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第6話

翌朝、目が覚めた律は大変驚いた。 何やら夢を見ていたような気もするが、そんなもの忘れてしまうくらいには目を開き、鼓動が激しく鳴った。 「……うわぁ!」 目の前に綺麗な男の顔がドアップであったら、そりゃ誰でも心臓飛び出るだろう。そんな端正な寝顔の彼は折角すぅすぅ、と規則正しい寝息を立てていたのに律の叫び声でゆっくりと、目を開けてしまった。 「……ん、なに、どしたの……」 眠そうなとろとろの声でちゃっかり律を抱き寄せてのんびりと言う由伊。律は由伊の腕の中でバクバクと心臓が鳴りながら、「お、はよ……」と返した。 「んへへ、おはよぉ……」 ふにゃあ、と柔らかく笑う由伊の顔が幼くて可愛くて、律の頬がほんのり熱くなる。しかしそんな邪心を振り払う為に律はバッと起き上がって、即座に由伊から距離を取った。 「そーんなあからさまに離れなくても、取って食ったりしないよ〜?……今は」 今は……⁉いつかは食われるってこと⁉……どうやって?元々由伊はあまり油断ならないと思っていたが、律は更に警戒心を強めて由伊の隣にいる事にした。 「ほら律くん、着替えて下降りよ」 由伊は律のお泊まりセットである黒のリュックから、洋服をポイポイ出し、律に手渡す。 「あ、ありがと……」 自分で出来るけど、と言いたかったが、甘やかしてくれて悪い気はしないので律は素直にお礼を言った。 「律くん、やっぱり細いよねぇ……もうちょっと食べた方がいいよ?」 スウェットを脱いで上裸になった律の浮いた肋を、つーっとなぞる。ぞわわ、して、ぶる、と震えた。 「くすぐったかった?」 クスクスと笑う由伊に、「イタズラすんな」と怒る。律が着替えている間、由伊はじーっと考えるように律の体を見てくるので何が面白いのか分からないが、「お前も早く着替えろ」と怒っておいた。二人が着替え終わり、由伊に連れられるまま一階に降りた。 「あら起きたの。おはよう、律くん、ハル」 京子に、にこやかに挨拶をされた律は、寝起きで他人に会うことに慣れず緊張し「おはようございます……」とぎこちなく返した。 「あれ? 母さん今日仕事は?」 席に着きつつ由伊が京子に問う。律も由伊に促されるまま由伊の隣の椅子に腰を下ろす。 「今日は休みって言ってなかったっけ?」 「聞いてないと思う」 親子の会話を聞きつつ、京子が出してくれたココアを、小声で頂きます、と呟き飲んだ。 「ね、嫌いなものあるかしら。朝ごはん、卵焼きと焼き鮭となめこのお味噌汁なんだけど……」 「え、朝ごはんなんて良いんですか……⁉ お、俺なんでも大丈夫です……あの、お手伝いします……!」 律が申し訳なさに慌てて立ち上がれば京子と由伊に抑えられ再び座らされられてしまう。 「律くんは、俺とここに居ようね」 「で、でも‼」 「大丈夫よ。この子なんて一回も手伝った事ないんだから」 京子が意地悪顔を浮かべながらそう言えば、由伊は、むぅ、とむくれて「母さんいない日は俺が作ってるだろー」と言っていた。 「え、由伊ってご飯作れるの?」 そんなイメージは無かったけれど、優等生で器用な由伊ならば有り得るな……と、目を丸くしていると、さらにむくれた由伊は律のほっぺをムニ、と摘んだ。 「律くんにお粥作ったのはどこの誰かなぁ〜。うどんも美味しかったんじゃなかったのかな〜」 「ひょ、ひょーらっら……ひょみん(そ、そうだった……ごめん)」 「何言ってっかわかんねー」 由伊はケラケラ笑う。 「あら仲良しねぇ」 京子は微笑みながら、律らの前に次々と美味しそうな料理を出してくれる。他人様のお家に勝手にお邪魔して勝手に寝泊まりさせてくれているのに、本当に手伝わなくて良いのかとソワソワしてしまう。 「ふふ、じゃあお箸だけ並べてくれる? そこに出してあるから」 「は、はい!」 律のソワソワに見兼ねた京子は、軽い事なら、と律に仕事を与えた。律は嬉しくて、すぐに立ち上がってキッチンへ行きお箸を手に取って由伊に訊く。 「由伊と、由伊のお母さんのはどれ?」 「はは、律くん仕事もらえて嬉しいの? 楽しそう。俺のはこの青いやつ。母さんのは赤いやつ。この黄色いのが律くんのだよ」 由伊に目を細められ、律は彼のその優しい表情に一瞬ドキッとする。しかしすぐにそれらを振り払い、いそいそとお箸を並べた。 「ありがとう、律くん。それじゃ食べましょうか」 お味噌汁を並べ終えた京子と由伊は、同時に「いただきます」と手を合わせていた。流石、親子だな、なんて思っていたら自分も一緒に言うのが遅れてしまって慌てて、「いただきます!」と言った。二人は少し緊張しつつ、律が食べるのを待っているようで、律も律で、先に食べて良いのだろうか……と、恐る恐る箸を手に取りお味噌汁をズッ、と啜った。 「……おいしい」 温かい味噌汁が口に拡がって、しかもなめこのおかげでとろとろ感が最高に美味しい。律のこぼれたつぶやきに京子はホッとした様子で、「お口に合って良かったわ」と言った。 京子の料理は、どれも本当に美味しくてぜひ、参考にしたいなと思ってしっかり味わっといた。三人で朝食を食べ終え、「ごちそうさまでした」と手を合わせたあと、律は、今度こそ、という想いを込めて声をかけに行く。 「洗い物は、してもいいですか?」 「だから良いのよ、律くんは何もしなくて。陽貴の相手をしてあげて」 「で、でも……泊まらせてくれた上に、ご飯まで頂いて、面倒も見てくれたのに、何もしないのは心苦しいというか……」 モジモジしていると、由伊のお母さんは困ったように笑った。 「本当にいい子ね。でも大丈夫よ。気にせずゆっくりしていなさい、アナタはまだ病み上がりなんだから」 せめてもの提案、と思ったが京子は頑なに律の申し出を断った。それは別に、キッチンに立たれたくないからだとか、上手く片付けてくれるのか不安だから、とかそういった理由からではないし、勿論意地悪なつもりでも毛頭ない。単純に律を動かしたくなかったからだ。京子は主婦である傍ら、れっきとした看護師。言わば、息子の友人半分、患者半分の認識でいるわけである。患者に何かさせるわけにはいかないし、何となく、律の細さや危うさが気になってあまり消耗させたくなかったのだ。しかし律からしたら、そこまで拒まれると思っていなかったので少し悲しくなってしまう。自分が迷惑をかけているのに、なんの恩返しも出来ず心苦しいのと、このままでは由伊の家族に「厚かましい奴」と思われて、二度と口を聞いてくれなくなってしまうのでは……と。けれど、よくよく考えてみると、他人にキッチン立たれるのはあまり嬉しくないのかもしれない。皿を割られるかもしれないし、収納棚とかも見られたくないかもしれないし、それ以前に家をウロウロして欲しくないのだろうな、と律は思ってしまった。そのことにやっと気づいた律はしょんぼりして、「すみません……」と言うとお母さんは、「こういう時は、ありがとう、でいいのよ」と教えてくれた。けれど律は、明るい気持ちではお礼を言えず少しだけ声が沈んでしまった。 「……ありがとう、ございます」 朝食を食べ終え、律と由伊はまた由伊の部屋に戻った。律は、熱は下がったものの、体力はまだ戻ってないらしく、加えて京子の前で気を張って気疲れもしてしまっていた。律は由伊の隣に腰かけほんの少し、だらん、と脱力する。 「どうした? 疲れちゃった?」 由伊に目敏く見つけられ、律はゆるく首を横に振る。 「……ううん。美味しくて食べすぎただけ」 そう言うと、由伊はじっと律を見つめる。 「な、なに?」 あまりにも見られるものだから、律も動揺しつつも由伊を見つめ返した。 「律くん、嘘ついてるでしょ。顔色、悪いよ」 一瞬でバレてしまった。律は慌てて笑顔を作る。 「違う、ほんとだよ。食べ過ぎたの、久々に固形物を……」 「それもそれだけど、違うでしょ。他人の家でちょっと疲れちゃったんでしょ?」 「いや、そんなことは……」 律が頑なに否定すると、由伊は困ったように笑った。由伊も分かっているのだ。律が自分の家に居ることで気疲れを起こしていること。 けれど、気疲れならまだ、発熱者を一人放置するよりはマシだと思って看病してきた。律が他人と馴れ合わないのは、馴れ合えないというのもあるのだろうが結局その根底には、他人の何かしらが苦手なのでは、という結論になる。だから由伊は自分の家のように人の多い空間は律に耐えられるのだろうか……と連れてきた時から不安ではあったが、先も言った通り放置するより遥かにマシだと考えた。実際、熱の方は良くなっている。ストレス性ならそろそろ家に帰してあげるべきなのだろうけれど、それはまだ少し心配だ。彼の家に彼以外の誰かが居てくれるのならまだしも……。 「律くん、ちょっと寝る? 熱は無くてもまだ体力も免疫も戻ってないでしょ。ベッド使っていいから、横になるだけなりな」 由伊はそう言って律を促して自分のベッドに横にさせた。律も素直に横になったので、やはりラクなのだろう。由伊はやっとリラックス出来ている律の様子に満足し、ニコッと笑って律に背を向け雑誌を読み始める。律はぼんやり一人で寝転ぶのもなんだかつまらなくて、何も考えずに目の前にいる由伊に何となく、手を伸ばした。由伊にあと少しで触れる、そう思った時バッと由伊が振り返った。 「……わ、」 あんまり急に振り向くから、普通に吃驚してしまう。 「ご、ごめん……」 律は何故か分からないけど何となく謝ってしまった。その謝罪に対し由伊は、「なにが?」と首を傾げる。 「一人で寝るのつまんない? さみしい?」 彼は律の心を見透かすのが得意なのだろうか。それとも自分は、そこまで分かりやすく顔に出しているのだろうか。どちらにしても、読まれてしまうのは恥ずかしい。 「……べつに」 寝返りをうって由伊に背中を向けた。 「りーつーくーん?」 ニヤニヤしているのが見なくても分かる。律はぎゅ、と目を瞑り無視をした。 「あー無視するんだぁ〜俺、無視は嫌いだなぁ〜」 その言葉に律はドクッと胸が鳴り、慌てて起き上がる。 「律くん?」 律の様子に不思議に思った由伊は、首を傾げて律を見る律は嫌な汗が止まらず、由伊に抱き着いた。 「……ご、ごめん。むし、しないから……きらいに、……ならないで」 僅かに震える己の身体。何がこんなにも怖いのか分からない。ただ今は、由伊に嫌われることがこんなにも怖くて仕方がなかった。 *** 『きらわないで』 と、彼は怯えた顔で言った。熱が下がり動けるようになって、京子の前で緊張したのか由伊の部屋に戻り二人きりになった途端疲れた顔をして、脱力していた。問い詰めれば、嘘をつけない律は大人しく横になった。ふと、手を伸ばしてくる気配を感じて振り向けば驚いた顔をして拗ねてそっぽを向いてしまった。ふざけて、嫌いだなぁ、なんて言ったら、彼はバッと起き上がって青い顔をして恐る恐る抱き着いてきた。何が彼をこんなに怯えさせるのか、分からない。『きらい』という言葉がダメなのか。もしくは、こっちの可能性は限りなく少ないが、『由伊陽貴が宮村律を嫌いになること』に恐れを感じているのか。まぁ、後者の可能性は無いだろうな。 彼の事をまだ全部把握しているわけじゃない。大好きだ、愛おしくて、この腕の中に非合法的でも良いから一生、閉じ込めておきたいぐらいに、愛している。けれど、愛だけでは相手を知ることは出来ない。そして、彼の場合焦りも禁物だ。焦って言葉を欲しがり己の意の向くまま行動してしまったら、また自分は彼を追い詰めてしまう。律は自分の限度に気づかないから、我慢し続けるし無茶もするだろう。由伊が非合法的なものに手を染めてまで彼を欲しがってしまったら、それはイコール『破壊』となんら変わりない。俺は、彼を彼のまま手に入れたい。愛したいんだ。壊したいほど、愛している。けれど、壊すわけにはいかない。壊れそうな彼を、繋ぎ止めるのは自分である。 俺はまだ彼が何故人を好きになれないと言ったのか、なぜ左手首にリスカ痕があるのか知らない。……いや痕だけならまだしも、新しいものもある。宮村と宮村の父親の関係はなんなのか。愛されているのだろうか、母親は? 兄弟は……。 俺に抱き着いたまま安心したようにすやすやと眠る、可愛い子。 思ったよりも人が苦手なのだと知った。だから、自分からは関わりを持たなかったのだろう。橘宇己と仲が良いのは、橘がパーソナルスペースっていうものを知らないからだ。律は疲れたのか可愛いらしく由伊に抱き着いたまま眠ってしまったので、由伊はそんな律の寝顔をこっそり連写し、アルバムに納めた。 実はずっと前から律用のフォルダを作っているため、パソコンのフォルダももうこれで十二個目なのである。そろそろまたUSBにデータを移さなきゃパソコンの容量がなくなりそうだ。ことある事に彼が可愛いくて思わず連写してしまい、そのどれもがベストショットのため、消しはしない。 由伊は律にバレぬように、律の可愛いつむじが見える後頭部を待受画面に設定して満足しこっそり笑んだ。 ***   お昼過ぎ頃に、律は目を覚ました。モゾモゾと由伊のお腹の辺りで動いていると、由伊が読書の手を止め、頭を撫でてくる。 「律くん、起きたの?」 そう優しく聞いてあげれば、律は眠そうに目を擦る。横の髪の毛がぴょこんと癖づいてしまっている。それを手櫛で直してあげた。 「……ん、ごめん…ねてた……」 「全然だよ、疲れてたのかな。お昼は? どうする? 一応、母さんが作ってくれてるけど」 さっき一度呼びに来たが、律を見て「取っておくわね」と言ってくれた。 「……作ってくれたの、食べる」 眠い目をまだ擦りながら、よたよたと起き上がる。 「じゃあ下行こっか」 こくん、と頷き大人しく由伊に手を引かれている。……きっとまだ寝ぼけているんだろうな。いつ気づくかな?心で楽しみながら律を甘やかす。警戒心の強い彼だが、甘やかされるのが苦手なわけじゃなさそうだ。 由伊と初めて会った時は、ウザったそうにしていた。でも段々と甘やかされる事に慣れてきたのか、今では子供のようだ。しかし、由伊の家族にはとても気を使っているようで多分今もお腹なんて減ってないのに、京子が作ったから食べなければいけないと思っているのだろう。本当に、健気で可愛い子だ。 二人はリビングで用意されていたちょっと遅めのお昼ご飯を食べ終え、そのままリビングのソファで京子と由伊と律はゆっくり談笑する。律はやはり緊張しているようで、由伊が甘やかしても全然甘えて来ず、京子の顔色を終始伺っていた。自分の友人が家に来た時、アイツらはここまで気を遣わなかったような気がする。律は過剰のような……悪い事では無いが、あまり気を遣い過ぎても京子も律自身も疲れてしまうだろう。それらに勘づいている由伊は、ちょくちょく律の様子を伺い力を抜くように試してみるが、どうやら効果はないようだった。 「ね、母さん、ちょっと買い物行ってくるわね。律くん、お夕飯何か食べたいものある?」 律があまりにも肩に力が入っているからか、察していた京子は買い物に行くと言い出す。律はその言葉に焦った顔をする。 「あ、あの、俺帰りますのでお気になさらないでください……!」 律の言葉に京子は「あら」と驚いた。 「やっぱり泊まっていくのは、嫌かしら?」 困ったように笑う京子に、律は少し言葉が詰まってしまった。見かねた由伊が助け舟を出そうとすると、京子が目で「黙ってろ」と、由伊を見た。由伊は仕方なく不安に思いつつも黙っていると、律がぎゅっと手を握りながら、必死に言葉を発した。 「…………嫌、なんじゃなくて……嫌に、なられるのが…………嫌なんです……すみません……」 絞り出したか細い声は、しっかりと俺の耳にも、もちろん京子の耳にも届いていた。本当は、どういうことなのかもっと詳しく聞きたい所だけど、京子が優しく「そっか」と言ったので、由伊も何も言わずに見守る事にした。 「律くんは、本当に可愛い子ね。大丈夫よ、健気で真っ直ぐで一生懸命なアナタを、私達は決して嫌いになんてならないわ。けれどそれを証明するにはまだ日が浅いわよね。信頼は簡単には生まれないもの。でも、またちょくちょく遊びに来てくれるかしら?」 京子の律を思いやる暖かいセリフに、律はパァッと、ここに来て初めて明るい笑顔を見せた。 「……はい……っ! ぜひっ!」 京子は律にお夕飯も食べて行けと言ったが、それはもう律は頑なに断った。残念そうにしながらも「また来てね」と言って、京子は買い物に出かけていった。きっと律が帰るまで帰って来ないように気を使ってくれたのだろう。由伊と二人になると、律は「……ふぅ」と短く息を吐いて、恐らく無意識だろうけど由伊に身体を寄せて来た。ここで可愛がってしまうと折角力が抜けたのに、照れて休めなくなってしまうかもしれないので、可愛いのをグッと我慢して、律のしたいようにさせておく。 「……ゆい」 黙っていると、律は不安そうに由伊の名を呼んだ。 「うん? どうしたの?」 律はすりすりと由伊に頭を寄せて、顔を見せずに話す。 「……俺、だいじょうぶかな。……嫌われて、ないかな……」 「え? 母さんに?」 「うん……あと、……由伊のご家族とか……」 至極不安そうにそんな事を言うものだから、由伊は拍子抜けしてしまう。うちの家族が律の顔を見てキラキラしていたのを本気で気づかなかったんだろうかこの子は……。確かに、真は思春期であるので反抗期真っ最中でよく由伊の父である孝がいじめに合っているし、顔合わせた日も何やらギャンギャン言っていたが、年頃の子なんてあんなもんだろう。京子だって律の事を可愛い、可愛いとずっと言っていたし、孝も気色悪いくらい律の事を「綺麗な男の子も居るもんだなぁ……」とずっと呟いていた。寛貴は無関心だったが、別に否定もしていないし無言は肯定だろう。 「みんな律くんの事嫌いなんかじゃないよ。なにか不安になっちゃった?」 律は間をあけて、ポソポソと話してくれた。 「……人の心は、……目に見えないから、いつだって怖い。……『嫌いじゃない』って口で言われてても、本当は何を思ってるか……分かんない……そんなことを、思ってしまう自分も、嫌だ……」 珍しく弱音を自ら吐いてくれた。由伊は弱々しく呟く律に、「ねぇ、抱きしめていい?」と聞いた。 「えっなんで急に」 ボッと顔を赤くした律が、驚いた顔で由伊を見上げた。 「ねぇ、いい?」 聞き返せば、律はおずおずと「……うん」と頷いてくれた。不安だから、許してくれたんだろうな。小さく細い身体を腕の中にすっぽり閉じ込め、由伊はゆっくり話した。 「怖いよね。俺も怖いなぁって思う時、あるよ一〇〇パーセント裏表の無い人なんて居ないし、そんな事してたら上手く生きられないしね。けどそれは、俺から見た律くんだって同じじゃない?」 「え……?」 「俺も、律くんがこう言ってるけど本当はどう思ってるんだろ、って良く考えるよ」 「そ、なの……」 律はぱちぱち、と大きな瞳で由伊を捉える。気分は、小さい子に見上げられている近所のお兄さんの気分だ。 「そ。考えるよ、律くんの心だって視覚化されていないもの。けどそれは生きてコミュニケーションを取る上で当たり前の事じゃない? 相手は今何を考えているんだろう、って完璧に悟られるのも気持ち悪いし、全然空気読んでくれないのもイラつくし」 コミュニケーションは、難しい。由伊はずっと、律に出会うまでそう思っていた。自分自身、律には隠していたが真っ直ぐ生きてきたわけじゃない。紆余曲折あって、今は彼に恋している。 「律くんは多分、嫌われないように、嫌われないように、って強く思っているから相手と話す事に疲れて、億劫になって怖くなっちゃってるんじゃないかな」 嫌われたくない、でも自分を殺したくない。ずっと思っていた自分は、いつからか壊れていた。中学までの由伊は、誰にも教えたくない嫌な自分。 「……怖いよ、嫌われたら、ひとりだもん」 驚いた。ずっと、独りが良いんだと思っていた。橘宇己が来ない日は一人だったし、ほとんど一人で過ごしていたから……。 「……律くん、一人は嫌なの?」 由伊の問いに律は少し首を傾げて言った。 「一人が嫌なんじゃなくて、折角俺を見てくれた人に嫌われるのが嫌だ……。俺は一人なのは慣れてる。一人だと心地がいい。でも、一回でも俺を見て話しかけてくれた人に嫌われたら、それは本当の嫌いじゃん。食わず嫌いならまだ断然ダメージは少ないけどさ……」 ……なるほど。本質的に嫌われるのが怖いってことか。一理ある。 「だから律くんは、言葉を選んで嫌わないように、俺達の顔色をずっと見てたんだね?」 「……うん。そんな、分かりやすかった? ……ごめん」 「ううん、全然だよ。むしろ律くんがこのまま疲労で倒れちゃわないか焦った」 苦笑しながら言えば、律は「……ほんとはね、」と小さく言った。 「本当は、大人の人が苦手ってのも大きい、かも……」 「大人の人?」 「……うん。……けど、由伊のお母さんとお父さんは好きだよ。大人の人は苦手だけど、良く思ってくれているのは知ってるし、酷くしないってちゃんと、由伊見てたら分かる」 『酷くしない』か。 ここで訊いても答えてくれるのかな。いやきっと今は、止めた方が良いんだろうな。今は彼の不安を解いてあげなければいけない。 「そっか、理解してくれてありがとう。あの人たちも喜ぶよ絶対、バカみたいに」 おちゃらけて言えば、律くんはクスクス笑ってくれた。 「だからこれからも、遠慮なく遊びに来てね? 一泊二日でも、二泊三日でも少しずつで良いから、うちに慣れてってよ」 笑顔で言えば、律は安心したように笑ってくれた。 「ありがとう、由伊」 夕方になり、律を家に帰さなくちゃいけない時間になる。由伊は律を家まで送り届けるために家を出て、一緒に歩いて家まで見送った。道中、律とは少しだけど話をした。大半が由伊自身の話だけれど、律もぽつりぽつり、自分の話をした。本当にほんの少しだけど、甘い物が好きな事と、大人が苦手な事。辛いものが苦手な事を教えてくれた。大人の人が苦手な理由は教えてはくれなかったし、由伊も敢えて聞かなかった。聞くのは今じゃない、と何となく直感が言っていたから。 律のアパートから帰る途中、京子に『律くん送り届けたよ』とメールをすると、直ぐに返信が帰ってきた。 「……『駅前のカフェに来い』?」 京子から届いたメールを読み、由伊は駅前の京子行きつけのカフェに向かう。店内に入ると、静かなBGMが流れコーヒーの匂いがする。読書をしていたり、仕事をしていたり、静かに談笑している人たちがいた。その人たちをスルーして、京子の座る奥の席へと向かう。 「どうしたの? 急にカフェなんて」 もうじき夕飯なのに外に連れ出すなんて珍しい。由伊は上着を椅子の背に掛け、京子の対面に座った。 「まぁ取り敢えず頼みなさいよ。すみません、ブラックコーヒー一つ、ホットで」 「……俺、メニューすら見てませんが」 「まぁまぁ」 自分で頼むように進めといて勝手に頼まれた。まぁ別に元々コーヒー頼もうと思っていたから良いんだけど。頼んですぐに淹れたてのコーヒーが届いたのでそれを一口、口に含み飲み込んで落ち着く。 「で、どしたの?」 京子は真剣な表情で、口を開いた。 「ねぇ、律くんどうだった? あたしが出掛けたあと」 「出かけたあと? 別に普通に話して普通に帰ったよ」 そう言うと京子は呆れた顔をする。 「違うわよ。律くんの心の話。あの子、過剰に私とパパに怯えてたじゃない? 虐待とか、されてるわけじゃないのよね? 本当に、出張? ネグレクトって訳じゃないのよね?」 由伊の不安と、京子の不安はどうやら同じものみたいだった。 「……うーん。俺もそんな気がしないでも無いんだけど、別に律くん父親の話して来ないし俺も、わざわざ聞けないからさ。ただ母親が居ないってことは分かるんだけど……」 「……そうよね。律くんがうちに居ると気を使っちゃうのは分かるんだけど、やっぱりどうしても心配だわ。土日だけでも泊まりに来てくれないかしら」 京子の心配性っぷりが炸裂している。確かに土日に泊まりに来てくれるのは由伊としては大変嬉しい。だってそしたら、月曜から金曜までは必然的に学校で会えるし、土日になれば家に泊まりに来てくれるから会えるわけだし。そしたら、毎日律くんに会えるわけじゃん? それは最高に俺からしたら嬉しいものだけど……。 「……確かに良いと思うけど、律くんが疲れちゃうと思う」 「あら意外だわ」 由伊の言葉に京子はニヤッと嫌な顔をする。「なにが」とむす、とした顔で返すと、ニヤニヤしながら京子は言った。 「アナタ、律くんにゾッコンのくせに」 ズバリと言い当てられ、由伊はギク、とする。まあでも隠すことでも無いし、いずれ言うつもりで居たので由伊はそのままぶっちゃけることにした。 「……そうだよ、俺は律くんを世界で一番愛してる」 「きゃあ〜! 息子から、誰かを『愛してる』って言ってるのを生できけるなんて! 生きてて良かったわ〜!」 京子は大袈裟にきゃあきゃあする。由伊は呆れながらコーヒーを啜った。 「まあでも、何にせよ。愛するって言うぐらいなんだから覚悟はあるんでしょうね」 京子の目が乙女から一気に鋭い瞳に変わる。 「男同士の覚悟?」 「それもそう。同性愛は広まってきたとはいえまだまだ受け入れられない部分もあるから、想像以上にとても生きにくいと思うわ」 「まあね。けど、律くんの居ない世界と比べたら何億倍も息がしやすいよ」 「惚気やがって〜! あと、律くんのように不安定な子は中々難しいのよ。だからと言って見捨てろとか、そう言うんじゃない。中途半端にしないでってこと」 京子の言葉に、由伊は満面の笑みで言った。 「こっちはもう八年もずっと前から、律くんに恋してんだ。今更、中途半端にしたくてもしてあげらんねぇわ」 穏やかなクラシックと京子の呆れた溜め息を聴き流しながら、由伊は白いマグカップを手に取り、苦味を口に拡げた。 覚悟じゃなくて俺の場合、そうなる運命にするんだよ。 誰も居ない部屋に帰ってきた。だいぶ長い間、人と会っていた気分。……いや実際、会っていた。二日間、ずっと由伊と居た。律はぼすん、と地味な音を立ててベッドに横になる。まだ少し体がだるい気がする。でもこれは、人とずっと居たからだな。由伊の両親は優しかった。暖かくて、本当に迎え入れてくれているのを感じた。けどそれを信じきる事は出来ず、微かな不安は大きな不安になった。他人と住むのは由伊の事を、好きだという気持ちだけでは乗り切れない。だから断ってしまった。好きだと慕う気持ちと恋心は違うのだろうか。由伊を恋愛対象として見た事は一度もない。けれど、綺麗な顔だとか優しいとか、可愛らしいだとか、そんな気持ちはちゃんとある。ぎゅ、ってしてもらうと嬉しいとか、自分だけを見ていてくれるのを知ると、嬉しくてたまらない。他の人とキスしているのを見た時は、きゅうっと胸が締め付けられて苦しかった。人を好きになれないと、ずっと決めつけて生きてきた。実際律は、自分の親さえも傷つけてしまった。だから父は帰って来られないし、律も親に帰って来られても、合わせる顔がないと言うか。自分は、変われるのだろうか。好き、を、知りたい。律は、あの時確かに由伊を好きだと思った。けれどそれは、友達としてなのかな。キスしているのを見るのが嫌だって思うのは、律と話してくれる時間が無くなるから?今まで話しかけてくれていたのに、由伊の目が全て彼女に向いてしまうから?由伊の興味も、好意も、熱い瞳や、肌、体温、全て……盗られてしまう、から?友達との関係もよく分からない律にはその違いさえ分からない。 「うーん……」 頭痛くなってきた。やっぱり、一人の方がラクだなぁ。無機質な天井を眺めつつ、仄かな怠さに身を任せて目を閉じた。

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