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第14話

席に着いて、グラスに注いだオレンジジュースとサイダーで、二人でカツンっと乾杯をした。 「わぁ、クリームシチュー美味しい〜!バゲット最高!律、料理上手だねぇ〜」 今はマスクを外しているから、口元が見える。ニコニコしてくれて嬉しい。 「うん、今日は色々工夫してみたんだ」 「嬉しいなぁ、幸せだなぁ〜。ん?あれ?これうさちゃん?あ!こっちはくまさんだ!かわいい〜!」 やっぱり父さんなら気づいてくれると思った。人参を色んな形に切ってみた。それから、サラダにも星の形のキュウリを散りばめた。文崇は終始「かわいい〜!」と言いながら全部食べてくれた。おかわりもしようとしてくれたけど、父は食があまり太くないので、「ケーキ食べられなくなるよ」と言うと、しゅんとしたけど「ケーキたべたい……」と呟くのでおかわりは明日にする事にしたらしい。二人で夕飯を食べ終わり、少し落ち着いたあとケーキを準備する。 無難なショートケーキに、それぞれサンタさんの砂糖菓子が乗っている。二人で目をキラキラさせて「いただきまーす!」と掛け声をして食べた。 「美味しいなぁ」 「うん、美味しい」 なんでもない会話が嬉しい。ケーキがいつも以上に、甘くとろける気がする。 「なぁ、律」 二人でああでもないこうでもないとケーキを食べ進めていると、残り苺一個になった時、文崇が話しかけてきた。 「うん?」 苺を一口でぱくっと食べつつ文崇を見る。既に食べ終えていた文崇が暖かい紅茶を淹れた。噛む度に苺の果汁が、じゅわあと口の中隅々まで広がって苺の香りでいっぱいになる。文崇が淹れたアールグレイの仄かな苦味と芳ばしさで口内や胃が落ち着いた。 「律に話したいことがあるんだけど」 文崇はマグカップを両手で包み、真剣な声音でそう言った。律も、カップをソーサーに置き父のサングラスの奥の瞳を見つめ返す。文崇はマグカップを、手の色が白くなる程強く力を込めて握っている。そして、すぅ、と深呼吸をしてゆっくりと告げた。 「父さんと暮らすのは、今年で最後にしようか」 「……………え?」 突然の言葉に頭が回らなかった。やっとの思いで絞り出した声は、喉に張り付いて変な声になってしまった。どうすればいいか分からず文崇を見つめる。 父さんと暮らすのは今年で最後?なんで?俺、なにかした? サァッと血の気が引く。バクバクと心臓が鳴る。落ち着け、落ち着け、俺がワガママ言える立場じゃない……少しでも、幸せだと思った罰なのだろうか。 「律、落ち着いて父さんの話を聞いて欲しい」 文崇の声が律の鼓膜を嫌でも揺らす。けれどもう、何も聞きたくない。 「律、父さんはね」 「……分かった」 「……え?」 律はいつの間にか俯いていた顔を上げ、ニッコリと笑みを作った。 「分かったよ、父さん。今までごめんね」 大丈夫。泣いてない、泣かずに言えた。声も震えていない、不思議と体も震えていない。決められた台詞を、……いつか言うだろうと思っていた台詞を言えた。……言えて、よかったのだろうか。 「律、待って。勘違いしてると思う、僕の話を聞いて」 文崇は慌てて律の手を握ってくる。息子が何かを勘違いしている、文崇は焦った。息子の手も自分の手も風呂に入ったはずなのに、冷たくて汗ばんでいた。 「……勘違いじゃないよ。……俺が、父さんの負担だったのは理解してた。俺が居なければ母さんだって病気が悪化したりして死ななかったかもしれないし、あんな事件も起こらなかったかもしれない」 「律」 「父さんも窮屈な思いをしなくてすんだのに」 「律」 心が黒く染まる気がした。じわじわと、墨汁が白い布に染みていくように決して落ちない黒が俺の体をじわじわと侵食していく。 「……擦っても消えない汚れは、どうしようも無い」 「律、お願い聞いて」 泣きそうな焦る父さんの声。そんな、泣きたいのは俺だ。 ……いや、父さんの方か。俺は泣くのも赦されない。我慢させたのは俺だ。 「俺は、大丈夫」 笑えばいいんだ。俺が笑えば、父さんは安心できる。安心して、俺から離れていってほしい。 でも俺は、離れたくない。今この時間が幸せだったのは、父さんが居たからだ。今日一人じゃなかったのは、父さんが居たからだ。帰ってきてくれて嬉しかった。でもそれさえも苦痛と思わせていたなんて。どうお詫びすればいいか分からない。ついに捨てられる。いつかは、と思っていた。今日なのか。……クリスマスぐらい、楽しく過ごしたかった。 「……ごめん」 これ以上、文崇の前に居られる自信が無く律は立ち上がった。けれど、急にふわりと柔らかい石鹸の香りと暖かさに包まれて俺はビックリする。 「ごめん律。僕の言い方が悪かったよね、ごめん。ごめんな……っ」 文崇は息子の冷えた体を抱きしめながら謝って泣いた。なんで泣くの?なんで謝るの? 俺が悪いのに。 「……父さんは、律と一緒に居たい……っ」 鼻声で、震えながら話す文崇に律は目を丸くする。 「お前を負担だとか苦痛だとか思った事は過去に一度も無い!居てくれてよかった、産まれてきてくれて嬉しい、大好き、律は僕達の希望なんだよ」 言われる価値なんて無いのに、相変わらず優しい人だ。 「……父さん、」 「本当はこの話は今日のような特別な日じゃない時が良かった。……でも、時間が無くて、ごめん。……離れようと言ったのは、律に必要なのが僕じゃないと思ったからだよ」 「……え、どういう事?」 時間が無い?なんで?律は分からず首を傾げる。文崇は、ゆっくりと律から体を離して顔を覗き込む。 「僕が律のトラウマである以上、律の幸せの手伝いは出来ない」 「……っ‼」 ちがう、それはちがう。父さんは俺のトラウマなんかじゃない‼否定したいのに、言葉が出てこない。 「……大丈夫だよ。律が誰と居れば幸せか、父さん分かってるから」 話が進んでしまう。ちがう、俺は父さんといて幸せなんだ。なのに、なのに……なんで、言葉が吐き出せない。 「由伊くん、だよな?」 由伊……? 「由伊くんと居る律は本当に幸せそうだった。あんなに幸せそうな顔、カナちゃんと住んでいた時以来初めて見たよ」 確かに由伊居るのは幸せだ。けどそれはまた別の幸せじゃないのか?友達と過ごす時間の価値と、家族と過ごす時間の価値は、まるで違う。一緒じゃなきゃ、いけないの? 「僕はもう律にそんな顔はさせてあげられない。自分の顔も満足に見せられないしね」 はは、と笑ってみせる文崇。笑わないで、そんなの笑うことじゃない。違うのに、違うと叫びたいのに、声が全く出てこない。バクバクと激しくなる心臓ばかりが、聞こえてくる。 「由伊さん家にはもう頼んであるんだ。むしろ、由伊さんのご両親がこの話をしてくださったんだ」 ……何を、言おうとしているの。 体の内側から心臓が激しく鳴り響く。まるで警鐘のように、けたたましく鳴る。息が浅くなる。 「……来年から、由伊さんの家に住みなさい」 有無を言わさない口調は、父らしくない。 「な、んで……」 一緒に住みたいって言葉は嘘なの?なんで由伊の家に行かなきゃいけないの? 訳が分からない。どうすればいいか分からない。何が、正解なの? 「……ごめん、わかんない」 やっと、絞り出した言葉はぽろりと落ちるように呟かれた。 分かんない、分かんないよ。全然わかんない。今まで迷惑だと思っていたくせに、なんで優しくしたの?なんで一緒にいたいっていうの?なんで俺の存在価値を認めてくれていたの?それは全部、嘘だったの? 「俺の事が嫌いなら殴って」 「……え、律?」 戸惑う文崇の声に、自分だってどうしたらいいか分からない。頭の中がグルグルして、吐きそうだ。胸と頭がずっと痛い。 「一緒に暮らしたくないのは、嫌いだからでしょ。なら中途半端に優しくしないで、父親面しないで」 嫌だ、違う‼こんな事が言いたいんじゃない‼なんで?どうしてって聞きたいだけなのに、なんで、 「殴ってよ」 心はこんなに、冷めきっているのだろう。唖然とする文崇が視界にうつる。そんな父を見て、律は鼻で笑う。 「なんで殴れないの?嫌いなんでしょ?要らないなら何したっていいじゃん。泣かないし喚かないから大丈夫だよ」 ぼろぼろと、言いたくない言葉が口から落ちていく。言ってはいけないのに、言ってしまう。 「り、つ……」 震える文崇の声にズキンと胸が痛む。俺は痛むのに。きっと父さんは痛まないんだな。俺の事、必要ないんだから。一緒に居たいとか言っておいて、結局要らないんだ。俺に反論されると思ってなくてなんて言ったらいいかわかんないんだな。……俺は父さんの事、要らなくなんかないのに。 「……いいよ、出てく。……酷いこと言ってごめんね。今までありがとう。さようなら」 「……っあ、ま、まって……り、つ……っ」 弱々しい文崇の声に、律は返さず家を飛び出した。 上着も財布も携帯も持たずに出てきてしまった。部屋の中は暖房が効いていたから、薄着でだいぶ寒い。 「……要らないって言われちゃった。どうしようかな」 さっきまであんなにもバクバク鳴っていた心臓が、今は落ち着いている。不思議な事に、冷たい風に当たった瞬間混乱もマシになった。今は何故か、さらりと現実を受け止めている。要らないならば仕方が無い。でも、血の繋がった実の親に要らないと言われてしまったら、それは本当にこの世に要らないという事だよな。 「……なるほど」 息が白い。昼間も思ったなぁ、なんて思い出す。 クリスマスローズを買った花屋も今はシャッターが閉まっている。夜の街は明るいけど、今は明るくなれない。暗いところに行きたいな。 そうだ、海に行こう。どうせやる事も行く所も無い。最期に、由伊達と行ったあの海でも見に行こう。 律の足取りは、やけに軽かった。 夕食後家族みんなで、ケーキを食べていた。 ホールで買うけれど、甘い物がそれ程好きではないらしい由伊の家族は小さく切り分けて残りを全部寛貴に与えていた。クリスマスの楽しみは今やケーキだけ、と宣う寛貴は目を輝かせてケーキを頬張っている。寛貴が切らずにホールのままフォークで抉って食べていると、家の電話が鳴った。京子が「はーい」って返事をしながらパタパタと子機を取る。 「はい、もしもし由伊です。……え、宮村さん?あらこんばんは」 京子がにこやかになる宮村さん、の単語にぴこん、と反応した由伊は慌てて誤魔化すようにケーキを放り込む。 律くんのお父さん、どうしたのだろうか。 「……どうし……えっ?はい、はい……分かりました。私たちもお探しします。場所の検討は?……はい、そうですか。分かりました、では取り敢えず宮村さんのお宅に伺いますのでそこに居てください。一人にならないでくださいね」 母親の真剣な声と意味深なセリフに、家族の全員がしんと静まり返っていた。孝は難しい表情をして京子を見つめ、由伊も同様にじっと京子の動向を見守っている。今回は真も戸惑った顔で母を見ていた。電話を終えた京子は、孝と由伊だけを呼び出して別室へ行った。 暫くして戻ってきた京子は、難しい顔をして寛貴と真に告げる。 「母さん達、今から律くん探してくるから二人はここに居て頂戴」 ……何だよそれ。俺らにはなんも言ってくんねぇの。 「……理由もなしにそれは無いんじゃないの」 怒りを抑えたような真の声に、京子もハッとして言葉を加えた。 「そうよね、ごめんなさい。律くんが家を出て行ってしまったらしいの。その原因が原因だし、宮村さ……律くんのお父さんが凄く混乱してらしてパニックになっているから、母さん達が力になりたいの。だから─……」 「今日はクリスマスだよ」 ぴしり、と言い放った真の言葉に京子が押し黙る。 「こんな事言いたか無いけど、あたしはクリスマスを毎年家族で過ごせるの楽しみにしてた。今年だって楽しみだった。なのに、こんな時でも赤の他人に振り回されるの」 真のセリフに京子の目が厳しくなる。 「さっきまで楽しかった。珍しくハル兄が居てくれたのも……嬉しかった。なのにまた、アイツに邪魔されるの……⁈」 泣くのを我慢するような真の表情に、皆が何も言えなくなる。その時、由伊がすっと前に出て真の前に立った。 「ごめん」 バッと頭を深く下げる兄に、寛貴も真も唖然とする。いつも、凛としていてかっこいい兄貴が自分たちに頭を下げている。 「ごめんな、二人とも。俺らのワガママなのは分かってる。二人を振り回してるつもりは無かった。でも傷つけていたんだな、ごめん」 「な、……」 真も言葉が出なくなってしまい、呆然としていた。 「でも、律くんは俺の大切な人なんだ。律くんが死んだら、俺は一生自分を責めるし、後を追うと思う。俺が先に死ぬのはいい。だけど、律くんが死んだ事実を理解しながら一秒でも生きるのは嫌なんだ。自己満でも、俺は今探しに行かせて欲しい」 真っ直ぐな兄の言葉は、真を黙らせるには充分だった。家族の重い空気に寛貴は「はぁ」とため息を吐く。 「なら、俺らにも探させてよ。置いてくのは違ぇんじゃねぇの」 そう声をかけると、兄はパッと表情を明るくして、「いいのか……⁈」と泣きそうになっていた。 ……結局、いっぱいいっぱいなんじゃねぇか。 親父も母さんも、真も、兄貴も、……きっと、宮村さんも、律さんも。皆必死なんだ。なら俺だって必死になる。 「よし、行こう」 父さんの声に皆が頷いた。真も一番後に着いてきた。こんなんでも尊敬している兄貴の、力になりたくて。 車を走らせ、数十分。 宮村家にお邪魔して、皆で話を聞いた。寛貴はこの間聞いたが、由伊と真は初耳だから凄く動揺していた。文崇は酷く泣いて、呼吸も荒く何度か過呼吸になりかけていた。震える体は止まらず、ずっと孝に身を寄せて泣いている。 「大丈夫です、落ち着いてください。私達も一緒に探します。必ず律くんを見つけます、だから顔を上げてください」 「……っ、すみませ、……っ、ひぐっ……」 ぽろぽろと泣き続ける文崇が痛々しく弱々しいテーブルの上を見ると、花が飾ってあって、クリスマスの食事をした後が残っている。 「……律くんのお父さん。俺、探してきます。必ず連れて帰るので待っていてください」 由伊は立ち上がり、そう告げた。 「探すってアテはあるのか陽貴」 孝の言葉に兄は首を横に振る。 「無いよ、でも探すしかねぇだろ。ここでグダグダやっていても時間の無駄」 「あたしも探すわ」 「待て、お前はここに……」 孝は流石に女である京子を心配する。 「あたしも行く」 真も立ち上がり京子の横に立った。 「流石に女性だけじゃ……」 「ならあたしはハル兄と行く。母さんは父さんと行きなよ」 真の言葉に兄は頷き、「行こう」と言って真を連れて家を出た。 「しかし、……」 父は文崇の事が心配らしく、自分は残るべきか考えているようだった。 「俺が宮村さんと居るよ」 「え……」 「そんな状態じゃ、まだ外にはいけないでしょ。落ち着くまでそばに居る。後で合流するよ」 打開策を口に出せば孝は渋々「……分かった」と頷いた。 「……ぁ、ぉ、おれ、だいじょぶ……いけ、る……」 一人称、俺、になってる……。 文崇はふらりと立ち上がったが、膝から力が抜けガクンッと倒れ込んでしまった。そんなか弱い彼を慌てて抱きとめ、ヒューヒューと息をする文崇を寛貴は抱き締めた。ガクガクと可哀想な程に震えている。 この人、今まで一人で律さんを育てたのが嘘みたいに儚い。息子を持つ親父なら、どんと構えてりゃいいのに。 「寛貴、頼んだぞ」 「ああ」 父は母と走って宮村家を出ていった。家の中には、寛貴と文崇の二人だけ。腕の中で文崇は必死に息をしている。 「ごめ、ごめんね……」 立ち上がろうと何度も起き上がる。寛貴は抱き方を変え、子供をあやすように抱いてぽんぽん、と背中を優しく撫でる。 「大丈夫ッスよ。今は皆が探してます。ここには俺が居るし、宮村さんを一人にもしません」 そう伝えると、文崇は寛貴の肩口に顔を埋めて「うんっ……ごめ……っ」と泣いた。 探しに行きたいけど、パニックの方が強いらしくて余計に混乱をしてしまっているようだ。 寛貴は落ち着くまで文崇を宥め続けた。絵面は完全に、今だけ寛貴の方が年上に見えてしまうだろうな。 「……律、ぼくの……伝え方が、下手だから……きずつけてしまったんだ……っ、ひどいことも、言わせてしまった……ッ」 ぎゅうっと、寛貴の背中にしがみつき、ズビズビ泣く文崇が哀れでこっちまで胸が苦しくなる。 唐突に言葉を話し始めた文崇に聞き耳を立てる。 「ひどいこと……?」 聞いていいのか躊躇ったが、聞いてしまった。こういう時、どうあやせばよいのか分からない。やっぱりここは親父が敵役だよな。文崇はこくり、と頷いてひぐひぐ泣く。 「……おれのこと、嫌いならなぐって、って……父親面すんなって……ッ」 うわぁ……ヘビー過ぎて、ちょっとかける言葉が見当たらない。でも、宮村さんといる時の律さんは凄くふにゃふにゃしていて幸せそうだった。きっと、宮村さんの事が大好きなんだろうな、って思っていた。そんな律さんが、そんな事を言ってしまうのはだいぶ追い詰められたからなのでは無いか。あのオドオドして人と関わるのが苦手な律さんが、そこまで本心をハッキリ伝えられないような気がする。想像だし、何となくのイメージだけど。 「宮村さんは、悪くないッス。悪いのは全部、事件の犯人なんじゃないスか?」 「……っ」 びくり、と体を震わせて文崇は一層力を込めて寛貴の服を握った。 やべ、まずったのだろうか。 「……僕たちの、話、……聞いてくれる?」 間違ったと思われた言葉の選択は、どうやら正しかったようだった。その証拠にたどたどしく、文崇は呟いた。 「勿論ッス」 間髪入れずそう返すと、文崇は安心したように体から少し力を抜いていた。倒れないように、今度は寛貴が文崇を抱き締める手に力を込めた。 「あの時話した……事件はね、……昔ニュースになったんだ」 ニュースに?そんな大事だったのか……。 「……もしかしたら、まだキミは赤ちゃんだったかもしれないけど、今でも検索したらウェブページに出てくる」 ぽそり、ぽそり、と紡いでくれる言葉を必死に拾う。力を込めているけれど、まだ足りない気がする。もっと込めないと、崩れ落ちそうで不安になる。 「……連続児童神隠し事件、なんて世間に騒がれた」 ……普通に怖ぇ。そんな事件をこれからこの人は語るのか?ただでさえ疲労困憊のくせに、話せるのか?思い出してまたパニックになるのではないか? 不安になり、止めようと口を開くと文崇は言葉を続けた。文崇も誰かに聞いて欲しかったのだ。 ずっと、カナが……最愛の妻が亡くなってから、誰にも話せなかったこの苦しさを、誰かにただ聞いてもらうだけでよかった。辛かったね、苦しかったね、もう大丈夫だよって、誰かに抱きしめてもらえればよかった。身寄りのない自分を励ましてくれる存在が欲しかった。 「……律が小三の時、この事件が当時住んでいた近所で起こったんだ。その時にはもう妻は居なくて、僕は昼間働いていたから、律はその間ずっとお隣の、老夫婦の家でお世話になってた……」 元々ここの人じゃないんだっけか。家に帰ったら調べてみよう。 「居なくなった児童は男女問わなかった。……そして必ず三日後には、居なくなったとされる場所で眠ったまま発見された。……目を覚ました子供達は大人に何を聞かれても喋る事は無かった。連れ去られた間、何があったのか何をされたのか、どんな奴が居たか、何にも話さなかったらしい。……まるで人形のように」 ゾクリと背筋が寒くなる。腕の中にこの人が居て良かったと思えるほどに、末端が冷えていく気がする。……俺は割と、この手の話は苦手なのだ。 「少しだけ他人事だと思ってた。……多分そんな俺にバチが当たったんだ。……ある日律も、誘拐された」 徐々に震え始め、息が荒くなる文崇。寛貴は大人の彼の背中を摩り、様子を伺う。 「……っ、律だけは、三日経っても帰ってこなくて、……っ、みんなにっ、……殺されたんだって……言われた……っ」 ひゅう、ひゅう、と荒くなる彼の呼吸。落ち着け、落ち着け、と心で唱える。彼の話を、途切れさせたくなかった。なんとなく、吐き出しているような気がした。 「探し続けたっ……ずっと、同じところも、……っ、しらないところもっ……、でも、いなくて……っ、」 ……ああもしかして、この人がここまでパニックになっているのは、その時の状況と今が酷似しているからなのか。そして更に、今回の状況を作り出したのが自分だから。 自分のせいで、律が……そう、思い込んでいるのだろうな。哀れで、脆い大人。 「……ひゅ、……七日目の朝、……っ、いなくなったとき、あそんでいた公園のベンチに……ねむっているのがはっけんされた……っ」 ひゅ、ひゅ、と一層強くなっている。 寛貴は撫でて、抱き締めて、まるで子供をあやすように顔を擦り寄せ、「はい」と相槌を打つ。 「……けほっ、……ひゅ、……り、つ、……おきたら、なにも、いわなくなっててっ……、えがおも、みせなくて、お医者さんが、……強姦された痕跡があるって……」 児童誘拐に、強姦……クソだな。宮村律の事は別に普通だけれど、なんとなく腹立たしくなってくる。いくら他人事でも、流石に胸糞悪い。 「りつ、その日からいえでられなくて、他人をみることもできなくなって……、チャイム音でさえ、おびえるようになって……」 それであんなに俺らにも、緊張しているんだな。全てが繋がっていく感覚だった。頭の中に浮かぶ宮村律の行動と言動全ての意味が今ではよく分かる。 「……でも、りつが一番おびえたのは、俺にだった……」 ……また、一人称が違う。 この人の本当は俺なのだろうか。 「……理由は、すぐにわかった……。事件の犯人が……、俺の、双子の弟だったから」 心が一瞬で凍ったように冷たくなった。 「っくそ!なんで見つかんねぇんだよ!」 家を出てから一時間は走った。行ったことのある場所、興味を持っていた場所、自分が知る限り全部探した。学校にだって忍び込んだ。でも、何処にも居ない。律くんが、居ない。絶望で、頭も心も黒く染まる。後は何処を探せばいい?どこに行けば良い?彼の行きそうな場所が分からない。こんなにも大好きで大切なのに、なんで彼の行動が分からないんだ。愛しているのに、どうして彼の事が分からないんだ。こんなんじゃ、好きだと言える資格がない。大切な時に、そばに居られない奴なんて要らないじゃないか。冷たい空気に肺が痛む。足も震える。……どうしよう、どこに行こう、どうすれば─…… 「くたばんの早すぎヘタレ兄貴」 「いっ」 真にバシンっと背中を叩かれ、由伊はぱちくりと目を丸くする。真はゼェゼェと苦しそうに息をしながら由伊をキッと睨み上げてきた。 「ハル兄が言ったんじゃん!大切だって、死なせたくないってだからあたしも寛貴も着いて来たんだよ。真っ先に諦めてどうすんの?まだ一時間しか探してないよ、まだ行けるとこ馬鹿ほどあんだろ!」 真のセリフに、ハッとする。そうだよ、たった一時間で何へばってんだ俺の馬鹿。やるべき事を全てやってから考えろ。今は走れ、名を呼んで叫んで、走るしか無いんだ。 「ごめん、真。ありがとう!」 真の頭をくしゃりと撫でると、真は「髪崩れるしぃ!」とキレながらも呆れたように笑ってくれた。だけど、このままがむしゃらに走っていてもどうしようも無い。結局、疲れただけになる。律くんの行きそうな場所……。 もし、もしも、律くんが本当に『最期』を考えているとしたら、何処に行く? ……俺なら、何処に行くだろうか。 もし俺が死ぬなら、最期に目に入れる景色は律くんがいい。律くんに看取られて死にたい。律くんに殺されて死ねるなら、それが本望だ。律くんがいいけど、……もし、会えなかったら。 会うことが出来なかったら、何処へ行く? 俺は、……律くんと行った思い出の場所に行きたい。 律くんの笑顔が見られたあの場所に、行きたいと思う。もしも、律くんと同じ想いであれば……否、同じ気持ちであったら、どんなに良くて、どんなに残酷か。そこに居て欲しいと思うのと同時に、……少しだけ、居て欲しくないとも思った。 ……律くん、そこは暗くて深くて冷たい、寂しい場所だよ。キミの最期には、相応しくない。 「それって……」 律を誘拐、強姦した犯人が律の父親である文崇の双子の弟……。 「……顔が同じなんだ……。雰囲気は違えど、顔が同じ。だから、律は俺の顔を見て怯えるようになった」 ……惨い、惨すぎる。 「……血縁が犯人というだけでも、律の心に大きな傷を与えたのに……、律は弟……央(おう)祐(すけ)の事が大好きだったんだ……。唯一の親戚で可愛がってくれていたから……」 身寄りのない宮村夫婦の唯一の親戚が犯罪者。文崇の唯一の家族が、息子を犯した人間。 ……そんな、酷い事がこの世にあっていいのだろうか。 「……もうとっくに出所しているんだけど、接近禁止命令で警察にマークされていたんだ……けど、この間央祐が俺の所に来た……」 「えっ」 思わぬセリフに思わず声を上げてしまった。犯罪者がこの人の元に?……いや犯罪者と言っても、宮村さんの御家族な訳だけど。 「……俺を養え、っていう内容で来たらしくて……断ったんだけど……そしたら、律に会いにいくって……っ」 またゼェゼェしてきてしまう文崇。 「っ、もちろん、会わせないし、……っ、会えないのはわかってる……っ、で、でも……すんでるばしょも、おれの会社もっ……、ぜ、ぜんぶバレて……ひゅ、ひゅっ……ケホッ」 「宮村さん、大丈夫。落ち着いて。ここには俺しか居ないよ」 ぎゅう、と包み込むように抱き締めて、宥める。ガクガク震え始まってしまい、本格的にやばい、と悟る。 「ひゅっひゅ、……ケホッ、り、……つ、ケホッ……あわ、ひゅ、……あわせたくっ……な、ひゅーっ……」 息も絶え絶えに必死に繰り返す。 『律に会わせたくない』 律さんを……大切な息子を守るために、宮村さんは律さんと、別れて暮らすことを決意した。 「ケホッ……ひゅ……ッ、りつ……りつ……ッ」 息子の名前を繰り返し、苦しそうに呼びながら泣く文崇に、寛貴は口を開いた。 「そんなの、俺だって許さねぇ」 「ひゅ、……へ?」 ぽかんとする文崇を見つめる。泣いて赤くなった瞳、鼻、上下する肩、……全て痛ましい。大の大人がパニクって泣きじゃくって、餓鬼である自分に泣きついて、それでも息子を守りたいと懸命に息をするこの人を、守る人は誰も居ない。この話だって、父さん達にはしてなかった。つまりは、俺だけが知っている。俺だけが知る、宮村さんが今ここにいる。……なら、守れるのは俺しか居ねぇじゃねぇか。 「律さんを守るのは宮村さんの役目。じゃあ、宮村さんを守るのは?……今その話を聞いた、俺しか居ないッスよね」 変わらずポカンと寛貴を見上げてくる文崇に言葉を続ける。 「俺は、まだ餓鬼で難しい事はよく分かんねぇ。正直、律さんの何処が良いとかあんま分かんねぇし、兄貴があそこまで熱くなるのも理解出来なかった」 寛貴の言葉を黙って聞く文崇。その文崇の頬を流れる滴を指で撫でる。 「けど、俺達の中には紛れもなく親父の血が流れてんだってこと、今分かった。困ってる人が居たら放っておけない。守り通さなきゃ気がすまねぇ。俺ら全員暑苦しいんだわ」 目を大きく開けて、驚いたように寛貴を見つめる。文崇の目から涙は止まっていて、気づけば呼吸も落ち着いていた。 「俺が貴方を守るよ」 「……え?」 我ながらクサイセリフだな、なんて照れ臭くなる。なるけど、これが寛貴の本心だった。 この人を守りたい。この人の、優しい笑顔が見たい。泣き顔はあまり見たくない。 「……ご、ごめん。同情させるつもりじゃなかったんだ……、そんなこと、言わせてしまって、ごめん」 文崇は急によそよそしく寛貴から距離を取り始めた。グイッと腕を伸ばして、寛貴を突っぱねようとする。けれど寛貴も引かず、文崇の腕をグイッと掴み引き寄せた。ビクリと、震える文崇に何故か愛おしさを覚える。 「同情なんかじゃないよ。俺、一個人として貴方を守りたいと思った。貴方を守る事は間接的に律さんを守る事にもなる。だから俺は此処に居ることを選んだ、貴方を選んだ」 待て待て、これ結構口説いてない?口説きに入ってねぇか、俺。 でも何故か言葉がスラスラと出てきてしまう。 「ち、ちがうよ……君は、こんな大人の涙に絆されただけだ……明日にはそんな事思わなくなってる……」 弱々しく首を振り、寛貴から目を逸らす文崇。いじらしくて、いじめたくなる。 「俺は、キミ、じゃなくて寛貴、だから。呼んで?文崇さん」 真っ直ぐに文崇の瞳を覗き込むと、ゆらりと影が動く。涙の膜が堪えきれずに滴となり、また頬に一筋切ない線を描いた。 「……ひろ、き……くん」 小さく、小さく、か細く呟かれた名前に、胸が熱くなる。大切にしたい、守りたい。 ……この人を、手放したくない。 「……はい、なんでしょう」 にっこり笑いかけると、文崇はぶわぁっと両目から涙を零して、寛貴に抱き着いてきた。 「……俺、おれ、っりつのとこいきたい!……っ、りつを探しにいく……っ!」 強くキツく抱きつく文崇に、寛貴はホッとして頭を撫でた。 「はい、一緒に行きましょう」 「……っは、ハル兄……っ、どこ、行くの……っ」 走り出してからさらに一時間は経った。合計二時間が経過してしまう。それでもまだ目的地に辿り着かない。 「……っこの間行った、海……っ、あそこな気がするんだっ!」 走りながら答える。肺が辛い、呼吸音しか聞こえず耳がおかしくなる。乾燥で唇は切れたし、指先も鼻も耳も冷たくて痛い。足も止まりそうだ。でも動かさなければ、彼に会えない。会いたきゃ動け、考えるな、走れ。 「海って、もしかして東京湾?」 真の問いに由伊は頷く。 「っなら早く言ってよ‼こっちの方が近い!」 真は急に道を変え、走って行く。我が妹ながらパワフルだ。真の背中を追いかけ、走る。まさか自分の足であの距離を走ってこられるとは思わなかった。あの時結構バスと電車乗った気がするけど、本気出せば行けるんだな、なんて冷静な頭で考えた。段々と潮の匂いが鼻に届く。 「っほら、波の音!」 真の声に、耳を澄ますと確かに波の音が聞こえる。もう少し、もう少しだ……っ律くん!足場が不安定になる。 足音もなくなった。砂浜になったようで、走りにくくなる。辺りを回すが、人らしきものは居ない。波の音だけが静かに響いている。 「律くん‼律くん‼」 叫びながら必死に走る。転けそうになるけれど、踏ん張る。肺が痛い、止まってしまいたい─…… 「っねぇ!あそこ人いない⁈」 真の言葉にハッと顔を上げる。すると、海の中に人影がぼんやりと見える。 「律くん⁈」 ゆっくりと海の深部へと歩いて行くその人影がゆらりゆらりと揺れている。 ……怖い、何が怖いのだろう。アレは律くんなのか?人なのか?怖くても、足を止めず走り続けた。距離が近づき、靴のまま濡れるのも厭わず波に入る。 パシャパシャと音を立てながら、冬の海が冷たくて足の感覚が無くなるのを思いながら、ハッキリした人影に思い切り手を伸ばした。下半身が潮水に浸かり、早く上がらなければ危険だ。 俺に背を向ける人の腕を掴み思い切り引き寄せた。無抵抗に由伊の胸に倒れ込んだ人物は、紛れもなく由伊達が必死で探し求めていた彼だった。身体が酷く冷えきっていた。 「……帰ろう、律くん」 静かに声をかける。すると、律は由伊を見上げてにっこり笑った。 「なんでいるの?おかしいね、俺まだ死んでないはずだけど」 「り、つ……くん?」 完璧な笑顔に違和感を覚える。 「由伊は、あっちの人?こっちの人?」 「……え?」 無邪気に問われるけど、その理由がわからない。あっち?こっち?どういう事? 「律くん、俺はね……」 「こっちじゃないなら帰った方がいいよ」 笑顔を崩さず、律くんは言う。 「……律くん、待って分かんないよ!俺は律くんを迎えに来たんだよ!一緒に帰ろう?ね?」 そう叫ぶと、律くんはふと、瞳を暗くして俯いた。 「……僕は、そっち側の人間じゃない。そこに居て良いわけがない。全部、諦めた。もう何も望まないから、母さんの所に行く」 母さんって……亡くなったって、さっき律の父から聞いた。 「律くん、待って行っちゃダメだよ!俺と一緒に居よう?お父さんの所に戻ろう?」 律は、びくっと肩を揺らしてキッと由伊を睨みあげ、そして、ドンッと由伊を突き飛ばした。 由伊はバランスを崩し、足場が悪く水の中へと倒れ込む。顔も全て水に浸かり、立ち上がろうと踏ん張るけど波に身体がとらわれ、上手くいかない。 ……あれ、これ……死ぬんじゃね。 暗闇の中、水に体を操られ不思議と冷静にそう思った。息も尽きかけたその時、グイッと身体が起き上がり、水上に顔が出る。何事かと思いつつゲホゲホと咳き込んでいると、バシンッと派手な音が聞こえた。 「いい加減にしろよ‼」 目を開けると、左頬を抑えた律と由伊の腕を強く掴んだままキレている真が居た。 「あんたばっかり被害者面すんな‼あたしだってクリパ中断になった被害者だ‼アンタの父さんだって馬鹿みたいに泣いてた‼誰か居てあげなきゃ消えちゃいそうなくらい酷く混乱してた‼それでもまだ死ぬって言うの⁈赤の他人がアンタの為に時間をかける価値があるって思っているのに、まだ死のうと思うのかよ‼」 息も整っていないのに、真は律に叫んでいた。 「あんた、自分のお父さんの話ちゃんと聞いてないんでしょ。聞こうともしなかったからこうなってるんでしょ。ばっかじゃないの‼そんなの全部聞けば解決する事なのに勝手に分かったフリして、傷つく事から逃げんなよ‼」 律くんは俯いているけれど、肩が震えているのがわかる。 「顔上げてあたしを見な」 真はグイッと律の両頬を掴んで無理矢理上を向かせた。ぽろぽろと涙を零す律は、怯えたように真を見る。 「あたしだって、こんだけ冷えてこんだけ息上がってそれでもアンタを探し続けた。アンタの事は大嫌いだけどね、見つけた時、生きてて良かったって思ったんだよ。アンタは皆に、生きてて良かったって思われてんだよ!それを自覚しろ‼このクソボケ‼」 口は悪いけれど、真はずっと正論だ。いつの間にか浜辺には真から連絡を受けた孝と京子、文崇と寛貴が集まっていた。文崇が海へ入ろうとして、寛貴が止めている。 「……律くん、見てご覧よ。律くんの事嫌いなお父さんがあんなに必死にこっちへ来ようとするわけ、無いでしょ?嫌いならここに来ないと思うよ」 律に話しかけると、由伊の奥の浜辺に人が居るのが見え、律は目を丸くして一層涙をこぼした。 「……律くん、帰ろう」 由伊はまた同じ言葉をかけた。その言葉に律は顔をゆがめボロボロと泣き出し、ふらりと倒れ込む。急いで抱き抱えた由伊は真と一緒に泣きじゃくる律を浜辺に連れて行き、文崇が駆け寄り律に自分のブランケットを掛け、強く抱き締めた。律以上にワンワン泣くから、律がぱちくりと固まってしまっている。そして今、彼はいつもの変なサングラスやマスクを付けていない。 完全に、素の文崇だった。 「ごめんっごめんなぁ、律ごめんなあ」 必死に謝り続ける律くんの文崇に律は、「……お、れも……ごめ、なさ……」と謝った。 そして、律はぽそりぽそりと言葉をつなげる。 「……おれ、……すてられたとおもった……いらないって……いわれたんだと、おもった……」 律の台詞に文崇は「違う‼」と大声で否定した。 「……ぼ、僕は律と一緒にいたい……っ、ずっと、そばにいたい……っ、でも、でも、……っ」 文崇はその先が言葉にならず泣き崩れてしまう。すると後ろから寛貴が来て、代わりに律に伝えた。 「……今は伝えられない、のっぴきならない訳があるんだとよ。俺も知らねぇけど、……親父の事が大事なら黙って信じてやるのも息子の務めなんじゃねぇスかね」 寛貴の言葉を聞き黙り込む律に、孝が近寄りしゃがんだ。 「律くん。キミを今日まで育てたのは他でもない宮村さんだ。その間、ちゃんと愛をくれていたんだろう?君なら分かっているはずだ」 孝は律の肩に手を置く。 「……愛を注いでくれた親への一番の親不孝は、親より先に死を選ぶこと。どうしようもならない運命以外は、投げ捨てることはしてはいけない。反対に、一番の親孝行は……親より長く、元気に、生きること……。俺はそう思っているよ」 父の台詞に、何故か自分まで泣きそうになった。 死のうと思ったことは無い。だけど、消えてしまえたら、なんて思う事はある。律は、泣き崩れた文崇に抱き着いて「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」と泣き叫んだ。律と、文崇を落ち着かせるように京子が抱き締める。暖かく、優しく、包み込む。そうしているうちに、段々と朝日が顔を出した。冬の朝焼けは、刺すような冬の空気を照らして暖かい。 こんなにも、心が熱くなったのは人生で二度目。二度目も、律くんが居るんだね。 やっぱり君は、凄いよ。 由伊の家族に連れられて、律は由伊の家へと帰ってきた。迎えに来た文崇は顔を真っ青にして、律に抱きついまま気を失うように眠ってしまった。そんな文崇を見てずっと傍に着いていてくれたらしい寛貴が律に言った。 「……宮村さん、あんたの事マジで大切にしてますよ」 息子を探しに行きたくても体が思うように行かなくて、ずっと泣いていた、と。 ……正直、父のそんなに弱った姿を見たのは初めてだった。 母が亡くなった時も、放心する律を必死に慰めていたし、律が事件に巻き込まれた時も誰よりも気丈に普通に振舞って接してくれた。 ……俺がいくら酷い態度を、……酷い事を言っても結局姿や生活スタイルを変えてまで俺と一緒に居てくれた。だから余計に思ってしまった。由伊の家へ行けと言われた時、捨てられたんだと。冷静になればそんな事は無いはずなのに、律は取り乱した。なんて情けないんだろう、なんて弱いんだろう。なんで俺はいつも、父さんを傷つけてしまうのだろう。 「律くん」 ぼーっと床を見つめる俺に、由伊が優しく声をかけてくれる。由伊のご家族も皆沈黙して、律の家で座っていた。 「……とりあえず律くん。君も横になってゆっくりしなさい。顔色が良くないよ」 孝が気を遣ってポン、と肩に手を置いてくれた。 ……けど正直、誰とも話す気はなれずお礼を言うタイミングや顔を上げるタイミングを失う。 沢山感謝をしなきゃいけないのに、出来ない。出来損ないの自分が如実に現れて、胸が苦しい。 泣きたい、苦しい、気持ちが悪い、助けて欲しい…………でも一番助けて欲しかったのはずっと、父さんなんだと思ったらそんな生意気なこと言えない。黙って、男一人で全部を抱えて生きてきた父は強い。だから俺も、強くならなきゃいけない。この考えに辿り着いた時、ふっと心が軽くなった。今まで何となく生きてきて、避けたいものから遠ざかって接していたけれど、そんな事をしてはいけないんだと気づいた。全部にぶち当たって、全部に勝たなくてはいけない。 父さんが、してくれたように。大切な人を守り生きるというのは、そういう事なんだよね。 心から、何かが消える音というのは、酷く……静かだ。 「……ご迷惑をおかけして、すみませんでした」 スムーズに出る言葉、綺麗に上がる口角、三日月に細められる目、真っ直ぐに捉えられる瞳、 ……そうだ、こうやって生きていけばいいんだ。こぽり、と心がひとつ、沈む音がした。 「……りつ、くん?」 驚いた顔をした由伊や、由伊の両親、寛貴や真。それでも律はこの顔を止めなかった。 「ごめんな、由伊。ただの友達なのに、俺らの親子喧嘩に巻き込んで。寛貴くんも真ちゃんも、ごめんね。由伊の父さんと母さんも、すみませんでした」 皆にぺこりと頭を下げる。今の自分は、普通の人と同じように会話が出来ている。嬉しい、嬉しい、嬉しい。なんで今までこうしなかったのかと思うぐらいに、嬉しい。 どう思われているんだろう、なんて関係ない。だって自分は、普通を演じられているのだから。普通に映るはずだ。嫌われることを怯える必要も無い、 だ っ て ふ つ う だ か ら 「律くん、どうしたの?笑わなくていいんだよ、俺らは迷惑だなんて思ってないよ⁈」 由伊の焦った顔が視界にうつる。 なんでそんな顔をするの?笑うことの何がいけないの?だって、普通に生きるにはこうするんでしょ? 「そうよ律くん、無理な笑顔は笑顔なんかじゃないわ、苦しいんでしょ?辛いんでしょ?なら泣きなさい。ここには皆いるわ、ひとりじゃないの」 由伊のお母さんは何を言っているんだ?俺は無理な笑顔なんてしてない。辛いと思わない。 だって、普通だから。普通でいれば、父さんも俺から解放される。父さんは自由に生きられる。 なら自分はそれを望む。たとえ、この身が削られようと構わない。もう父さんを縛りたくない。 「無理なんてしてないです。苦しくも辛くも無いです。だって苦しくて辛い時、真ちゃんや由伊が迎えに来てくれました。だから俺は今笑えるんです。おかしいですか?」 にっこり笑って首を傾げれば、由伊は泣きそうに顔を歪める。そして、ぎゅっと律を抱き締めた。 「……っ律くん、……それは、……っえがおじゃない……っ……涙だよ……っ!」 「……」 苦しそうな声でそう教えてくれた。けど、涙?涙なんて流していない。俺は笑顔を作っているんだ。笑いたいんだ。他の人と同じように、上を向いて笑って歩きたい。普通になりたい。昔にとらわれず、普通の人と同じように自分の人生を歩きたい。優しくしてくれる人に優しさで返せる人間になりたい。そのためには、笑わなくちゃ…… 「……父さんが、……俺の前で、泣かないのに……っ、……おれは、……っなけない……」 泣いていることには気づいてる。頬を伝う雫に自分で分かっている。だけど泣きを認めたくない。 「……おれは、ッ……つよくなる、……父さんを、……きずつけない、……めいわくかけないッ……ひとりで、……っ生きる」 そう言うと、孝がゆっくりと歩いてきた。見上げれば、孝は凄く、……怒った顔をして、律を見下ろしていた。ドクンッと心臓が嫌な音を立てる。 まだ、由伊が抱きしめてくれている。けどその由伊に気づかれるのではないかというくらいに、激しく鼓動がなる。 「いい加減にしなさい」 孝の怒りの声音に、びくり、と肩が跳ねる。 どうしよう、どうしよう、どうしよう─……息が浅くなる。 「子供が親に迷惑をかけるのは普通の事なんだ。当たり前の事なんだ。君の父さんが背負ってきたものは、キミの迷惑なんかじゃない。周りの大人が、キミの父さんを苦しめたんだ!」 怒りに満ちた孝は、律の肩を掴み、声を荒らげた。自分の呼吸音に混じって、孝の怒りが伝わってくる。 「キミが思う迷惑は、親からしたら大した負担では無い。むしろ、もっと甘えろ、もっと迷惑をかけろ、もっと俺を困らせろ、そう思うぐらいに、キミは一人で生き過ぎている」 俺が……一人で? 「律くんはいい子だ。偉い子だ。沢山頑張って来たよ。律くんも、律くんのお父さんも、人一倍辛い事から逃げずに頑張って来た。俺はキミたちを尊敬している」 慈愛に満ちた孝の表情に、凍った心が溶かされていく気がした。 「キミ達は、人を頼らな過ぎたんだ。欠点をあげるとすれば、その一つだけかな」 にっこりと微笑まれ、ぐしゃりと視界が歪む。貼り付けた笑顔は、いつの間にか崩れ、口角は下がっていた。ぐっしょりと濡れた心は、ぽたぽたと水滴を垂らす。 じわりじわりと、垂れた水滴が乾ききった内臓に染みていき、心臓が正常に血液を送り出し始めた気がした。腐りきった己の中身が、今、働きを取り戻したように活発に動く。 「……俺だって、……父さんが大切なんです……。自分以上に、……父さんが大切……だから、……今度は、俺がそばで、……父さんを守りたいんです……」 捨てられた訳では無いのなら。まだ傍に置いてくれるのなら。今度は俺が、『正攻法』で父さんを守りたい。 律と文崇をそれぞれ、由伊の部屋、孝の部屋に寝かせて由伊家は緊急家族会議を開いた。 もう夜が明け、今は午前七時だ。正直、疲れたし眠い。孝にも寝ていいといわれたが由伊たち兄妹は首を縦に振らなかった。きっと自分と同じく、寝るに寝られないんだろう。自分が寝ている間に何が起こるかわからなくて、怖い。 「お前たちには言ってなかったが、実は宮村さんを心配した俺と母さんで提案していたんだ。律くんを預からせてくれないか、と」 孝はコーヒーを飲みながら口を開いた。真も寛貴も真剣に孝を見て話を聞いていた。 「宮村さんにはある事情があって、律くんのもとへは帰れないらしくてな。その間、律くんを家で面倒見たいと言ったんだ」 ある事情……。それは律くんの巻き込まれたという事件のことなのか。 「ちょうどよく家に部屋も余っているし。けれど、律くんは大人……つまり父さんたちのことが苦手らしく、しかも、宮村さんと離れるのも律くんの精神衛生上よくないと判明してしまった。ただ、今律くんたちがいる家は危険らしいんだ」 「八方ふさがりよね……。私たちは、律くんは父親にネグレクトされていると思っていたから、すんなり来てくれるかと思っていたんだけど……」 京子は深いため息を吐いて、視線を下に向けた。 「あのさ、なんでそこまでしてあの人たちを守るの?そうやってびくびくしながら生きるのがあの人たちの運命なんでしょ?なら、あたしたちがどうこうしてもしなくても変わらなくない?」 至極めんどくさそうに真は言った。すると反論しようとした由伊より早く、孝が表情を険しくした。 「真。めんどくさいと思うのは勝手だが、人の運命は他人の介入によって良くも悪くも必ず変わるんだ。運命に抗おうと必死に諦めていない人が傍にいるなら手を伸ばすのが人情ってもんだと、父さんは思うぞ」 その言葉に真は押し黙る。 「確かに、他人によって自分たちのこれまでの生活が変わってしまうのはすごくストレスよね。父さんや母さんの思いを尊重して真や寛貴、陽貴を我慢させたいとは思わないわ。それはそれでまた別の案を考えるまでよ」 京子は真っすぐに子供たちを見つめた。俺は家に律くんたちを呼ぶのは構わない。だってそしたら、おはようからおやすみまで不謹慎だけど一緒に居られる。そうなったら、律くんは俺を好きになってくれるのだろうか。……そんなこと考えてどうする。打算的に好きになってもらったって、嬉しくない。 「……お前たちの考えを聞かせてほしい」 静かにリビングに響く父の声は重く、沼のように深かった。 「俺は律くんたちを家に呼ぶのは、もちろん賛成。けど住まわせるのに納得いかない奴が居んなら、律くんが一人で不安な時家に来るようにしたらいいと思う。宮村さんもその時はここに帰ってくればいいし」 真っ先にそう提案すると、孝は黙って頷いた。 「……あたしは反対。他人がプライベートな空間にいるってだけでストレスだし、あたしらの生活が乱れるのに納得いかない」 真は依然として否定派だった。 「寛貴は?」 由伊が発言するように促すとずっと黙っていた寛貴は口を開いた。 「俺らがここでどうこう決めてもしょうがなくね。結局は宮村さんたちの意思が尊重されるなら、賛成とか反対とか意味ないと思うけど」 バッサリと意見を告げた寛貴は「けど……」と続けた。 「真の気持ちも兄貴の気持ちも、父さんたちの気持ちも尊重されるべきだと思うよ。誰かが折れる生活は結局ずっとは続かねぇと思うし、そういうのが一番宮村さんたちの負担になるんじゃねぇの」 寛貴の言葉に、由伊たちは皆感心して「たしかに」と頷いた。 「かといって律くんたちの性格じゃ、俺らの家に来たいだなんていえないだろうしなぁ」 そうつぶやき由伊は思案する。どうするのが最善なのだろうか。何が、自分達も彼も幸せになれる道なのだろうか。結局家族会議は纏まらないまま全員の眠気がピークになり、お開きとなった。由伊もゆっくり律が眠る自分の部屋に向かう。 「……律くん」 律の寝顔を見つめ愛おしくその名を呼んだ。勿論起きはしない。律を包み込むように抱きしめて、由伊も目を瞑った。幸せになりたい。自分の幸せは彼に好きになってもらうこと。 ……そう思っていたけれど、彼が幸せなことが自分の幸せだと今では断言できる。 律くんの笑顔がみたい。そんな簡単なことさえも、俺にはできなかった。

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