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第13話
京子達は文崇の言葉に、「え?」と混乱した顔をした。
「……けれど今、律を苦しめた人物がまた律を襲うかもしれなくなって、私は急遽律の元へ戻ってきました。なので、ここからがお願いしたい内容なのですが……」
文崇の台詞に、京子達もそれ以上は聞けず渋々といった様子で「はい」と返事をしていた。
「……この先、私が律を守れる存在になれる事はきっと無いんです。けれど私は律の親として、どんな事をしてでも守ります。それと同時に……私たちが居なくなる以外、律の本当の平穏と幸せは来ません」
「宮村さん……?何を仰ろうとしているのですか?」
焦った孝の声が、会話が嫌でも聞こえてしまう寛貴の不安を駆り立てる。
……本当に、何を言おうとしているんだ、この人は。バクバクと心臓が鳴る。他人の事なのにこんなにも、……不安だと思ってしまう。律さんは今、自分の父親がこんな顔をしているだなんて知らないだろう。……知らないままで、良いのだろうか。
「大丈夫です。私は律が成人するまでは駆けつけられる所にはおりますから」
京子達を安心させるためなのか、にっこり笑う文崇。
「いや……」
孝も何か言おうと口を開いたけれど、言葉は出ていなかった。
「だからこの先律に何かあった時、律の味方をしてくれる大人になってくださいませんでしょうか」
どうして自分には出来ない、と言うのだ。細かい事情が分からないから、口出しもできない。
きっと父さんも母さんもそんな状況なのだろうな。普通ならいきなり現れた他人からのお願いなんて、「はあ?」と一蹴して終わりだろう。普通の人なら。
「……分かりました。私達でよろしければいついかなる時も律くんの味方です」
孝の意思の強い言葉に、文崇はこれまでに無いくらいぱあっと顔を明るくして、「ありがとうございます……‼」と頭を下げた。
「けど宮村さん」
ぴしり、と孝が文崇の名を呼ぶ。孝は立ち上がり、座る文崇の横に行きしゃがんで目線を低くした。
「私たちは同時に、宮村さんの味方でもあります。過去に何があったか私達には分からないけれど、律くんが苦しんだのと同時に、アナタも苦しかったのでしょう?」
孝の低く優しい声が、驚いた彼の瞳から涙を零させるのだろうか。文崇は静かにぽろぽろと涙を零す。……そうか、そう言えば親戚も居なかったって言っていたな。
「ずっと一人で、頑張ってきたんですね宮村さん」
甘やかすような、労る言葉が一層文崇の涙を誘発する。相変わらず、他人に甘いな父さんは。
「……っ、すみません……すぐ、とめます……っ」
顔を手で覆い、体を震わせて必死に呼吸をする文崇が痛々しくて、むず痒くて寛貴は思わず立ち上がった。文崇の元へ行き、「寛貴?」と驚く京子を無視して、コトンと皿を置いた。
「……ひろき、くん……?」
グズグズに泣いている文崇を見下ろし、言った。
「……親父達は、味方になるだけ。だから、アンタが律さんから離れるための材料としてなんか、使ったりするなよ」
目を丸くした文崇は、一層顔を歪めて泣いてしまった。……あれ、泣かせるつもりじゃなかったんだけど。
「お前、イケメンになったなぁ寛貴」
ニヤリと笑う孝にイラッとして「これ!」と強く文崇に押し付けた。
「食べたかったんでしょ」
いちごのタルトと、ミルクレープ、ショートケーキの一口サイズをそれぞれ乗せた皿を見て、文崇はぽろぽろ涙を零しながらまた、俺を見上げて言ってくれた。
「ありがとう、寛貴くん。嬉しい」
……もっと笑えばいいのに。
まさか、愛しの想い人が休日にアポ無しで来てくれるなんて思わなかった。今隣でもぐもぐケーキを食べている律に愛おしさを感じながら、由伊は寛貴に心の中でお礼をした。後で欲しがっていた靴でも買ってやろう。そう決めながら由伊は律に話しかける。
「ねえ律くん」
口の端にクリームを付けつつ、キョトンとした顔で「うん?」と言う。やだ何それ可愛い。まるで幼児のようだ。笑いながらティッシュで拭ってやると、恥ずかしかったのか少し耳を赤くした。
「……お父さん帰ってきてよかったね」
にっこり笑ってあげると、頬を染めて嬉しそうに笑った。まさか、温泉旅行の時に見たストーカーが彼の父親だったなんて……。父親なら何故尚更、息子である律に声をかけなかったのだろうか。たまたま行き場所が被ったから……というわけではないのだろうな。楽しみな時間を壊さないように、とかなのだろうか……というか、サングラスとマスクはデフォルメなんだな。あの時だけ怪しい格好をしていた訳では無さそうだ。
「律くんのお父さんってシャイなの?」
由伊が何の気なしにそう聞くと、律はびく、と僅かに体を揺らしケーキを食べるのを止めてしまった。何か悪い事を聞いてしまったのかと即座に後悔し、由伊は「あ、ごめんね、失礼なこと言って……」とフォローする。触れてはいけない事の一つだったのだろうか。
なんて言って話題を変えようかと考えていると、律はぽそりと呟いた。
「……父さんのアレは……俺のせいだから……」
「……律くん?」
律の言葉の真意を図ろうと彼の名を呼ぶと、律はハッとして「ケーキ美味しいよ」と誤魔化した。律は誤魔化した。なんでも素直に言っちゃう彼が、自分に、誤魔化した。
そんなに言いたくない事なのだろうか。無理矢理聞こうとは思わないけれど、少し気にはなる。元々、律の人への不信感だとか大人が苦手な事とか暗い所に嫌悪感を示す所とか、何かあったとしか思えない姿を見ていて、由伊は知りたいと思っていた。けれど、律が話そうとしない……ましてや誤魔化すってことは聞かれたくないからだ。そんなのを、追求した所で律を苦しめるだけ。……なら、聞かないままの方が、知らないままの方がいいのだろうか。
……彼の為に、気付かないふりをし続けるべきなんだろうか。
頬を膨らませて食べている律の横顔を見て、由伊は結局同じことを思うのだ。
「律くん、大好きだよ」
「なっ!知ってるよ!」
ボボボッと顔を赤くしてぷいっと顔を逸らされた。律くんの全てが欲しい。律くんの全てを理解したい。……でもさ、律くんが全部いいよ、って言ってくれないと今の俺は、何も出来ない。
律の為に変わるって決めた今の自分には、線引きが分からない。踏み込んで解決するのか、踏み込んだら壊れるのか、分からなくて、怖いと思った。
話し合いの後、泣く文崇を孝が抱き締めて宥め、京子がハンカチを持って来て拭いてあげ、子供をあやすみたいに二人でせっせと文崇を甘やかしていた。なんだかこの姿、律さんがうちに来た時みたいなデジャブ……。宮村家はこういう特性でもあるのだろうか……。かく言う俺も、甘やかした一人だけど。四箱あったケーキを全て食べ終わり、紅茶を啜る。漸く落ち着いた文崇は申し訳なさそうに「すみません、ありがとうございました」と言った。
「いいのよ、むしろそう言って頂けてこちらも遠慮がなくなって助かりますわ」
京子はにっこり笑う。文崇は驚いたように「え?」と言った。
「実はこちらからも提案がありまして……」
京子は真剣な眼差しで文崇を見つめた。
「父さん、そろそろお野菜ダメになっちゃうから……」
ぴょこっと律が階段から顔を出した頃には文崇達は談笑に変わっていた。寛貴は、リビングのソファに寝転んで携帯をいじる。
「あれ?父さんなんか鼻声じゃない?風邪引いたの?」
泣き過ぎた文崇は目が真っ赤だったけれど、サングラスとマスクをしたのでそれは隠れていた。
けれど声はごまかせず、アワアワしていた。
「ちょっと換気するのに窓開けたからかしらね?ごめんなさいね、宮村さん」
京子の演技力はたまに怖い、と孝が言う理由が分かるくらい、息をするように嘘をついていた。
「あ、いえ、こちらこそ長居してしまいすみませんでした」
ぺこり、と頭を下げる文崇。
「じゃあ帰ろうか、律」
もう顔が見えないのが何だかつまらず、寛貴はこのまま寝てしまおうかと欠伸をすると、視界にグラサンマスクが映る。
「……さっきは、ありがとう」
覗きこまれ、コソッとお礼を言われて寛貴は咄嗟に顔を逸らして、「……別に」と返した。
何故か自分の心臓が、ドッドッとはやくなる。
このグラサンマスクの裏にはきっとあの時と同じ、ふにゃりと力が抜けたような笑みがあるのだろう。そう思うと、無性に剥ぎ取りたくなる。
「……あれ?寛貴くん、あのケーキ全部食べたの……?すごいね……⁈」
文崇の後ろからぴょこり、顔を出した律は目を丸くして驚く。
「ああ、寛貴は甘い物に目がないからね。馬鹿ほど食べるんだよ」
由伊の説明に寛貴がムッとすると、ぱあっと雰囲気が明るくなるグラサンマスクの文崇。
「そうなの寛貴くん⁈わ〜!僕もなんだよ〜!今度お会いできたら一緒にケーキバイキング行かないっ⁈律、量を食べられないから行ったことないんだあ〜!」
手をギュッと握り嬉しそうにそんな事を言う文崇。
律は自分の動悸に混乱し、焦り、「は、はあ……」と間の抜けた返事しか出来なかった。
「何言ってんの、父さんだってそんな食べないだろ」
呆れたように見る律に、文崇は「へへ」と照れくさそうに笑う。なんなんだこの人。さっきまで、一人の父親として両親に対峙していたからこんなに急に子どもっぽくされると、拍子抜けするというか、反応に困る。
「ほら、帰ろう。お夕飯作らなきゃ」
「そうだな、暗くなるし」
律に言われた文崇は、パッと寛貴の手を離し孝達と玄関へと歩いていった。誰もいなくなったリビングで一人、呆然と宙を仰ぐ。
「……なんなんだ、あの人」
考えることに疲れ、寛貴はヤケになって目を瞑った。
家に帰ってきた律たちは、手を洗いキッチンに立った。今日の夕飯を作ろうとスーパーの袋を漁っていたら、文崇も手伝いたい、と申し出てきたので二人で並んで作業しているのだが……。
「律〜?これ、お砂糖入れてもいいの?」
「えっ⁈違うよ!てかそれシナモンパウダーだよ‼」
「あれ?なみだでる……サングラスでみえない……っ」
「サングラスしているのに玉ねぎしみちゃうの⁈大丈夫⁈」
「律〜人参きりたくないよぉ〜うぇ〜人参の臭いするぅ〜」
「俺が切るから‼」
律はすっかり忘れていた。この人が仕事以外まるでダメだって事を……。
仕事が忙しくて、夜遅くなった時でも家事をしてくれてご飯も作ってくれていたけれど、洗濯物はシワシワでお風呂掃除もカビだらけで、フローリングも四角い部屋を丸く掃除機かけていて、料理も絶望的だったのを思い出す。それでも頑張ってやってくれていたのを知っていたから何も言わなかったけれど、誰からも指摘されないせいで未だにその音痴さが治っていないらしく、台所でビービー騒ぐ。
「……父さん、もう料理出来たからお皿出して運んで欲しいな」
ぐったりしつつも努めて優しく声をかけると、犬みたいに「うん!分かった!」と喜んで食器を出していた。そう言えば、母さんが生きていた頃もこうやって母さんに言われて喜んで尻尾振っていたなぁ。思い出して、くすり、と笑う。
「どしたの〜?律」
文崇にキョトンとされたので、「なんでもない」と返して料理を運んでもらった。
「さ、食べよ」
「いっただきまーす!」
元気に挨拶した文崇に吃驚する。
「ピーマンも人参もダイレクトなのに、元気だね」
あんなに嫌だ嫌だスーパーで駄々こねていたのに、何故か意気揚々と食べ始めている文崇に驚いて聞いてみる。すると、父はマスクだけ外してもぐもぐした後ににっこり笑った。
「えー?食材は嫌いだけど、律の手料理は大好きだもん〜美味しいー!」
食事中でもサングラスを外さないでいてくれる事、申し訳ないのと同時に、嬉しさと、悔しさを感じる。久しぶりの父さんとの食事なのだ。……泣いちゃ、ダメだろ。
「食べないの?律」
心配したように覗きこまれ、律はハッとして「た、たべる」と答えた。父と作った料理はとっても美味しい。ちなみに、ピーマンの肉詰めに塩ゆでした人参とブロッコリーを添えたものと、作り置きしておいた漬物とワカメと豆腐の味噌汁を作った。
「美味しいな、律」
「うん、……美味しいね」
ひとりじゃない食事はこんなにも味がある。一人だと面倒臭いのとつまらないのが相まって、いつも適当にしか食べない。むしろ食べない日だってある。けれど今日は何だかお腹が空くのだ。沢山食べたくなる。食べると体調崩すから程々に、だけど。
「あ、父さん。お風呂沸かしておいたから食べたら入っちゃっていいよ」
そう言うと、文崇はにっこり口角を上げて「律のお風呂だあ〜‼」と喜んでいた。
俺のお風呂っていうか……ただのお湯だけど。どんな些細な事でも喜んでくれる文崇に、微笑み「はいはい」と流して人参を食べた。お風呂から上がり二人でお茶を飲みながらソファに座ってダラダラとテレビを流し見する。見ているのは週に一回やるバラエティ番組。
アヒャヒャと笑う文崇を横目に律は平和だなあなんて思う。
「律みてみて、明日はああやってストッキング被ろう!」
「いや何のために?」
アホな事を楽しそうに言う父は、自分よりも心が少年だと思う。
無邪気で若い所が好きだ、と生前母が言っていのを思い出す。
「律、明日は何しようか」
明日も居てくれる、その事実がとてつもなく嬉しい。
「明日は……家でゆっくりしたい」
遠慮がちに言うと、文崇は「そうだね、そうしよう」と頷いてくれた。
「今日はもう寝るかい?疲れた?」
気遣ってくれる文崇に、「ううん」と否定する。
「疲れてないよ、大丈夫」
安心したように、「そうか」と言ってくれる。この時間がこれまでに無いくらい幸せに感じる。思ったより自分は寂しさを感じていたのだなと思い知った。けれど時が来れば、父はまた帰ってこなくなる。時々帰ってきたとしても、必ず律が寝静まってからなのだ。自分のせいで、そういう生活にさせてしまっている。そしてそれはこれからも、律が変わらない限り治ることは無い。
……変わりたい。
家族が狂ってしまう前の日常に戻りたい。父さんに、帰ってきて欲しい。父さんの顔が見たい。笑いかけて欲しい。
……母さんに会いたい。
家族みんなが、そして'あの人と一緒に遊んで、ご飯を食べ笑いあい、楽しかったあの日々に、戻りたい。……けれどそれは、酷く怖い。
「律?」
心配そうに覗きこまれ、律はにっこり笑った。
「面白いね、父さん」
息子の笑顔に安堵した文崇は、「そうだね」と声音を柔らかくした。
変わらなくちゃいけない。あと一年で高校を卒業する。あとその先二年で成人する。いわば、あと三年しか父さんといられる期間が無いのかもしれない。成人したら自立しなくてはいけない。いやもしかしたら、あと一年で自立するかもしれない。そうなったら、無邪気に父に甘えられなくなる。迷惑をかけたいわけじゃない。これまで沢山迷惑をかけて、傷つけてしまった。
恩返しがしたい。自分が子供でいられるうちに、成人する前に、成長した姿を見せてあげれば、父も安心して元の生活に戻ってくれるかもしれない。変わらなきゃ。唯一の家族である父の為に、今のままじゃ、ダメだ。
「父さん、クリスマスの日は……空いてる?」
ドキドキしつつ聞くと、文崇はちょっと待ってな、と言い残し鞄を漁る。何やら分厚い手帳を手にして、戻ってきてパラパラ捲り始めた。
「んーと、おっ丁度空いてるぞ!二十四の夜から二十五まで空いてる!」
二十六は一日、本社なんだが〜、と話していたが俺はそれが聞ければ充分だ。
「……じゃあさ、二十四の夜と二十五は絶対一緒に過ごして欲しい」
迷惑を承知で、見つめた。もしかしたら行きたい所があるかもしれない。分かっている、でも過ごしたい。
「もちろんだぞ!今年は必ず律と過ごすよ」
父はサングラスとマスクの下できっと、あの優しい笑顔で笑いかけてくれたのだろう。
そう思うと切なくて苦しい。自分たちはどうしてこんなに苦しまなくてはいけないのだろう。
必死に生きているはずなのに。……いや、父さんを苦しめているのは紛れもない俺だ。自分がしっかりしない限り、父はずっと自分のために頑張り続けてしまう。そういう人なのだ、父さんも母さんも。
「その日は、クリスマスパーティーしたい。いっぱい美味しいもの作る」
気恥ずかしくなりながらそう言うと、文崇はゆっくりと律に手を伸ばし、小さなわが子こ頭を撫でた。
「うん。すっごく楽しみだなぁ」
しみじみと呟やかれると一段と恥ずかしさが増してしまう。
「律はカナちゃんに似て、料理上手だもんなぁ」
声が弾んでいる。きっとニコニコなのだろう。
「……父さんは母さんのどこが好き?」
なんとなく聞きたくなってしまった。生前にはそんなこと聞けなかったし、聞くまでもなく全部が好きなのだろうと思っていた。けど具体的に、とかあるのかな。
「えー?難しいことを聞くなぁ。僕はカナちゃんの全部が好きだよ?」
想像していた答えが返ってきて、やっぱり、と笑ってしまう。
「なんで、聞きたかったの?」
律は逆に聞かれてしまい、少し固まった。
「……なんとなく、母さんは俺にとって母親だけど、父さんにとって恋人で、奥さんなんだって思ったら聞きたくなった」
二人の恋愛からはじまって自分が生まれた。そう考えると、文崇や母親であるカナが互いを恋愛として好きだと思った瞬間がなきゃ生まれていないことになる。運命はすごい。運命ひとつ……言ってしまえば、人の感情一つで自分という存在が生まれるか生まれないか変わっていたのだ。
「そうだなぁ。全部好きだけど強いて言えばカナちゃんは律と同じで物事を必死に考えるんだよ。他人のことも必死に考えて向き合う。人との繋がりを適当にしないんだ」
「……それは俺と一緒なの?」
自分にそんなひたむきなところがあっただろうか。
「一緒だよ。律も、昔から相手のことをすごく考えている。むしろ相手のことを優先にしてしまう傾向が強くて、悩みすぎたときなんかよく泣きながら熱を出していたじゃないか。僕らに話してくれればいいのに、解決するまで絶対教えてくれなかった」
「そうだっけ」
全然覚えていない。文崇はすねた表情をしつつも、どこか懐かしそうに笑っていた。
「そういう一生懸命な姿が強いて言えば一番健気で好きだなぁ」
文崇も、律も自然と過去形は使わなかった。カナが亡くなったあとも、「そういう人だった」なんて言いたくない、と心のどこかで思っていた。思い出の中でしか、もう母親は居ないけれど例え思い出の中だけだとしてもカナはまだ生きている。文崇や律やカナに関わった全ての人間が忘れない限り、カナの命はまだ此処にあるのだ。カナは……自分の母親は素晴らしい人である、と多くの人に知ってもらいたい。人に説明しなきゃいけないときは、怪訝な顔をされるので時々仕方なく使うときもあるけれど、律は過去にしたくなかった。何より、父さんの前で過去形にしたくない。だって父さんは今も、母さんに恋をしている。終わったこと、なんかではないのだ。
「さぁ、カナちゃんにおやすみを言って寝ようか。夜更かしすると怒られるぞ」
悪戯っ子の声音で律に言う。律は「はいはい」と適当に流し、立ち上がった。
「おやすみ、父さん、母さん」
「おやすみ、律。また明日な」
優しい父の声と重なって、母の鈴の音のような声が聞こえた気がした。
「……あー」
「マジ、ハル兄それ何回目?うっさいんだけど」
「二九六回目」
「数えてんのキモイ……」
俺の二百九十六回目らしい溜息を巡って真と寛貴が言い合いをしている。
「だって、律くんクリパ絶対来ると思ったのに……だから、パーティしようって提案したのに……」
「……珍しいと思った、ハル兄暇さえあれば誰かと遊ぶのに、クリスマス家にいるって聞いて」
真に呆れた顔をされるけど、俺は二九七回目の溜息を盛大に吐いた。
「はぁああぁ……」
「……何処がいいのあんな……あの人の……」
何かを言いかけた真を由伊が睨むと、真は気まずそうに目を逸らし、言い直した。
「うーん、良いところしか無いと思うけどそれは俺だけが知ってれば良いから、言わない」
「……うわぁ……益々キモイ」
蔑んだ目で見られるけど、どうでもいい。好きな人の好きな所なんて自分だけが知ってれば良くないか。もし万が一教えて、知ってしまった相手が俺も私もって群がっても面倒だ。ましてや、その中に彼の好みそうな人間が居たらどうする。抹殺だろ、マジで。
「そういう考えだから、あの人あんななんじゃないの?」
思春期で触れたら怪我するぜ、みたいな情緒の真が珍しく会話をしてくる。
「あんなってどういう事?」
首を傾げると、真は少し間を開けて言う。
「……だから、男のくせにナヨナヨしいっていうか頼りないっていうか、女みたいでキモイ」
「いくら妹でもそれ以上言ったら許さねぇぞ真」
キッと睨むと、真は罰が悪そうな顔をして、「……っほんと、今の兄貴マジで嫌い」と吐き捨てて自分の部屋に行ってしまった。ったく、思春期の女は何かにつけて文句言いやがるんだから……。
「……兄貴さぁ、昔はもっと違かったじゃん。なんでそんなになったの?……真もそれが言いてぇんだよ」
寛貴に言われて由伊は黙る。分かっている。自分が変わった事。それを周りが良しとしていない事。変わった事によって多くの人間が離れていった。褒めたのは両親だけ。ダチは誰も居ない。代わりに、良い顔して笑ってれば女が寄ってくるようになった。男だって話しかけてはくれるけど、本当の友達にはなってくれない。自分が欲して無かったっていうのも、あるけれど。
「良いんだよ、俺は。誰になんと言われようと昔の俺も、今の俺も、全部本物だから」
「…………水津(みづ)くんが会いたがってた」
「……」
寛貴の口から出た名前に、どくん、と胸が鳴る。けどこの鳴りは、決して良いものでは無い。
「……アイツもどうせ、離れるよ」
自分にだって、綺麗な思い出ばかりじゃない。だけれど今は、彼だけを見て綺麗なもので埋め尽くしたい。……たとえ、誰に邪魔されようとも
待ちに待ったクリスマスイブ。由伊からの誘いを断り、律は一人クリスマスパーティーの準備に取り掛かっていた。
「……よし、と」
流石にケーキ作りは出来なかったので、市販のものを文崇に頼んだ。下ごしらえは終わったのであとは夜に帰ってくる父を待つだけ。部屋もいつもよりも念入りに掃除をしたし、やる事が無くなってしまった。まだ昼間の十五時。
「……どうしよう」
ソファに腰をかけ、ごろっと横になる。ふわりと、ソファが受け止めてくれて、正直このまま眠れるなと思った。しかしせっかくのクリスマス。いつもは一人でクリスマスなんて意識して生活していないから、今日くらいはしっかり起きて一日を満喫したい。……俺、一人の時何したんだっけ。いつの間にかあっという間に由伊と居る時間が多くなって一人で過ごしていなかった。
「どうしよぉ……何したらいいんだぁ……」
そういえば、由伊の家で読んでいた漫画の最新刊、発売日だーって由伊が言っていた気がする。
「そうだ!本屋さんに行こう!」
名案を思いつき、律は立ち上がって上着を着て財布を持つ。
律は家を出て施錠した。一人でこんなにルンルン気分で外に出られるのは何年ぶりだろうか。これも全部由伊や皆のお陰だと断言出来る。外には楽しいものが沢山あると教えてくれた皆が居たから、今こうしてワクワクを胸に外を歩けている。ちょおーっと寒いかな。吐く息も白く、鼻も耳も寒い。耳あて持ってくるべきだったかなぁ……。まあいっか!……あ、お花屋さんがある。あれ、こんな所にあったっけ。普段外には出ないけど、この道は律が通学の時に通る道だ。店の並びや建物は何となく覚えている。しかし、そんなことは二の次でふわふわと花の甘い香りに誘われて、花屋さんに入った。色とりどりの花がいけられていて、冬に色鮮やかな花を見られるのは新鮮で楽しい。
「くりすます、ろーず……」
確かカナが冬の時期になると、この花をテーブルに飾ってくれてた気がする。母さんは、本当に花が好きだったよなぁ。律はキョロキョロと辺りを見回し、店員さんを探す。
「キミ、誰か探してるの?」
「へっ」
急に後ろから声をかけられて、ビクッと肩が跳ねてしまった。
「あはは、ごめんねぇ。キョロキョロしていたからつい声掛けちゃった。だぁれ?俺かな?」
振り向くと、緑色のエプロンをして穏やかな笑みを浮かべた綺麗な男性が立っていた。
「……あ、あの……花……」
あまりにも綺麗で目がチカチカする。手に持っている赤い薔薇の花束が、妙に似合う美麗な人。
「ああ、お花欲しいのか!どれ欲しいの?」
話し方も声も甘くて優しい。例えるならミルクのような甘さと柔らかさを感じる。
「……クリスマス、ローズが欲しいです」
恐る恐る口に出すと、店員はニコッと笑って「おーけー」と返事した。
「花束にするのかな?何色がいい?何本?」
「……は、はい……えっと、……じゃあ白と、ピンク……え、えと……」
ボソボソと話しても店員は仕事であるからか、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。
「あまり決まってない感じ?じゃあ俺がやっちゃっても平気?それともなんか希望ある?」
「……あ、いえ……部屋に飾るだけなので」
そう答えると店員は「りょーかいっ。ちょっとレジ前で待っていてね」と言って、クリスマスローズを手に取りカウンターの奥へ行った。周りの花も見ながら、律もレジに行く。数分と待たずに店員がクリスマスローズの花束を手にして戻ってきた。
「わぁ……」
「へへ、気に入ってくれた?」
深紅の包み紙に黄色いリボンをあしらわれて出て来た白とピンクのクリスマスローズはとても愛らしい。このまま父さんに見せたいぐらいだ。
「はい!とっても可愛いです……!」
そう頬を緩ませて言うと、店員はニッコリ笑う。
「君だって可愛いよ〜?可愛いから、お代は五百円でいーよ!」
「えっ⁈五百円?で、でも多分もっとしますよね?」
さっき店内を見た時、小さな花束やちょっとしたアレンジ花で五百円だったんだから、大きい物はもっとするはず。
「いいのいいの!俺がしたいようにしているし、君、俺の好みだからワンコインで」
そ、そんな事は有りなのだろうか……。
「俺からのクリスマスプレゼントだと思って、ね?」
さっき会ったばかりの店員にプレゼントを貰えるだなんて、贅沢過ぎる……しかも、こんな綺麗な人だ。他にもこの人から欲しいと思う人は沢山いるだろうに……。あっそれともこれが、この人の商売法なのだろうか。だとしたら早く受け取らないと迷惑だよな。律は財布を覗きワンコインを店員に渡した。
「本当に良いんですか?」
やっぱり不安で聞くと、コインを握る律の手をぎゅ、と優しく包み店員は言う。
「いーのいーの!特別サービスだからさ、楽しく過ごしなね、めりくり」
ぱちっとウィンクをされ、律は少し頬が熱くなる。様になるかっこいい人だ……。
「あー、ちょっと頬っぺた紅いねぇ〜かーわいいっ」
店員はニコニコ笑って、頭を撫でてくれる。
「……あ、あの……ありがとうございます……大切にします」
照れくさいけどそう言うと、店員は優しく目を細め「うん、大切にしてね」と微笑んだ。店員に手を振られ、お花屋さんを後にした。しかし、ここである事に気づいた。花束持って本屋とか、めちゃくちゃ目立つじゃん……!やってしまった‼本屋の後に来るべきだった‼
だが、買ってしまった物は仕方が無い。……花束持って歩くかぁ。気分はルンルンで、本屋に向かうのだった。
「ふわぁ〜‼つっかれたあ‼」
家に着き、ソファに体を沈める。買った花束もテーブルにとりあえず置く。歩きながら色んな人にチラチラ見られてちょっと恥ずかしかったけど、同時にクリスマスを楽しんでいる感じがして律は楽しかった。
時刻は十八時。家の中からカナが使っていた花瓶を探し、花をテーブルにいけた。
昔の記憶がほんの少し蘇る。律がまだ幼稚園生で、カナがクリスマスローズを飾る時がクリスマスの合図だった。テーブルにこの花が現れると、ドキドキして準備をするカナの後ろを着いて回った。夜には文崇がケーキを買って必ず定時で帰ってきてくれた。
「おかえりなさい!」って抱きつけばケーキをガードしつつちゃんと大きな腕で受け止めて抱っこしてくれた。カナが困ったように、けれどどこか嬉しそうにクスクス笑って文崇からケーキを受け取る。父と母は昔から仲がいいから、帰ってくると必ず父は母に触れていた。
そんな二人の間に居るのが嬉しくて、楽しくて、幸せで、触れられて幸せそうな母に律はいつも引っ付いて、幸せを分けてもらっていた。
「……母さん、俺、母さんみたいにお花、飾れているかな」
仏壇に手を合わせて、笑うカナの写真に語りかけた。きっと文崇と二人のデートの時に撮ったであろう母の満面の笑みの写真。快晴をバックに麦わら帽子を被っている儚くて、光にまじって消えてしまいそうだ。体が弱かった母は、寝ている時間や座っている時間が圧倒的に長かった。律はわんぱくだったけど、母と居る時間がとても好きだったので絵を描いたり本を読んだりして、母のそばに居た。文崇が遊んでくれる時は思い切り外で体を動かした記憶がある。
虫を捕まえて母親を驚かせてしまった時は、凄く反省した。
母は怒らずに、いつもニコニコ笑って頭を撫でたり抱きしめてくれたり、暖かい腕で抱っこしてくれた。
─……いつまでも、律らしく居てね。
鈴のような母さんの優しい声が、時々脳内に響く。俺らしく、ってなんだろう母さん。もうあの時の、母さんが可愛がってくれた俺は居なくなっちゃったよ。母さんの期待に答えられなかった。
……俺は、俺が分からないよ。
思い出は、素敵なものだけど、思い出すとやっぱり泣きたくなる。本当は、父さんと母さんとずっと一緒に暮らしたかった。出来る限り長く、笑い合いたかった。
幸せは、苦しい。
「……なぁんて、折角のクリスマスなんだし明るく明るく!」
写真の中で笑うカナに微笑み、ネガティブ思考を一掃する。きっともうすぐ文崇が帰ってくる。
「さて、料理をあっためよ」
キッチンへと向かい、お鍋に弱火で火をかける。ふと、袖を捲り出て来た自分の左腕が視界に入る。そっと、袖を戻した。
「……今日だけは、忘れよう」
今日だけは何もかも忘れたい。悲しい事も全て。ガチャリと玄関の扉の開く音がした。
「……!父さん?」
パタパタとスリッパの音を立てて玄関へ駆けつける。
「おー!律!ただいまぁ〜!ケーキ買ってきたぞ!」
父は相変わらず、サングラスにマスクだ。それでも、文崇があの時と同じ笑顔で帰ってきた事が分かるから、律は嬉しくて思わず抱き着く。
「おかえりなさい!」
「ただいま、律」
ぎゅうっと抱きしめてくれる優しさと強さは、あの頃と変わらない。心強くなる。
「ちょうど料理あっためてるから、先にお風呂入る?」
文崇から離れ、ケーキを受け取った。
「うん、じゃあそうしようかな」
外寒かったのだろうか。耳が赤くなっている。文崇は律の頭を撫でてお風呂場へと向かって行った。ケーキを冷蔵庫にしまい、料理を盛り付ける。この日のために、ネットでちょっと調べたのだ。可愛い盛り付け方、みたいなやつ。でもどれも難易度が高くて、難しかった。
なので簡単なものしか出来なかったけれど、可愛い物が好きな父なら喜んでくれると思う。
シャワーの浴びる音が聞こえ、人が居る空気が何とも暖かくて自然と鼻歌がこぼれる。
温まった料理を器に入れ、バゲットを用意してテーブルに運ぶ。真ん中に花がくるように料理を置いていく。段々、カナが昔、律たちにしたようなクリスマスの日と同じく近づいてきた。
最後にオレンジジュースと父用のサイダーを用意して完成だ。
「おー!凄いな律‼これカナちゃんのクリスマスと同じじゃないか!」
お風呂から上がった文崇は髪を拭きながらキラキラ、テーブルを見た。相変わらずサングラスとマスクだけど。
「……たまたま街でこの花見つけて、母さんがしてくれたようにやりたくなったんだ」
そう言うと、文崇はふわりと柔らかい雰囲気になり「そうだなぁ」と呟いた。
「まるでカナちゃんが傍に居るみたいだなぁ」
噛み締めるように呟いた文崇の声に、律の胸がぎゅうと苦しくなる。母さんだったらもっと上手に綺麗に作れたはず。母さんだったら、もっと父さんが明るくなったはず。そう思うと、寂しくなる。
「でも、僕には律がいるから楽しいな」
優しい声が律に話しかけてくれる。
「カナちゃ……母さんと律は僕の大切な宝だから。今年は律と過ごせて父さんは今すーっごく幸せだよ。律、ありがとう」
「……………うん、俺も」
大切な、宝、かぁ。心がじんわりと熱くなった。
「さ、食べようか!乾杯しよう!」
「うん!」
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