅうと由伊に抱き着く。 安心する、由伊の体温が。ずっと寒かったのが嘘みたいに今は暖かい。律は適度な揺れと、由伊の体温で段々眠くなってしまい気づいたら眠っていた。 「宮村」  病院からおんぶして帰る途中で律は眠ってしまった。呼吸がずっと荒く、熱も下がっていない。解熱剤を飲んで、一時間は眠れたようだけど結局一時間後には魘され始めそのまま起きてしまった。医者曰く、ストレスと疲労からの発熱らしい。それに加え、ちゃんと食べず寝てもいなくその体に追い討ちをかけるように寒空の下四時間も居たため、少し重くなってしまったのでは、と。ストレスや過労が原因の発熱なら暫く安静にしていれば下がるだろう、と。その話を聞きながら由伊は考えた。発熱の原因は、間違いなく自分だ。目の前で、ヒューヒューと、苦しそうに眠る宮村をゆっくり優しく起こす。赤い頬と、鎖骨の窪みが息をする度にヘコヘコしている。恐らく喘息持ちだったのだろう。由伊の呼び掛けに薄く目を開けた律。 「……宮村、クスリ飲も?」 由伊の声に、律は反応しないままずっと由伊を見つめている。……いや、正しくは由伊の口元を見つめている。 「……宮村?」 ゆっくり問いかけると、律は虚ろな目を僅かに細めてぽそり、と小さく呟いた。 「…………やだ」 小さい子供のようにそう言われ、由伊は戸惑う。 「でも、飲まないと苦しいでしょ?」 由伊は困った顔をして、律の額に手を置く。彼の額も首もジンジンと熱い。恐らく、三十八度は越えているだろう。熱の高さにウイルスを疑われたが検査しても、発見されなかった。相当疲れているのだと医師は言っていた。律は由伊の手の冷たさが心地よく彼の手に擦り寄って、気持ちよさに身を委ね、そっとまた目を閉じる。 「……宮村、お願いだから飲んで?ね?」 由伊は努めて小さい子をあやす様に言うけど、律は朦朧とするだけで由伊の呼び掛けには答えない。 「ねぇ、宮村……?聞こえてる?」 じ、と口元を見られるので由伊はもしかしたら、と思い少し耳に近づけて静かに聞いてみる。すると律は僅かに眉を寄せ、カサカサの唇を小さく動かして言った。 「………………あん、まり」 やっぱり。熱が高くて耳があんまり聞こえていないのだ。由伊はズキズキと胸が痛む。彼とこの話をするのは、元気になってからと決めたのに、胸が痛くて仕方なかった。自分の汚さに吐き気がする。 「……律くん、……律くん、……ごめんね……っ」 ギュッと手を握って由伊は必死に吐き出した息に、その言葉を乗せた。馬鹿だ、俺は……。 「……ゆい」 顔を顰める由伊には気づかない律は、小さく由伊に話しかけた。由伊はバッと顔を上げ、「なに? どうしたの?」と食いつく。彼の言葉を一言一句聞き漏らさぬように集中して口元を見る。律は何故か嬉しそうに、少しだけ目を細め口角を上げて言った。 「……こ、れからも……りつ、てよんで」 「……っ」 小さな小さな呟きに、由伊はもう耐えられなかった。こんな小さな体に負担をかけさせすぎた。頑張ってくれていたのは分かっていた。ただ、自分の気持ちに見切りがつけられなくてワガママばっかり言った。意地悪もしてしまった。今回だって自分は、好きでもない女とただの意地悪で約束をすっぽかした。流石に居ないだろうと思って何の気なしに、時計台に行ってみれば、そこに彼はいた。カフェの店員に心配されながら、ガクガク丸まって震える彼が、そこに居た。由伊を見上げた瞬間、律は至極嬉しそうな顔をしたのに、女を見たら一瞬にして顔から血の気が無くなっていった。そして、倒れ込んだ。店員から話をきけば、ずっと待っていたのだ、と。連れが来るからって、店の中を案内しても、彼が来た時すぐ気づけないと嫌だから、ってずっと動かなかった、って、泣きそうな顔の店員が怒りながら由伊に伝え、そして、殴られた。彼の気持ちを踏み躙ったのだから、当たり前だよな。ごめん、ごめん。話したいって待っていてくれたのに、ごめん、……ごめん……っ……もう、やめなきゃ、全部。律は再び眠り、再び起こそうとしても次は全然ダメだった。薬を飲ませられないのでは熱を下げてあげられない。念の為、座薬も貰ってきたけど……。座薬は、律が怖がってしまうと思い躊躇った。由伊は諦めて、最終手段で座薬を使う事にし、今は起こすことに努めた。 「律くん、律くん、起きて」 うんうん、と苦しそうにうなされる律のお腹をぽんぽん、と優しく叩き起こしにかかる。 「律くん、律くん、クスリ飲んで熱下げよ、ね」 頬を軽く叩くと、うっすらまた目を開けてくれる。すると、律は虚ろな目で呟いた。 「…………ゆ、い……?」 小さく呟かれたそのセリフに、由伊は急いで頷いた。 「そうだよ、ゆいだよ、だから起きて、ね?」 撫でてあげながら、必死に耳の近くで呼び掛けると律はゆっくり手を伸ばして由伊のシャツを掴む。 「……ひゅ、ひゅ、する……っ」 律は涙目になって、コンコンと咳をし始めてしまう。ああ、やばい。咳し始まったら止まんなくなっちゃう。取り敢えず彼を横向きに寝かせ、ゆっくり背中を摩った。 「律くん、お薬飲もう? コンコンのお咳も、ひゅーひゅーするのも治るよ」 そう言うと、律は由伊の腕を力なく握って、「……の……、ひゅ、……なおす」とコンコン咳をしながら答えた。由伊はオブラートで包んだ数種類の薬を、律の小さな口に入れてぬるま湯を飲ませた。こんこん、と噎せて涙目になっていたが無事に飲み込めたようだった。飲みこんだのを確認して、律の胸元を少しはだけさせ喘息用に処方された小さい四角形の薄いテープを貼った。ひゅーひゅーし始めたら貼ってあげて、と医者から言われたものだ。 貼り終え、再び寝かせる。 「律くん、がんばったね。いい子」 「……ゆ、……い……なで、て」 尚も苦しそうにコンコンヒューヒューと咳をする律の頭を撫で、背中も撫でてあげた。 「いいこ、いいこ。ゆっくりねようね」 そう声をかけると、律はゆっくり目を閉じてまた夢の中へと堕ちていった。起こさぬよう暫く律の背中を撫でてあげていると、喘鳴がきこえ呼吸は未だに苦しそうだけど、さっきより顔色がだいぶ良くなったので、薬が効いてきたのだと安心する。   律が眠っている間に身体を拭いてあげようと蒸しタオルと着替えを律の家だが勝手に用意し、起きた時いつでも食べられるようにお粥も作らせてもらった。もう時間は零時回っているが、彼の親はまだ帰ってこない。もし帰ってきたら、ご両親にバトンタッチしてまた出直そうと思っていたのだが、中々帰ってくる様子が無い。こんな状態の律を置いていけるわけもなく、由伊は必然的に律の家に泊まる事になった。家の中を見る限り、一人暮らしではないと思うが……。二人用の食器があるし、家も一軒家だし。大人物の男性用の革靴も靴箱の中で見た……が、逆に言えばこの家にはソレしかない。女性の物がない。まあ今時、片親なんて当たり前だし変に探るのはやめよう。各家庭色んな事情があるに決まっているし。由伊は詮索を止め、律の看病の準備を色々としやっと一息ついて夜中の三時を回った。律は咳をし続けていて、呼吸音もヒューヒューと喘息特有のものから中々治りはしないが、顔色自体はだいぶ良くなっていた。その様子に安心し、律の小さく細い骨の浮いた背中を摩り続けながら横になり、律を包むようにして背中に手を回し摩る。小さな体が自分の腕の中で必死に呼吸をしていた。いや、一般的に律は小さくはない。女子と並んでも全然小さくはないのだ。しかし、圧倒的に細い。貧相と言ってしまえば貧相かもしれないが、女よりも細くて華奢だから、小さく見えてしまうのだろう。律自身も気にしているが食が太くならない為に八方塞がりだった。けど実際身長自体は、由伊より低いので由伊から見れば総合的に小さい、が当てはまる。汗ばんだ頬に口付け、ギュッと抱き寄せて背中を摩り続けた。そうしているうちに、由伊の瞼もいつの間にか落ちていき、いつの間にか眠りに就いていた。 ……こんなに、心地の良い眠りにつけたのはいつぶりだろう、と後に思った。 「……ん……ケホッケホッ」 自分の咳で目を覚ました。すっかり冷え込む部屋にぶるりと身を震わせたが、傍に暖かいものがある事に気づき、ボーッとした頭でそれに擦り寄った。温かいソレからはすぅすぅと何やら寝息が聞こえ、律はぼんやりとする意識を覚醒させてその存在を確認した。 「……ケホッコホッ……ゆい、だ」 ぽそり、と呟いてしまう。まさか、由伊に添い寝されているとは思わなかった。もう多分、熱は下がったようだ。ただ、喘息はまだ治らない。あまり熱が出ていた時の記憶が無いので、何故こんな状況になっているのか皆目検討もつかないが、自分が迷惑をかけてしまったことだけは分かる。由伊に嫌われるかもしれない─……もう既に嫌われているのに、さらに嫌われたことを想像し律はまたジンジンと身体が熱くなってくる。距離を取ろうと由伊から離れようとしたその時、ぱち、と由伊が目を開けた。 「……ん、あれ……りつくん……? おきたの?」 ぼんやりと眠そうな目で律の腕を掴み、またすっぽりと抱きしめてきた。 「……ゆ、ゆい……ケホッコホッ」 咳が出てしまい、まだヒューヒューしていると由伊は律の背中をゆっくりと撫で始めた。 「あれれ、まだコンコンしてるね。クスリ飲む?」 優しく子供と話すように話しかけてくれる。しかしまだ眠いようで、とろとろ、とした口調だった。 「……由伊ごめっケホッケホッ……もう、大丈夫だから……、ケホッ、ごめんね」 必死にそう言うと、由伊はボーッと律を見つめてふにゃり、と笑った。 「だいじょうぶだよ、りつくん。なおるまで、ここにいるから」 とろり、とした声でそう言った由伊はまた眠ってしまった。 疲れているんだな、悪い事したな、ごめんね、由伊、迷惑かけて。申し訳ない気持ちになりながらも、実際由伊に抱きしめられて安心している自分が居た。眠りながらもまだ辛うじて手を動かそうとしてくれる優しさに、律はこっそり微笑んだ。咳は相変わらず止まらないけど、心は暖かかった。もう一生無いかもしれないこの暖かくて平和な時間を、いつまでも感じていたかった。ああ、時が止まればいいのに、と、初めて思った。そして、律は再び目を瞑った。 「律くん、昨日ここに泊まっちゃったんだけど平気だった? 勝手にごめんね」 由伊は申し訳なさそうに言いながら律の額の乾いた冷えピタをぺりり、と替えてくれる。いつの間にか律の服はいつも着ているパジャマに変わっていて、心做しか身体のベタつきもマシになっているような気がした。 「……ううん、ケホッ……全然、むしろ……ごめんな、なんか……」 病院代も払ってくれて、看病までしてくれて。由伊は、少し笑うだけで何も言わなかった。 「律くん、お粥食べられる?」 そう聞かれ、こくん、と頷くと木のボールに入ったホカホカのお粥と、木のスプーンを差し出してくれた。 「……ケホッ……あれ? ……こんなの、……もってたっけ」 そう呟くと、由伊は「ああ」と思い出したように言う。 「起きた時、律くん器持つの熱いかと思って売ってたから買ってきちゃった。邪魔だったら捨ててね」 なんでもない様な顔でそんな事を言うので、律は思い切り頭を横に振って、違う、と意思表示をしたかった。けれど、思ったより激しく振ってしまいぐわんぐわんしたし、咳も出た。 「ほら、そんな激しく振ると頭痛くなっちゃうよ」 クスクス笑う由伊を、咳をしながら見る。もう痛くなっちゃったよ、と思いながら由伊が作ってくれたお粥を一口掬う。 「……ん、おいしい」 ちょうどよい温度の柔らかいお粥が美味しく口の中に広がる。溶き卵とほんの少し出汁が入っているようで今の律には十分美味しかった。 「食べ終わったら声かけてね。薬持ってくるから」 「……え」 由伊は律にそう言い残し部屋を出て行ってしまう。 ……行っちゃった。 ここに居てくれても良いのにな……、やっぱり嫌われたのだろうか。こんこん、と咳をしつつも律は由伊が作ってくれたものを、多少お腹いっぱいになってもちゃんと全部食べた。 食べ終わったら由伊の所に行っていいのだ、と解釈した律は、ふらふらとベッドから降り、よたよた、と食器を持って部屋から出る。裸足だと、床の冷たさを直で感じ身体が冷える。コンコン、と咳をしつつ、廊下に出た。 由伊はずっと律の傍に居てくれた。昼間は二人でバラエティを観たり、コメディ映画を観たりしてのんびり過ごした。お昼ご飯も由伊お手製の柔らかいうどんを食べた。溶き卵はほわほわで、薄めの出汁がじんわり美味しかった。由伊は料理が上手いんだなぁ。 「ねぇ律くん。お夕飯は何がいい?」 由伊の言葉にうーん、と考える。 「……うどんがいい」 さっきのおうどん美味しかった。また食べたい。由伊は「了解」とニッコリ笑ってくれる。今日は、由伊、何時まで居てくれるのだろうか。ずっと居てと言ったら、由伊は優しいから居てくれてしまう気がするけれど……。しかし、そんなワガママも言ってられないよな、と考え、律は夕飯を作ってくれている由伊の元までよたよたと歩き、そっとくっ付いた。 「なぁに? どうしたの? もうお腹すいた?」 クスクスと笑いながら頭を撫でてくれる、由伊がもう帰っちゃうかもしれないと思うと、じわじわと涙が浮かぶ。しかしぐっと堪えて、由伊に言った。 「……ゆい、よるはかえって、だいじょうぶだよ」 そう言うと、由伊は作っていた手を止め「え?」と振り向く。 「……ねつさがったし、もう、だいじょうぶ」 由伊のご両親も心配しているだろうし……。 「……けど律くん、ご両親は?」 由伊はちょっと控えめにそう聞いてくれる。なんでちょっと色々あるって分かったんだろ? 家具とか見たからかな? 「……うーん、あと一ヶ月はかえってこない」 そう言うと、由伊は一瞬複雑な顔をした後「ちょっとまっててね」とニッコリ笑って携帯を持って廊下に行った。律はまた寒気がしてきたので、お鍋で茹でているうどんの湯気でほかほか温まる。由伊は少し誰かと話したあと嬉しそうな顔をひっつけて律の元へ戻ってきた。 「律くん、このおうどん食べたら俺の家に来ない?」 由伊の提案に、律はキョトンと首を傾げる。 「なんで?」 純粋にそう聞けば、由伊はうどんを温め直しながら答えてくれる。 「母さんに、友達が熱出てて家で一人なんだって言ったら、すぐ迎え行くって言われちゃってさ」 由伊のお母さんに? なんで? 怒られるのかな、俺……。由伊のこと独り占めしてるから……。 「俺の母さん、看護師だからさ心配なんだって」 「かんごし……」 ナース服のアレだね。看護師……じゃあ、俺の事怒ってるわけじゃないのかな。由伊の家、いっぱい遊びに行ったけど、ご両親に会うのは初めてだな。 「……嫌かな?」 ずっと黙りこんで思考していた律の様子に、由伊は不安げな顔をして覗き込んできた。 「……おれ、……いってもいいの……?」 律も不安げな顔で聞くと、由伊は「もちろんだよ! むしろ、もう母さん向かってるし」と言ってくれた。え、由伊のお母さんもう向かってるの……凄い……てか迎え来てくれるの……優しい。 「よし、じゃあおうどん食べちゃおうか」 ほかほかの美味しいうどんが出来上がった。律は色々嬉しくて、「うん」と頷いて丼を持つ由伊の後を着いていった。美味しいおうどんを食べ終えた。由伊が食器を片付けてくれていて、律はおなかいっぱいでウトウトしてしまう。あともう少しで眠れそうだった時、ピンポンと普段鳴らないチャイムが鳴った。由伊が「きた」と呟いて、玄関に掛けていく。 律は眠い頭を起こして、ふらふらとソファに体育座りする。……ねむい。 「律くーん! 準備できてるー?」 玄関から由伊の声がして律は、ゆっくり立ち上がる。また熱が上がって頭がボーッとする。由伊は律がご飯食べてる間に律のお泊まりセットを用意していた。律は何もかもしてもらって申し訳ないと思いつつ、世話を焼かれるのが何だか嬉しくてすっかり甘えきってしまっていた。由伊が用意してくれた上着を羽織って、由伊が用意してくれたリュックを背負って、忘れ物がないか確認して、玄関に向かった。そこには、由伊に似てかなりの美形の若い女性がニコニコしながら立っていた。律は少し緊張しつつ、ぺこり、と頭を下げる。 「わざわざすみません……ごめいわく、おかけしてしまい……」 使い慣れない敬語を口にすると、何をどう言えばいいのか、もはや何が敬語なのか分からなくなる。口の中でまごまごしていると、由伊の母親は「はは!」と軽快に笑った。 「そんなに堅くならないでいいわよ! 律くん、だっけ? 急にうちに来いなんて言ってごめんね〜。準備できたなら行きましょ!」 由伊の母親はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべて、律に声を掛けた。由伊のお母さんてこんな感じなのか、としみじみ思いつつ、ふらふらと玄関へ降りた。 「大丈夫? おんぶする?」 由伊の甲斐甲斐しさにさっきまで甘えていたが、流石に同級生の母親の前では恥ずかしかったので、「だ、だいじょぶ!」と拒否しておいた。由伊も由伊の母親もクスクスと笑って律を待った。玄関に鍵をかけ出ると、目の前には一台の赤い軽の車が止まっている。 「さ、後ろに乗って。横になってて良いわよ」 「アンタは前ね」と由伊に指示している。有難く、そろり、とドアに手をかけて開け中に入る。しかし、横になるのはなんだか図々しいと思い、端っこの方に大人しく座った。 「あら。気なんて遣わないで、体調悪いんだから気楽にしててよ」 由伊の母親は「縮こまって可愛らしいけどね」と笑う。律は断り続けるのも迷惑かと「……はい」と小さく呟いて、お言葉に甘えて、リュックを抱えながら横になる。 「さて、動くわよー」 「……よろしく、おねがいします」 ボソボソとお礼を言った。車の揺れや程よい騒音が心地好く、律は先程の眠気が戻ってきて再びウトウトとし始めた。あともう少しで眠れそうな時、由伊と由伊の母親が小声で何かを話しているのが聞こえてくる。何の話かは分からない。けれど、その二人の声は騒音なんかではなくむしろなんだか心地よく、安心して、より一層眠気が強くなった。 そっと目を開けた時、室内は僅かな月明かりのみだった。汗ばんだ身体が気持ち悪い。考えてみればお風呂に入れてない。熱は下がっただろうか。額に手を当ててみると、恐らく熱くはないはずだ。由伊のお母さんの車で寝てしまったまま、起こさずに連れて来てくれたのか……。申し訳ない事をした、高校生にもなって……。 律は、ゆっくり起き上がり頭痛も吐き気も無いことを確かめる。多分もう平気だ。由伊と由伊のお母さんは何処にいるのだろう。薄暗い室内で一人だと少し不安になる。暗闇になれた目で見れば、この部屋はかつて沢山遊びに来た由伊の部屋だった。ここで、テレビゲームして遊んでたなぁ。あの時は普通の友達みたいで、楽しかった。由伊がゲームする時にいつも抱えていたもちもちのクッションを見つけ、ぎゅっと抱き締める。 思いがけず倒れるし、熱出て動けなくなるし、散々になっちゃったけど、今日こそ、由伊と話せるかな……。今はただ、由伊と話したい気持ちでいっぱいだった。とりあえず何となくクッションを持ったまま、部屋をそっと出てみる。何気なく音を立てずに廊下に出て階段を降りた。すると下から、複数人の話し声が聞こえてくる。リビングから明かりが洩れているので、恐らくそこに由伊とご家族が居るのだろう。律は少し緊張しつつ、ドアの前に立った。 「それならもう、そのお父さんが帰ってくるまでここに泊まらせなさいよ。ねぇ、パパ」 由伊のお母さんの声だ……。誰の話をしているのだろう、入ってもいいかな。 「父さんはその子が良いなら別に構わないぞ」 「まじ⁉ マコトとヒロも⁉」 「……俺は別にどっちでも」 「あたしは反対よ‼なんでこれ以上男が増えなきゃなんないのよ‼ 絶対イヤ‼」 「分かった!二人ともありがと〜‼」 「ちょっと話聞いてんのハル兄⁉」 何やら騒がしい……。律がいつ入ろうかと、おどおどしていると、ガチャリと扉が開き見知らぬ男性と目が合ってしまった。 「……ひっ!」 ビクッと肩を揺らし、目の前の男性も「うわっ⁉」と驚いた声をあげた。二人で目をまん丸にして驚き固まっていると、男性の方が先にハッとした顔をして律に訊いてきた。 「あっ、もしかしてキミが宮村 律くん?」 男性の問いに律は「は、はい!」とぎこちなく返事をする。すると男性の後ろからパタパタと足音が聞こえてきた。 「律くん! 律くん! あ、これ俺の親父。ねぇそんな事よりさ、律くんのお父さん帰ってくるまで俺の家に泊まってってよ!」 「ちょっとハル兄⁉」 「おい、陽貴! そんな事より、ってなんだ! もっとしっかり父さんを紹介してくれ!」 周りが一気にガヤガヤとしてしまい律はどれにどう反応すれば良いのかワタワタした。 「え、えーと……」 「あんた達何ギャーギャー騒いでんの。律くん困ってんじゃないのよ」 由伊の母親の呆れた声が聞こえ、そちらに助けを求める視線を送った。母親は苦笑して、こちらに来てくれる。 「私たちね、律くんに泊まってってもらいたいんだけど、どう? 律くんが好きな期間だけでいいからさ、ね?」 泊まる? 俺が? なんで? 好きな期間てどういうこと? 俺なんかしたっけ……。 自分のした失態はいくつもある。マイナスな事をぐるぐる、と考えてしまい、その場で答えは出せなかった。 「……律くん、イヤ、かな?」 由伊の少ししょんぼりした声に、律はずっと抱えていたクッションを無意識にぎゅっと強く抱き締めた。どうするのが正解なんだろうか。由伊のしょんぼりした顔は見たくない。でも、今日だけ、と思って来たからそこまでお世話になるなんて心構えない。たしかに父さんはあと一ヶ月しないと帰ってこない。けどだからと言って……。 「そう簡単には決められないわよね。ゆっくり考えて、明日の夕方頃にまた聞くわ」 由伊のお母さんの提案に律は、ホッとして「……ありがとうございます」と返した。由伊は少し複雑そうな顔をしていたが、一瞬で笑顔に戻った。 「じゃ、こっちおいで!」 由伊に肩を抱かれ、リビングに案内された。 「簡単に紹介するよ。さっきから会ってると思うけど俺の母さんで、京子(きょうこ)。こっちが親父で孝(たかし)、で、こっちのクールガイが双子の兄の寛(ひろ)貴(き)。そっちのギャルが俺の妹で双子の妹の真(まこと)、」 バババッと説明され、一晩で覚えられる自信は無かったが、自分も一応自己紹介をした。 「……っあ、おれ、由伊……じゃなくて、陽貴くんと同じクラスの宮村 律……です、よろしくおねがいします」 ご両親は優しく微笑み「よろしくね」と言ってくれる。しかし、双子の兄妹は何も返してはくれなかった。真はひたすらイラついている様子でガン無視、寛貴はずっとゲームをやっていてこちらには微塵も興味が無さそうだった。兄妹だとしても、こうも由伊と違うのかと、少し感心する。 「律くん、せっかく熱下がったのならお風呂入ろうか?」 由伊の言葉に「いいの……?」と言うと、「当たり前だよ」と笑ってくれる。由伊はその後、テキパキと律の分の着替えやタオルを用意し、風呂場まで案内してくれた。律が申し訳なさから、家族の皆さんに、すみません、と言うと、ご両親には「お客様なんだから当たり前でしょ」と笑われた。由伊の家は中々に広くてちょっと気をつけないと迷いそうだった。浴室の扉を開け、脱いだため寒くヒンヤリし、ぶるっと身震いしつつシャワーを浴びた。全身をよく洗い終わったあと、律の家より少し広めの湯船に足を伸ばして浸かる。 「ぅあ〜……」 まだ少し掠れた鼻声。しかし気づけば酷い喘鳴は止まっていた。若干喉の奥……肺の上の方と言うべきか、そこら辺がグズグズしていて時折ゼェゼェはするけど、咳き込む事は格段に減った。律は自他共に認める程の身体の弱さだろう。 ……否、正確に言えば弱いのは身体と言うより精神面だ。心理状態が悪化して身体に現れてしまう。今回も、生活が乱れていた、というのもあるけど、何かあると眠れなくなるし食べなくなるし飲まなくなるし、律の悪い癖なのだ。昔からなにかあるとすぐ食欲に現れる。食べられなくなれば当然、心の元気も一層回復しなくなる。そんな時に、「食べなきゃダメだよ」「寝なきゃダメだよ」「なにか飲まなきゃ」と、甲斐甲斐しく言ってくれる人が居れば少しは違っていたのかもしれない。我ながら非常にめんどくさい身体だと思う。 貧弱にも程がある、と分かってはいるがこればかりはどうしようもない。酷い時は喘息が止まらず嘔吐や過呼吸になって一人で倒れっぱなしの時もあった。あの時はどうやって助かったんだったか。ぱちゃぱちゃ、水遊びをしながら浸かる。暫くボーッとしていると、ガチャと脱衣所のドアが開く音がした。 「律くーん! だいじょうぶー? 溺れてないー? 逆上せてないー?」 由伊の声が聞こえ、慌てて「だいじょぶ!」と返した。 「何かあったらよんでねー!」 元気な声に「はーい」と返事をする。そういえば、由伊はずっと優しいな。学校の時とは大違いで、ずっと俺に甘い気がする。気のせいかなぁ。ぱしゃぱしゃ、と顔を湯ですすぎ、そろそろ出ようと立ち上がると、少し立ちくらみがしたが踏ん張って立った。脱衣所に出て、湯気に包まれた体をふわふわのいい匂いがするバスタオルで拭いていく。用意されていたスウェットを着た。グレーのスウェットの右胸にサメの絵が描いてある。サイズがピッタリだ……。由伊のではなさそう。そんな事を思っていると、「律くん、でたー?」とひょっこり由伊が顔を覗かせた。 「うん……先、ごめんな」 そう言うと、由伊はニッコリ笑って「お客さんなんだから当たり前でしょー!」と言ってくれた。律は由伊に連れられるままリビングに戻り、家族の皆さんにぺこり、と頭を下げて風呂に入れてくれたお礼と、先に入ってしまった謝罪をした。ご両親は気にするな、と微笑んでくれたけどやっぱり由伊の双子の兄妹は何も答えてくれなかった。嫌われてるのかな……そうだよな、いきなり来てしまったし、お風呂も入っちゃったし、由伊を独り占めしちゃってるもんな……。律は少し、しゅん、とする。 「律くん、ココア好き?」 由伊のお母さんが優しく声を掛けてくれる。律は「は、はい!」と顔を上げた。 「じゃあコレ。温まるから飲んでね」 手渡されたマグカップはホカホカ温かくて、じんわり手に馴染んだ。 「じゃあそれ持ってもう上にあがろうか。あまり夜更かししちゃうとまたぶり返しちゃうかもしれないし」 由伊の言葉に律も『うん』と頷き皆さんにお礼と、おやすみなさいを言って由伊の後について行った。 部屋に入り由伊は律を丁寧にベッドに座らせて、由伊のであろう半纏(はんてん)を肩にかけてくれた。 「なんか、手厚くしてもらって、ほんとにごめんな」 甲斐甲斐しく世話してくれる由伊家に申し訳なくてしゅん、としてしまう。けれど由伊は、尚も優しい顔で首を横に振った。 「そんな事ないよ。俺らは好きでやってるんだから、律くんは何も気にすることない。それより、どこか辛いところはある?」 律の隣に座ると、ぎし、とベッドが鳴った。 「……ううん、もう本当に治ったみたい」 微熱程度も残っていなそうだ。今まであった倦怠感も熱さも何処かに消えてしまったよう。京子に作ってもらった温かいココアをちびちび飲みながら、ほっと、息をつく。 「そっか、良かったよ。元気になってくれて」 「……由伊のお陰だよ、本当にありがとう」 そう微笑むと、由伊は複雑な顔をした。律が「由伊?」と問い掛けると、由伊はバッと頭を下げて「ごめん!」と叫んだ。 「え、なに? なにが?」 突然謝られたことに混乱し、由伊を見つめる 「……律くんが倒れたのは俺のせいだよね、ごめん」 泣きそうなのを堪えているような顔で、下唇を噛みながら律は謝られる。 「まって、なんで由伊が悪いの?」 そう聞くと、由伊は嘘だろ、と言った表情を見せる。 「……だ、だって俺が言うのもおかしいけど、俺律くんに沢山意地悪したんだよ? 酷い事も言ったし、寒空の下、律くんとの約束すっぽかして放置したし……」 思い出して余計に罪の意識を感じたのか、どんどんしょんぼりしていく由伊。律は たしかに、意地悪だったなあれは……と思い返す。けど、 「……でも、由伊がそうしちゃったのは仕方ないじゃん」 「え?」 律のセリフに、由伊は驚く。仕方ないんだよ、由伊。 「だって俺が、いつまでもグズグズしててなんにも考えてなかったから……気づいたのも遅くて、好きな人との時間潰されたらそんなことしたくもなっちゃうでしょ」 俺がいつまでもハッキリしなかったから、由伊は仕方なく意地悪したくなっちゃったんだよね。嫌われて当然だよな。 「え、違う、違うよ?」 けど由伊は狼狽えながら、律の台詞を否定した。 「俺、あの女との時間なんてどうでもいいよ……ていうか、あんなの全然好きじゃないし」 「……え⁉」 由伊の思わぬ発言に律は驚きを隠せない。 「だ、だって付き合ってるって言ったじゃん! き、きす……もしてたじゃん!」 そう言い返すと、由伊は後ろめたそうな顔をする。 「あれは、……律くんに嫉妬してもらいたかっただけだよ……」 「はぁ?」 意味の分からない理由に理解出来ず、律は混乱しイライラしていた。 「だ、だから! 俺ばっかり嫉妬するのが嫌だったから、思い知れ、と思って好きでもない女とキスして付き合ってるフリしてたの!」 付き合ってるフリ……?由伊のセリフに唖然とする。じゃあ何? あの女の子はそれを知らずに、由伊に愛されてると思って、キスだってしてたってこと……?由伊は、何とも思ってないのに……? そんなの……そんなの……、 「あんまりだろ……」 由伊は彼女の気持ちを裏切ったんだ。そんなの、酷い、酷すぎる。 「り、律くん?」 律はココアをテーブルに置いて、由伊の顔を強く睨んだ。 「それは酷いだろ、由伊」 ふつふつと怒りが湧いてくる。それと同時に悲しさも、湧いてきた。由伊はそんなことする奴なんかじゃない、って勝手に思っていた。期待してた。けどそれは、俺の間違いだったんだ。 「せっかく好きになってくれた人をそんな風に扱うのは、良くないよ。どんな理由があれ、最低だろ」 そう言うと、由伊もイラッとした様子で律を見た。 「……それは、律くんもそうじゃん」 「……」 「律くんだって、俺の告白、罰ゲームだと思ってたし、そのあとだって好きだって言ったのに全然考える素振りさえ見せてくれなくて、橘とばっかりイチャイチャしてたじゃん」 「はぁ⁈ イチャイチャなんかしてないだろ! 橘は友達だ!」 言い返せば由伊も言い返してくる。 「だったら俺だって言うけど、あの女だって俺からしたらただのセフレだから! 向こうは付き合ってるって思ってるみたいだけど!」 セフレ……⁉ 由伊のセフレ……?律は由伊のその台詞に、ガーンッと頭を殴られたような衝撃を覚えた。由伊にセフレがいる。なんでこんなにショックを受けてるんだろう。あんなに優しい由伊は、嘘だったの? そんなの、もうどこを信じればいい。由伊のなにが本当なのか分からない。 「何をそんなに驚いてるの? 本当の俺の姿に幻滅した? 嫌いになった? そうだよね、嫌いだよね、俺の事なんて一ミリも考えちゃいないし、興味もないんだもんね」 吐き捨てられたそのセリフに、律は泣きたくなったが、ぐっ、と俯いてツン、とする鼻を感じながら呟いた。 「……お前だって……、俺がどれだけ考えて、考えて、……っ考えて、……由伊に会おうと思ったか、……そっちだって一ミリも分かってないじゃんか……っ」 律の言葉に、由伊は「じゃあ何を考えたんだよ」と冷たく言ってくる。 「……ゆいは、……ほんとうに、おれのこと、すきなの……っ?」 律は涙を堪えきれなくて、ぽろぽろと零しながら由伊を見上げた。由伊は少し驚いた顔をしつつも、罰が悪そうな顔で「……前はね」と呟いた。 「いまは……?」 「言いたくない」 嫌いなんだ、おれのこと、本当に嫌いなんだ。喧嘩するつもりなんてなかったのに、なんでこんなふうになっちゃうんだろう。自分達はどうしていつも、すれ違ってしまうんだろう。どうして上手くいかないのだろう。橘とも仲野とも、他のクラスメイトとも、上手くやろうと思えばちゃんと出来るのに、由伊だけはいつも失敗してしまう。いつも彼の心が理解できない……そして彼もまた、律の心を理解しないのだ。 「……っ……、すき、……っていえば、……いいの……?」 ぐすぐす、泣きながら律は言う。どうしたら良いか分からない。 結局何を話したかったのか、あんなに必死で考えて、寒空の下この人を待っていたというのに、何一つ、伝えられていない。 「……それじゃ、意味ねぇじゃん」 珍しく口調を崩した由伊は、項垂れるように……そして何処か諦めたようにそう言って脱力していた。 「……ねぇ律くん。律くんは俺とどうなりたいの? 律くんは何がしたいの? 俺はどうすればいい?」 珍しく彼の助けを求めるような言い方に、律はぎゅっと、胸が苦しくなる。 そんなの律にだって分かっていない。分からないのだ。 律も由伊もお互いがお互いに何を求めればいいのか、どこまで求めていいのか分からないのだ。恋人になって欲しい由伊と、友達に戻りたい律には、感情値の差異が大き過ぎて理解したくても出来ない。恋情と友情は決して交わりはしないのだ。 ぽろぽろと溢れる涙が止まらない。呆れられたくない。 言いたいことを言わなきゃいけない。伝えなきゃ、伝わらない。 頭で考えるからダメなのだ、思ったことを口にして、それが恥ずかしくても、伝えたいなら伝えなければ。 「……っもっと、……やさしく、して……」 「……え?」 「……ひどいこと、……いわないで」 「……」 「……まえ、みたいに……っ、いっぱい……はなそ……っ」 律の呼吸が乱れそうになる。涙が止まらない。こんなにも、苦しくもどかしい思いはもう嫌だ。 何がこんなに苦しいのか、分からないけど、自分の気持ちを素直に伝えるのは、……すごく怖い。 「……りつ、くん」 切なく呟かれる由伊の声。 「……じゃなきゃ、……わかんないよ……っゆいの、おもいも……おれのきもちも……なんにもっ……」 「律くん……」 ひっくひっく、としゃくりあげながら泣くと、由伊がぎゅう、と強く抱き締めてくれた。 「……おれ、……すきに、なったことないの……っ、だれも……」 「うん」 「……だから、……っ、すき、がわかんないの……ひぐっ」 「うん」 「……でも、……ゆい、が……いないの、やだよ……っ」 「うん」 「……ゆいが、だれかに……ひどいこと、するのも、やだ……っ」 「うん……」 「でも、……っ、いちばん、やだったのは……、きす、……したのみたとき……っ」 由伊の胸で顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら必死に伝えた。胸が苦しくて苦しくて、胃が気持ち悪くなる。 由伊からすれば、どうして自分が名も知らぬ女にキスした所を見て嫌だと思ったのか、それをよく考えて欲しい、と思った。そう、思いはしたが、きっと人を好きになったことがないという必死な彼はそれを考えてしまったらまた熱を出して寝込んでしまうだろう。 律からすれば自分の思いを全て伝えて、もしも由伊が重い、とかめんどくさいと思われてしまったら、きっともう立ち直れない。それだけ、律にとって自分の気持ちを話すのは得意じゃない。由伊のシャツをぎゅっと掴みながら泣いていると、由伊は優しく律の頭を撫でる。 「ねぇ、律くん」 声が穏やかで優しくなっている。初めに仲が良かった時みたいに、また優しくなっていた。 「もっとたくさん、話そうか」 静かに、微笑みながらそう言ってくれた。 「俺らは、自分の思いを相手に伝わるように話すのが下手みたいだ。俺も、表現するのが苦手……だから、律くんに酷いことした。本当にごめん」 「……もう、いい……俺も、酷かったから……」 ずび、と鼻を啜ると由伊は笑ってティッシュで鼻をちんしてくれた。 「でも俺がもう少しさ、分かるように伝えてれば律くんをこんなに混乱させる事もなかったよね。俺の方が考えてなかった」 「……ち、ちが」 「律くん。俺、律くんが好きだよ」 「……っ!」 真っ直ぐに見つめられ、思わず胸がドキッと鳴る。ど、ど、ど、と激しくなる鼓動。 「本当は、このままフェードアウトする方がお互い幸せになれるのかもって思った。律くんに言われた通り友人として、律くんのいちばん近くに居られるならそれでもいいと思った」 由伊の切なそうな表情に魅入ってしまう。儚い表情をされたら、本当に消えてしまうのではないかと不安になる。ぎゅうっと、由伊のシャツにしがみついた。 「……でもずっと、苦しかったんだ。恋心はそう簡単に消えない。殺す事は出来るかもしれない。殺して、俺を好きになってくれる子と付き合う方が幸せなのは分かってる。でもそれは、……それをしてしまったら、俺は絶対に狂ってしまう」 眉を寄せ困ったように微笑む由伊は、これまで見た中で、いちばん、綺麗だと思った。 「ねぇ律くん、俺はねずっと……今までもこれからも、ずっと、律くんだけを好きみたい」 苦しそうな表情を、俺がさせているんだろうか。由伊は何故そこまで、俺に拘るんだろうか。 「俺は、律くんに振り向いて貰えなくてもずーっと、律くんが好きなんだよ。きっと」 何故そこまで確証を持てるのだろうか。すき、ってなんなんなのだろう。 「それでも律くんは、俺といようと思える? 汚い感情を持った俺と、いたいと思えるの?」 試すような問い。これは、由伊の叫び、なのだろうか。律が今まで向き合ってこなかった、由伊の本心はコレなのだろうか。 「……離れるなら、今しかないよ、律くん。じゃなきゃ俺は、何をしちゃうかわかんない」 苦しい、助けて、……そんな由伊の心の声が聞こえる気がする。思い込みかな、いやでも、……、由伊の手は、あの日初めて会った時みたいに、震えていた。ぎゅう、と強く抱き締める。由伊がしてくれたみたいに、自分の柔らかくない身体じゃ気持ちよくなんて、無いかもしれない。けれど、つよく、つよく、抱き締めた。 「……おれ、もう逃げないよ」 そう伝えれば、怯えるような彼の表情に、くすり、と笑った。 「……俺は、好きって感情がどういうのだか知りたい。由伊といれば分かる気がするんだ」 「……でもそれは、俺にとって不幸な選択だろ?」 由伊は諦めたように笑う。律はふるふる、と首を横に振った。 「ううん。違う、そうじゃないよ。……だって、俺、由伊と離れたくないもん。離れたくないってことは、好きだから、でしょ?」 見上げた先に居る由伊は驚いたように目を見開く。 「あんなに意地悪も酷いことも言ったのに?」 「うん。それよりも、由伊が傍に居てくれるとすごく安心する」 「……律くん、それは優しすぎるよ。そんなんじゃ、悪い人に捕まっちゃうよ」 「でも、由伊が居てくれるんでしょ?」 いたずらっ子みたいに笑ってやると、由伊はカァッと顔を赤くして、「っもう〜!」と顔を手で覆っていた。 「っもし俺が、耐え切れなくなって監禁して縛り付けて酷いことしまくってもいいの⁈ 泣いちゃうよ律くん絶対!」 由伊の必死さに律は首を傾げる。 「でも由伊は、しないでしょ? そんなこと」 「なんでそんなこと言えるの。俺はキミを泣かしてるんだよ?」 「でも由伊はしないよ。もう絶対、しないよ」 「……なんでそこまで言いきれるの……」 何故かはわからない。ただ、確証があった。由伊は不安になったからああいう行動をとった。じゃあこれから、自分が由伊を不安がらせなきゃいいわけだ。 「由伊は、優しいから」 そう笑うと、由伊も柔らかく微笑んでくれる。 「ねぇ、律くん」 「うん?」 ぎゅーっと抱き寄せられ、由伊の甘い香りが鼻腔に広がる。 「……俺の事もし本当に好きになったら、ちゃんとすぐ、教えてね?」 「うん、分かった」 「俺、言葉がないとすぐ不安になって、抑えられなくなる。でも、これからはちゃんと我慢するし、律くんの傍でずっと待ってる」 「……うん、ありがとう」 「律くん、やっぱり俺の家に来ない?」 「え?」 顔を見上げようと思ったのに、強く抱き締められてしまって、体が離せなかった。 「……俺、律くんを離したくない。一人の家に帰したくない」 ひとり……。まぁ、ひとりっちゃひとりだよな。 「律くんが熱出ても誰もわかんないんだよ。倒れても、喘息になっても、泣いていても、悲しくても寂しくても、誰もわかんないの。美味しく料理を作っても、食べてもらえないの、そんなの、俺が嫌だ」 由伊の切実なセリフに、律はそっと身を寄せる。 「……ねぇ、律くん。お父さんが帰ってくるまででいいから、少しだけうちにおいでよ」 「……でもそれは、ご迷惑になるし」 断ろうと思っていたんだ、元々。由伊のご両親が賛成してくれていても、あの子たちは多分迷惑がっているだろうし。段々面倒になると思う、他人がいる生活には。 「そんな事思ってないよ、俺の親父も母さんもぜひ、って言っているくらいなんだ」 「…………俺は、慣れてるからさ、一人の生活に。でも、由伊たちは慣れてないだろ、他人がいる空間には……。やっぱりそれは、負担になるよ」 「そんな事ないよ。大丈夫だよ、おねがい、少しだけ此処にいて欲しい」 由伊は、懇願する。コイツはこんなに駄々っ子だったのか。確かに、少し犬っぽいところはあったけど、こんなに子供っぽいとは思わなかった。……不安、なのかな。俺がこのまま離れるんじゃないか、って……信用されてない、って事なのかな。 「……由伊、俺、大丈夫だよ」 「え……?」 「由伊を裏切らないし、消えたりしないし、大丈夫」 にっこり笑う。安心させてあげなきゃ、いけない。由伊は、苦しそうに顔を歪めたあと、無理矢理口角を上げて笑った。 「……そっか」 少し寂しそうに呟いた由伊にぎゅーっと抱きつき、思いっきり堪能しておく。もうこんな事は中々無いだろうし、由伊も不安になってしまうかもしれないし。抱き締めれば、抱き締め返してくれる。こんな温かさを、久しぶりに体感した気がした。人は、嫌な記憶ほど忘れる事が出来ない。だから律は、一生人間を好きになれないと思っていた。けれど、由伊なら、……由伊となら、一緒に居られるかもしれない。普通の人と同じく、なれるのかもしれないとほんの少し、笑える気がした。

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