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第12話

「僕は、人参嫌いだよ律くん!忘れちゃったの⁈」 野菜コーナーでさっきからビービー文句を言う大きい男を無視して、律は人参とピーマン、玉ねぎとブロッコリーをカゴに放る。 「ああっ‼ピーマンもカゴに⁈なんで⁈どうして⁈久々に会えた父さんにどうしてこんな惨いことを……っ」 はぁ、とため息を短く吐いてじとりと見る。サングラスとマスクの裏できっと、お強請りの顔をしているのだろう。ちなみに今日の父のマスクにはペンギンの絵が描いてある。自分で描いたらしい。マッキーの匂いがしてくせーって言いながらつけていた。……なら描かなきゃいいのに。 「どうせろくなもの食べてないんでしょ。たまに帰ってくる時くらいしか手料理食べられないんだから黙って食べなよ」 ムゥ、とした空気を感じ律はさらに無視をする。 「顔は会わなくてもたまーに夜お邪魔してたでしょ!朝も食べてたし!だから健康は保たれてる!今日は好きな物だけ律と食べたいよ!」 子供か。嫌いなものが人参とピーマンなんて幼稚園児か。 「だーめ。まだ暫く居るなら最終日は好きな物作ったげるよ。今日は健康食」 明らかに拗ねた父はふいっとしてお菓子コーナーへ行ってしまった。 ……あの人、本当に世界を駆け巡って仕事出来てんのかな?この仕事は嫌だ!めんどくさい!とか言ってそう……。呆れつつお肉コーナーを見る。ひき肉をカゴに入れ、文崇を探そうと律はキョロキョロする。お菓子コーナーは、たしか…… 「おじちゃんすごいね⁈ゲテモノジャーにくわしいの⁈」 「ふふん、おじさんはねゲテレッドになるはずの男だからね!」 「そうなのぉ⁈すごいすごい!じゃあなんでくろいめがねとますくしてるのー?かいじんみたい!」 「……ぐっ、こ、これは大切な者を守るための仮面なんだぞ‼怪人じゃないんだぞ‼」 「わー!ほんとうはぶさいくなんだー!ままあー!ぶさいくなおじちゃんがかめんかぶってるー‼」 「なっ!おい!君ねぇ‼」 「ぶっ……くふ……っ」 もう無理、耐えられない。肩を揺らしてアハハ!と豪快に笑ってしまう。ブサイクなおじちゃんが仮面かぶってるって、ただの暴言!かわいそうすぎて笑いが止まらない。 「り、律〜!最近の子供は怖いよ〜」 メソメソしながらこちらに来る、仮面をかぶったおじちゃん。 「まあまあ、子供は素直なんだよ」 「そ、それフォローになってないよ⁈」 トドメを刺してしまったようで、律はごめんごめん、と笑う。 「あ〜笑った。じゃ、甘い物でも買って帰ろ?」 文崇に笑いかけると、一瞬時が止まったように見えたがすぐに「ああ、そうだね」と言ってくれた。お会計をして、袋詰めして持つと手がふわっと軽くなる。 「僕が持つよ」 荷物をどちらも持った文崇は律に背を向けて「さあ次行こう!」と無邪気に歩き出した。 ……不意に父親の顔をするのは、とても狡いと思う。 後ろ姿に悔しさと、嬉しさを感じて追いかけた。 「なあ律、お友達ってどんな子なんだい?」 ケーキ屋さんへの道をキョロキョロしながら歩く文崇に聞かれ、「え?うーん……」と首を傾げる。友達って、由伊と橘の事だよな? 「……一人は、めちゃめちゃ優しくていっつも俺の事気遣ってくれる……。もう一人は関西弁であんまり学校来ないけどたまに来ると、皆のことも俺のことも笑顔にしちゃう人……かな」 改めて言うと、ちょっと照れくさい。 「そうかぁ〜。いい子達に出逢えたんだなぁ」 感慨深そうに呟かれ、「……うん」と頷いた。 「会ってみたいなぁ、その子たちに」 「え?」 まさかの発言に目を丸くする。 「いや、親として見てみたいじゃないか。律がそんなに嬉しそうな顔をして語る子達。きっと素敵なんだろう、と思ってさ」 どっちかって言うと、顔は見えないけど文崇は嬉しそうだ。 「あ、あそこじゃないか⁈ケーキ屋!行こう律‼」 ぴゅーっと駆けて行ってしまう文崇の後を慌てて追った。 「律!このミルクレープといちごのタルトとショートケーキ買おう!」 「うち二人しかいないでしょ。誰が食べるのそんなに……」 「僕と律がいるよ‼」 「だから、俺と父さんしか居ないだろって!」 「でも僕と律はいるよ⁈」 「だーかーらー!」 攻防戦を繰り広げていると、「あのぉ……」と控えめな声が聞こえてきた。 「ここの店、一口サイズにカットされたやつも売ってますけど、色々食いたいんならそっち買った方がいいんじゃないスかね……」 めちゃめちゃ面倒くさそうな顔した男の子がいつの間にか後ろに居て、そう教えてくれた。 文崇が「わあ!君頭いいね!ありがとう!」と飛びついていたが、律はその彼の顔に見覚えがあった。 「……寛貴、くん?」 「……ッス」 初めて声聞いたから誰か分からなかったけど、この顔は由伊の家に行った時ずっとゲームやっていた子だろう。 「え?何?知り合い?」 文崇はトレイにケーキを馬鹿ほど乗せながらこちらを見てくる。 「あ、うん……友達の弟くん」 「えっ⁈君が⁈わあ!律がいつもお世話になってます〜!」 トレイをぶん回しながら寛貴に抱きつこうとする文崇を抑えて、寛貴に「ごめんね」と笑いかける。 「もういいからそれ買ってきなよ。お店の人困ってるよ」 律は文崇を促し、買いに行かせる。寛貴はショーケースを覗いていた。 「今日、由伊は来てないの?」 ドキドキしながらそう聞くと、寛貴くんは一瞬こちらを見て「……はい」と答えた。 俺に敬語なんだこの子。ふふ、真面目だな。 「律〜‼手持ち足りなかった!カード忘れた!」 「はあ?なんでそんな買っ……え⁈これ全部買ったの⁈」 泣きついてきた父の手元を見ると、ショーケースにあるカットケーキ一種類ずつ乗っていた。 合計金額一万超え……。 「あのぉ……お会計……」 店員さんは困り果てて声をかけてくる。律は驚き、「あ、す、すみません……っ」と焦り、慌てて足りない分を出してしまった。 「ありがとうございました〜」 安堵したような店員の声を背に、律は絶望しつつ、袋を四つ持つ。 「律……どうしよう……」 あせあせ、とあたふたする父をじとーっとみる。父さんはいっつもこうだ。甘いものに目が無くて、特にケーキ屋さんに入ると俺や母さんの目を盗んでバカみたいに買って、買った後であわあわし出す。 「どうせ食べられないのにどうするのこれ……勿体ないじゃんか……」 項垂れて、ケーキを見つめていると、文崇は「そうだ!」と声を上げた。途端に店に戻って行き、「なんだ?」と待っていたら誰かを引連れてきた。 「律の友達くんにご挨拶に行こう!」 「っは、はあ⁈」 困った顔をした寛貴の腕を引っ張り、意気揚々とそう宣言した。 「ちょ、父さん!それはご迷惑だからダメだよ!二人で食べよ、ね?」 「ダメだぞ律。お前は食べ過ぎるとすぐ体壊すんだから無理はしちゃいかん」 「アンタが買ったんだろうが!」 「てへっ」 可愛くねぇよ‼って違う違う!こんな漫才がしたいんじゃない! 「ひ、寛貴くんごめんね、この人抑えてるから今のうちにお店戻って!」 そう言いつつ暴れる文崇を抑えると、寛貴は面倒くさそうに「はぁ……」とため息を吐いた。 ビクッと体を揺らす。そうだ、そういえばこの子達は俺のこと嫌いなんだった……。は、早く帰んないと、余計嫌われる……、 「いいんじゃないスか、来れば」 「……へ」 思いもよらぬ発言を、寛貴は律たちを見ずに言う。 「アンタに会うと、兄貴も親父も母さんも喜ぶみたいだし」 えっ、え〜‼そ、それはとっても嬉しいんだけど、君が言っていいの?君とまことちゃんは俺のこと嫌いじゃ…… 「あとそれ、捨てるんなら食いたい」 ケーキを指さして、寛貴はそう言った。由伊と似た顔だけれど、由伊よりもガタイが良く男らしい。由伊が女っぽいって訳じゃなくて、短髪でピアスがジャラジャラで目付きが鋭いせいか、男らしさを感じる。 「……い、いいの?」 恐る恐る聞くと、寛貴は依然として無表情で「いいよ、別に」と言った。 「やったな!律!」 「……父さんは少し反省して」 呆れて少し怒ると、「すみません」としょぼんとしていた。そのまま律たちは、由伊の家に寛貴と向かう事になった。な、なんか……ずっと会いたいと思っていたから、ソワソワしちゃうなぁ。 「ただいま」 ぽそりと呟いた寛貴に、「ちょっと待っていて」と言われて、律と文崇は玄関で待たせてもらう。 何故か物凄くドキドキして緊張して、律は思わず文崇の後ろに隠れてしまった。急にドタバタと激しい物音がして三人の人間が玄関に駆けてきた。 「「「律くん⁈」」」 ハモった三人は、律ではなくサングラスにマスク姿の男をみて、「不審者⁈」とハモっていた。 「えっ、寛貴‼律くんは⁈不審者しかいない‼」 「……後ろ」 ボソッと聞こえ、由伊が文崇の腕をつかみ無理矢理退かした。 「わっ!」 文崇はバランスを崩してしまい、咄嗟に気を使ったらしい由伊が慌てて片手で倒れかける文崇を抱き支え、顔は律を見ながらぱあっと顔を綻ばせた。 「律くん‼」 文崇を抱き支えたまま由伊は嬉しくなって満面の笑みで律を見て、律もはにかみつつニコッと笑って「こんにちは……」と言った。後ろの由伊の両親、孝と京子も「わあ〜!律くん、来てくれたのぉ〜!」と笑っている。 「ところでなんでこのストーカーと一緒に居るの?」 ゴゴゴ、と効果音が聞こえてきそうなくらい不機嫌オーラを纏った由伊。えっ、ストーカー? 律が文崇に目をやると、文崇はサッと顔を逸らした。 「お前、なんで律くんといるの……」 由伊が文崇を睨みつけ胸ぐらを掴む。 「え、ちょ、由伊!そ、その人は……」 殴ろうとした由伊に焦り、声をかけるけど届かない。 やばい!父さんが殴られる……‼どうしたらいいか分からず固まっていると、由伊の振り下ろした拳はパシッと誰かに受け止められた。 「……何すんだ、ヒロ」 ドスの効いた低い声が、由伊から出たのかと驚いたがそれより、平然と拳を受け止め、律の前に立った寛貴の大きさに律はビックリしていた。 「……その人、律さんの父親。殴ったら俺のケーキ、潰れるんだけど」 寛貴は由伊に負けない低い声でそう言った。寛貴の言葉に、由伊は「えっ⁈」と驚きパッと手を離した。文崇はケホッケホッと噎せていた。 「だ、大丈夫……?父さん……」 駆け寄ると、「はは、まあこの格好だからな〜」と呑気に笑っている。 「り、律くん!この人、お父さんなの⁈」 焦った由伊と、あらまあ、なんて顔をした由伊の両親が見える。律は「う、うん……」と頷く。由伊は心底驚いた顔で律を見るが、あまりにも律が純粋に「どうしたの?」と言うような顔で見上げてくるのでひとまず信じるしかなかった。由伊達はてっきり律が父親からネグレクト、虐待の類を受けているのだとばかり思っていたからむしろ円満そうで驚いていた。律の父親……文崇の風貌も、マスクとサングラスのせいで怪しいだけで、図体は由伊や寛貴、由伊の父親の孝よりも華奢で何となく、律の父親であることを納得せざるを得ない儚さを持つ人だった。文崇は、けほんっと喉を整えてケーキを由伊に差し出した。それにしても、格好が怪しいだけでそんな敵意を向けられるだろうか、と律は一人首を傾げた。 「いつも律がお世話になっております。今はこんな格好をしておりますが、事情がありまして御容赦頂けると幸いです」 しっかりと大人の挨拶をした文崇に気圧された由伊は、「あ、いえ……こちらこそ、失礼な真似をしてしまい申し訳ありません」と綺麗な敬語で返事をしていた。由伊は凄いなあ。 「けど、どうしてまた家に?」 由伊は混乱しているのかケーキを受け取って首を傾げて律を見る。 「あ、いや、えっと……」 なんと説明すれば良いか考えていると、寛貴が由伊からケーキを受け取り、ポソッと低く小さな声で言った。 「俺が連れてきた。ケーキ、俺の。ね、律さん」 ニヤッと妖しく笑いかけられ、律はドキッとする。は、初めて笑ってくれた……寛貴くん……。律は嬉しくて少し頬を緩くしながら頷いた。 「あ、う、うん……」 そんな様子を見た後、由伊の両親は「さあさあ!上がって!お二人共!」と声をかけてくれる。 今更ながら、「お邪魔します」と呟いて父と律は家に上がった。 「まさか休日に会えるなんて、思わなかったよ〜律くん」 京子がニッコニコ穏やかな笑顔で迎えてくれて、ここの人達は本当に優しいな、と思う。 「ね、律くん、ケーキと紅茶持って俺の部屋行かない?」 由伊にそう言われ、チラリと文崇を見る。 「行ってきなさい、待ってるよ」 そう言われ嬉しくなって、「うん……!」と返事をした。 由伊の後ろについて行く。久しぶりの由伊の部屋に心躍る。 「律く〜ん‼」 「わっ!」 急に抱き締められ、抱き留めるのにバランスが崩れ床に倒れる。幸い、カーペットのおかげで体は痛くない。ふわ、と由伊の甘い香りが心地よく落ち着く。 あ〜、やっぱり父さんとはまた違う安心感だなあ、なんてホッコリする。 「嬉しい、嬉しい律くん!」 犬みたいにぎゅーっと抱き締めてくれる由伊に、律も嬉しくなってそっと由伊の背に手を伸ばし、「……俺も」と返した。すると、ガバッと顔を上げた由伊は言う。 「ねえ、キスしたい」 「……ぅえっ⁈」 思わず変な声を出してしまい、由伊に「何その声」と笑われる。 「い、いきなり変なこと言うから!」 「変じゃないよ。キスしたいって思ったんだ、本当に」 ムゥ、と口をとがらせ拗ねたように言う由伊に律は頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らす。 「…………す、少し、なら……?」 疑問形で返すと、由伊はぱあっと顔を明るくして「うん!少し!」と言って唇を合わせてきた。 「ん……、」 「ふふ、可愛い」 由伊の事だから、なんかえっちぃやつしてくるんだと思ったけど、ふにっ、と唇を合わせるだけの優しいキスで終わった。 「……あんまりやると、律くんお父さんに隠せなそうだから我慢するね」 意地悪そうに囁かれ、「ばっ、馬鹿じゃないの!」と怒っておいた。 「てか、本当に律くんとお父さんって仲良かったんだね」 意外だとでも言うように、しみじみそんな事を言ってくる。律は起き上がり由伊の隣に座る。 「前から思ってたんだけど、なんで由伊は俺と父さんが仲悪いと思ってたの?」 そう聞くと、由伊は難しい顔をして「何となく?」と笑ってはぐらかした。由伊自身、律が無事なのであれば問題はなかった。だとしたら律に何があったのだろうか。父親ではないということは赤の他人に何かをされたから……自傷癖やメンタル面が不安定なのだろうけど……。 「ま、良かったよ!元気そうで」 由伊はにっこり笑って、律の不安を煽らぬよう声をかけた。 「元気そうでって、昨日ぶりなだけじゃん」 そう笑うと、由伊は照れくさそうに言う。 「そうなんだけど、俺は律くんの事大好きだから少しでも会わない時間があると途方もなく長く感じるんだよ、三十分でも、一時間でも、三日と一週間くらいね」 それは長すぎだよ、なんて思ったけど純粋に嬉しくて頬が緩んでしまう。飽きられたくない、嫌われたくない、その想いばかりが強くなる。このままずうっと、一緒に居られたらいいのに 「律くんは?寂しいって思ってくれた?」 優しく目を細めて聞かれ、どきり、と胸が鳴る。これは確実に由伊の弟の寛貴に感じたドキドキとは違う。由伊は全部、他人に感じるものとは別の種類なんだ。なんでだろう?ドキドキも、嬉しさも安心感も、全部他の人では感じられない種類。あたたかさだって特別だ。不思議なんだ、由伊は。 「……寂しい、って思ったよ」 だから、 失いたくない想いが日に日に強くなる。 終わるはずなんてないと思うのに、終わらせたくない、と思う自分が居た。 「いきなりお邪魔してしまい、申し訳ありません。私、律の実の父親の宮村(みやむら) 文(ふみ)崇(たか)と申します」 「いえお会いできて光栄です。私、陽貴の父、由伊 孝と、家内の京子です」 ケーキを食べる寛貴の後ろで由伊の両親と、文崇が真剣な顔をして話している。 寛貴は、兄が律という男に恋愛感情がある事を知っている。 ……というか、あんな露骨に態度にも顔にも言動にも出していたら誰だって嫌でも分かるだろう。寛貴自身はそういう類に興味無いので、差別的な事は特に何も言わないけれど、どうやら真は違うらしい。律を見る度にキィキィぎゃあぎゃあ文句を言っている。まあ、真は『昔の兄さん』の事が大好きだったから仕方ないのかもしれないけれど、うるさすぎるので無視している。それが律を傷つけていると薄ら気づいていながらも、寛貴は見て見ぬふりをして過ごしていた。今日は真が居ないことを思い出して、純粋にケーキのために彼らを連れてきた。律の父らしい文崇は、律と兄が二階へ上がったのを確認して、サングラスとマスクを外して冒頭の挨拶をした。 「あの、いきなりこんな事を聞くのは失礼だとは分かっているのですが、何故、サングラスとマスクを……?」 京子は不思議な顔をして聞く。文崇は、苦笑しつつ「いえ、気になりますよねこんなの……」と言った。 「……まあ、実は私のこの格好は、律を守るためなんです……。事情は、アイツのために今は話せないのですが……」 言いにくそうに、視線をさ迷わせている。居心地悪そうに話す彼は、両親に詰め寄られて困っているいつもの律の姿と良く似ている。 文崇は、あまり背が高くなく端正な顔立ちでお世辞にも逞しいとは言えなかった。 雰囲気は律そっくりで、本当に親子なんだ、と寛貴は感心しつつケーキを食べた。 「……律くんを、守るためなんですね。なら、仕方ないですよね」 にっこり笑う京子に、ホッとした顔を見せる文崇。 文崇もあまり心身共に強い方では無いので、こういった風に注目されることはあまり得意ではなかった。仕事であれば、仕事と割り切って過ごせるがプライベートともなると未だに上手くいかない部分があった。 「……あの、恐らくですが律は由伊さんにかなりお世話になっておりますでしょうか」 「いえ、うちの陽貴が律くんの事が大好きで付きまとっているんですよ」 京子がおほほ、と笑う。 文崇も京子の言葉に、「そうですか」と安心したように笑う。 笑った時に、ふんわり安心して人懐っこい顔になるのは、律さんと似ている。けど、何処と無く寂しそうなのも、律さんとそっくりだ。 ミルクレープを一層、一層、剥がしつつ寛貴は何となく三人の会話に耳を傾けた。 「……実は、いきなり挨拶に来て不躾にこんなお願いをするのは本当に申し訳ないと思っているのですが、律の顔を見ていて、本当に陽貴くんが今の律の心の支えになっていると感じ、お話させて頂きたい事がございます……」 文崇は、緊張と焦りと不安、あらゆる恐怖を背負いながらも、息子のために、必死に京子達を見つめた。 「ええ、勿論ですわ。私達も律くんと初めて会った時、一人で住んでいると聞いて、それ以来ずっと気にかけておりました。高校生が一人で暮らすなんて、容易な事じゃありませんからね」 京子はずっと感じていた疑問をオブラートに包みつつも文崇にぶつけた。 未だ、京子や孝の中で文崇が律を虐待しているのでは、という説は消えてはいない。 しかし、あまりの威圧感の無さにこの人が律を殴っていたり暴言を吐いていたりするのは想像が出来なかった。だから京子は失礼を承知で自分の中の彼への疑いを晴らす為に訊くことにしたのだ。 「……はい、私もそう思います」 文崇は僅かに体が震えるのを感じる。恐らく責められているのだろう。もしかしたら自分が律を虐待していると思われているのかもしれない。律の通う高校の担任にも何度も疑われたので雰囲気で分かる。 「赤の他人の私が言えた事ではありませんが、律くんは常に寂しさを感じているような気がします。私達大人に心を開けず、苦しんでいる、そのように見受けられますが」 「京子」 妻の強い口調を、孝が窘めた。なんだ、この空気。寛貴はてっきり、これからもうちの律をよろしく、ぐらいの話で終わると思っていたのに、すげぇ重い。律の父親も、俯いてしまった。けれど再び顔を上げ、京子達を真剣に見つめた。 「……少し、私と律の話を聞いていただけますか」 少し、息が震えていた気がする。けれど、姿勢を伸ばし真っ直ぐに京子達を見つめる文崇は、紛れもなく、息子を守る一人の父親だった。京子達は静かに頷く。文崇は、息を吸い、口を開いた。 「もしかしたら、律から何か聞いているかもしれませんが……。妻は律が七つの時に病で死にました。それからずっと、私は律と二人で過ごしてきました」 京子達は特に驚いた顔はしなかった。 「妻が亡くなり絶望していた私を勇気づけてくれたのは、いつも律の存在でした。平凡に、楽しく過ごしていました。律も人懐っこく、友達も多くて、いつもニコニコ笑ってる、やんちゃな子でした」 昔の律を語る、文崇の表情は柔らかく、愛おしい者を想う顔だった。 人懐っこく、友達も多くて、いつもニコニコ、だなんて今の律さんと正反対だな。 俺から見た律さんは、人に怯え、常に相手の顔色を伺っているような、……俺がいちばん、嫌いな人間。少しだけ真の気持ちが分かるんだ。 そんな人間にナヨナヨと入れ込む、兄を、情けないと思った。 「しかし、律が小学三年生の夏、ある事件に巻き込まれ、それから私達の生活は全て狂いました」 憎しみに満ちた、文崇の表情に、ゾワッと鳥肌が立つ。 「……ある、事件?」 静かなリビングに響く母の声。文崇は、ゆるく顔を横に振った。 「……申し訳ありません。……あまり、口に出したくないので……、その事については、今は……すみません……」 肩を震わせる宮村さんが、何だか不憫で気の毒に思える。かと言って、同情するような相手ではないので寛貴は平然と三つ目のケーキに手をつけた。孝と京子は顔を合わせ、困惑した表情になる。そりゃそうだろう。初対面の大人が急に真っ青になって震え出したら、誰だって困惑する。しかし父は、再び顔を引きしめて震える彼の肩に手を置いた。 「いえ、話せない事は話さなくて構わないんです」 父の言葉が、彼を溶かしていくような感覚を覚えた。 「……それより、宮村さん。顔色が悪いですが、無理なさっていませんか?何も今全て語れだなんて言いませんし、仰りたくないことはずっと、そのままで良いんですよ」 孝が文崇を気遣い、優しく声をかける。父さんは誰にでも等しく優しい。昔から誰に対しても、どんな人に対しても思いやりのある人だった。そんな父の言葉に文崇は、ぎゅっと手を握り「いえ、……律のために、聞いて欲しいんです」と声を震わせた。 「……分かりました。寛貴、温かいものを」 えー、ケーキ食ってんのに。じろり、と見ると、普段柔和な父はいつになく真剣に見てくるので、居心地悪く素直に「へーい」と答えた。台所に行き、お湯を沸かすところから始める。 「……その事件の後、律は全てのことに怯えるようになりました。特に、大人には強く拒否反応を起こすようになりました」 事件の内容が分からないから、何故『大人』なのか気になってしまう。でもそれは、プライバシーだもんな。 「……そして、私にも拒否反応を示すようになりました」 お湯を沸かす音と、自分が陶器をカチャリと置く音、その中で彼の切ない声が静かに落ちていった。 「……実の、父親にも……ですか?」 京子の声に、文崇は切なげに笑った。 「……はい。拒否反応は様々で、事件が起きた直後は所謂パニック症状が出てしまい、学校に通えなくなりました。家に引きこもるうちに同年代の友達さえ恐怖の対象になっていき、私の姿でさえ、律はパニックを起こしました」 淡々と、悲しさを紛らわすように微笑みを浮かべる。 「私の顔を見ただけでパニックを起こしてしまう律の元へは帰りたくても帰れず、私にも妻にも親戚も親も居なかった為、頼ることも出来ず、結果顔を合わせずに律が寝た後に家に帰り家の事をして律が起きた時には全て終わらせてある、そんな生活を続けていました」 昼間は仕事をして、終わった後も息子のために寝ずに面倒を見る。 ……俺には出来ねぇな、そんな面倒なこと。 沸いたお湯をティーポットに注ぐと、紅茶の葉の香りが鼻腔に広がった。 「……けれどその生活にもガタが来て、律の症状が落ち着きを取り戻した頃に地元から離れ、ここに越してきました。そして、律は顔を隠せば笑うようになってくれました」 切なくも、嬉しそうに笑う文崇を、京子達はなんとも言えない表情で見つめている。寛貴は三人分のティーカップに注ぎお盆に乗せた。 「……そんな、律に友達が出来て、……本当に嬉しいんです。陽貴くんにも、ご両親にも、本当に感謝しております……本当に、ありがとうございます」 深々と頭を下げた彼に、京子達も焦って、「頭を上げて!」とワタワタしていた。 「そ、そんな。律くんはとてもいい子で陽貴の心の支えでもあるんです。こちらこそ、感謝しておりますのよ」 京子の言葉に、言葉をつまらす文崇。寛貴はそのタイミングで紅茶を持って行く。 「……どぞ」 短く声をかけ、彼の前に置くとハッと見上げてふにゃり、と笑った。 「ありがとう、寛貴くん」 「……」 ほんわか笑った文崇の表情に驚き、慌てて目を逸らした。乱雑に両親に紅茶を渡し、慌ててケーキの元へ戻る。 なんだ?あの笑顔……腹立つ……。何だか知らないけれど、笑顔が頭に張り付いて離れない。嫌いな……というか興味のない律さんに似てるから、ウザッてなっただけか。……興味が無いのに感情なんて持つか……?分かんねぇな。寛貴は考えるのをやめ胸の鼓動を無視して、ケーキの甘さを堪能する。 「……けれど、どうして自分の父親まで恐怖の対象に?」 孝の言葉に、文崇は押し黙り……そして、儚く、笑みを浮かべた。 「……だって、この顔が、律を苦しめたんです」

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