16 / 19

第16話

ずっとそう考えていた。出てくる可能性だって考えていた。出て来たらどう戦えばいいのか、強くなれば勝てるのか。……結局どうしたって俺は、自分と恐怖には勝てなかった。あの日の恐怖には、勝てなかった。一分でも一秒でも、考える度に記憶の中のアイツに負け続ける日々を毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日繰り返した。馬鹿ほど太陽が昇って、馬鹿ほど月が沈んで、そんで今日まで来て結局コレ。これが俺の『運命』なんだな。 「俺はさ、あの人に縛られるのが『運命』なんだよ。だからこの業(かるま)に父さんも皆も巻き込まない」 「待って、律くん。それを運命って呼ぶのはちがう」 「俺は、もう誰も頼れない。父さんも由伊達も、誰も。頼りたいとも思えない」 真っ直ぐに由伊を見つめそう断言すると、由伊の瞳が暗くなり表情が消えた。 「……なんで、頼れないの?」 抑揚のない声で、聞いてくる由伊に律は躊躇わずに返した。 「皆、俺の大切な人だから」 そう返すと、由伊はハッとした顔をして「はは」と乾いたように笑った。 「……そっか。……みんなか」 「うん、皆。だから、由伊も俺の家には来なくていい。というかむしろ、不躾なお願いになってしまうんだけど、逆に父さんを預かって欲しい……です」 律がそう言うと、由伊は少し無表情のままボーッとしていたけれど、不意にニッコリ笑顔に戻った。ホッとして、返事を待っているとニッコリ口を開いた。 「嫌に決まってるでしょ」 「…………え?」 ……え?……いやって、……言われた……? 「律くんさあ、逆になんでOKされると思ったの?さっきまで散々俺たちの事否定しておいて、最後のチャンスまであげたのに、断ったのそっちでしょ?」 由伊は頬杖をついて馬鹿にしたように笑った。 「俺たちは、律くんのお父さんに頼まれたからっていうのも無くはないけど、本気で律くんの心配をしてた。ずっとずっと、母さんも親父も、真だってあんな態度だけど人並みに感情はあるし、寛貴だって心配してたから俺らに大事な話をしてくれたんだよ」 「……そ、れは……、迷惑だとおもったから……」 「迷惑?ああ、そうかもね。他人のお世話なんて迷惑この上ないよ。ハッキリ言えばそんなの無く平和に居たかったよ」 ……由伊を、怒らせた。……本当の本当に、怒らせてしまった。 「人の善意を、迷惑だとおもったからって突っぱね続けんのって、一周まわってすげー失礼だよ」 由伊の目から、敵意しか感じない。なんで、なんで、迷惑だと思ったから、迷惑かけたくなかったから……ていうか、 「やっぱり迷惑だと思ってたんじゃん‼だから俺、俺は……っ‼」 「遠慮していたんでしょ?知ってるよ。律くんが、そいつが原因で俺の両親に必要以上に怯えていたのも知ってる。俺らの要望を素直に聞けなかったのも、迷惑かけたくない、嫌われたくない、負担になりたくない、知ってるよ‼」 「……ッ」 ダンッと、机を叩かれ、ビクッと肩が跳ねた。 こんなに、おこった、ゆい、……はじめてで、こわい。こわくて、いきが、とまる。 「……けどその遠慮は同時に、頼られてないんだって、心の距離と比例してくる」 「……そ、んなこと……」 「無い?無いって言い切れる?」 ギッと睨まれ何も言えなくなる。 「ほら言えないんじゃん。だから要するに、俺がどれだけ好きでも、好きで好きで堪らなくても、俺が好きな分、律くんはどんどん距離を置きたくなるんでしょ」 「そ、それはちがう!」 「なんで?何が違うの?実際俺はそれをされているんだよ?何かあっても頼ってくれない、心配しても甘えてくれない、……過去の話をしろって言うわけじゃない。けど俺は、律くんを信用していたつもりだよ。でも律くんにとって、結局その他大勢と俺は同じ部類なんでしょ」 「だから違うって‼由伊の事は信用してるし、今だってしんじて……っ」 「どこが?信じてたらあんなセリフ出てこないでしょ。俺の言葉に信憑性がないなんてニュアンスのセリフ、言えるわけない」 ……ッ ああ嫌だこんなの嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ 「俺が昼間、涙を流した理由、知らないでしょ。あの時律くん、自分の事しか考えてなかったもんね」 嫌だ嫌われる嫌だ嫌だ嫌だ 「いッ」 ドンッと床に倒され、手首を縫い付けられる。思わず見上げ、目を見開いた。 「今だってそう。自分の事しか考えてない。結局律くんてさ、考える、考える言うけど、考えてないでしょ。俺との関係も、皆のことも。自分が何とかしようとするけど、それだけの力が備わってないから、結局こうやって周りがしてあげるしか無いんだよ」 「ごめ、ごめんなさ……っ」 「何がゴメンなの?何が悪いと思ったの?嫌われたくないからでしょ?味方が一人減るのが怖いんでしょ?律くんにとってただそれだけなんだよね」 「ち、がぃ……ま、す……っ」 「はは、なんで敬語?なんで泣いてんの?俺はね、怒ってるんだよ。泣かれても無駄。むしろ、泣けば解決すると思ってんの、……すっげーうざい」 泣いてはダメだ泣いてはいけない これ以上涙を流したら、由伊に、由伊に、 「俺、今の律くんマジで嫌い」 ……きらわれた。上手く息ができない。 嫌われたくなかったのに、嫌われたくなかったのに、嫌われたくないきらわれ、 泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな、 「あれ?泣いてんの我慢してんの?我慢出来たんだーえらいねー」 頭を撫でられる、うれしくない こわい、こんなの、ゆいじゃない……ゆいじゃない? 普段と違うからって、否定していいのか?だめだ、なにも、あたまがまわらない。 「え、ちょっと息はしてよ。泣くなって言っただけじゃん。馬鹿じゃねぇの」 ぺちぺちと頬を叩かれるけど、喉が開かない。ビクビク、と体が痙攣し始める。息がしたいのに、するな、と心が命令する喉がつまって、自分で開こうとしない。 「おい、息しろって‼」 焦った由伊の声が聞こえるけど、どうしようもない俺だって息したい、でも、むりだ 「チッ」 ゆいにきらわれた、おれなんて、いきるかちない、 「……んっ……ッ」 鼻をつままれ、上を向かされて強く、唇に由伊の唇が押し当てられ思い切り息を吹き込まれる。 「ヒュッゲホッゲホッゲホッ‼」 肺に酸素がいきなり入ってきて、思い切りむせ込んだ。いきなりの事に呼吸の仕方を忘れてしまう。 「ヒュッ……ヒュッヒュッ……ヒュッヒューッ」 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい、 「……ッおい、息吐け。吸うな」 荒い口調の由伊に、背中を大きく強く撫でられ、必死に言われた通りにするけど、出来ない。 ああ、いやだ できなきゃおこられる なぐられるかもしれない うまくいかないと、しばられるかも いやちがう、このひとは、あのひとじゃなくて、 このひとは、 このひとは…… 「…………ッゆ、い……ッ」 手を伸ばして、縋る。 目の前の、大好きな人 居て欲しい、そばに、離れないで、ほしい でも、もういえない いまさら、言えないんだ 「はぁ……」 深いため息と共に、すっぽり由伊の香りに包まれる。 「俺に合わせて呼吸して」 由伊が深く、しっかり呼吸をしてくれて、由伊の体や音に合わせて律も、慎重に呼吸をした。 「……ハァッ……ケホッ……」 やっと落ち着いて来て、律はまだ心臓がドクドク鳴るのが嫌でぎゅうっと強く抱きついた。 ……もう最後なんだこれは、俺が落ち着かないから仕方なくしてくれただけ。 明日も明後日もしてくれない。キスも、さっきのが最後なんだ。キスじゃないけどね、さっきのでも俺が悪いんだ全部由伊に甘えたから、俺が、自分のことしか考えなかったから、由伊を傷つけ続けてたの気づかなかったから、きらわれた。なのに、由伊はまた俺を助けてくれた。嫌いな俺を、したくないはずの人工呼吸までして助けてくれた。嫌いな俺を、抱きしめてくれた。なんて優しい人なんだろう。 ……なんで俺、この人を傷つけたんだろう。 「……落ち着いた?」 ゆっくりと聞かれ、律は惜しくなりつつもコクリと頷いて、「……ごめんなさい」と謝った。 それに対して、いつもなら「そんなことない」とか「温かいもの飲む?」とか聞いてくれてたのに、由伊はもう何も返事をしてくれなかった。顔を見られずに俯く。 「……とりあえず、律くんの家には行くから」 重たい空気を打ち破ったのは、由伊でまたそんな事を言われた。律は、焦って「えっ……」と反応する。すると由伊は心底嫌そうな顔して「なに?」と言った。 ……そんな顔されたら、なんて言えばいいかわかんない…… 「……迷惑なら、……こなくて、へいき……」 口に出してからハッとして、口を抑えた。……おれ、おれまたなにいって、おれ、 「あっそう」 「ち、ちがいまのは、ちがくて、ちがうのその、ちが……っ」 パニックになり、由伊に手を伸ばして慌てて言うと、バシンッと手を払われた。 「……ッ」 冷たい目が見下ろす。 「……マジで、いい加減にしろよ」 自分が悪いどう考えても、俺しか悪くない 「……ご、め……ッ」 泣いちゃダメだ‼泣いたらまたおこられる、めんどくさいってため息はかれる。 だめだ、こらえろ、息もしろ、生きて、呼吸して、めいわくかけるな、だめ、 「……頼るより、そうやって我慢する方が好きなんだ。ドマゾじゃん」 心無いことを言われ、体が震える。 「それとも、虐められたくてわざとそうやってんの?」 「あーあ、そんなに変態だったんだ」 嘲笑われ、バキンッと心が折れる音がした。ボロボロに壊れきった心の破片が、内蔵にドクドク突き刺さり血液を垂れ流す。じわりじわりと漏れた血液は、四肢に広がり痺れてくる。脳内が麻痺し、感情のパネルには『恐怖』しか残っていない。律は耐えきれず、耳を塞いで額を床に擦り付けた。 「……ッ……おねが、ぃ……しま、す……ッ……そ、れいじょ、………………ぃわな、で……くだ、……さ……ッ」 「……」 耳を抑え、震えながら土下座をし由伊が動くのを待った。 何時間だろうか。いやきっと、現実では数秒だと思うが、体感はとても長かった。 このまま、死んだ方がラクだと思うくらい重くて冷たい空間。 「……いいよ。もう俺からは何も言わない。その代わり、律くんはこの家に住むこと。分かった?」 ……これは、分かったと言わないといけないんじゃないか。それを言わないと、またおこられる、おこられて、ためいきつかれて、そんでまた、また、さらに、きらわれるんだよね。 「ねえ、聞いてんの?」 意を決して、頭を床に着けたまま口を開いた。 「…………わ、か……た」 由伊の家に帰る、由伊の家で息をする、由伊と生きる、そうすれば、これ以上きらわれない? 「……じゃ、決まりね」 いうこときけば、またわらってくれる?やさしくしてくれる?すき、って抱き締めてくれる? 「……明日、母さん達に報告する。今日はもう寝るよ」 「…………うん」 「あと、母さん達の前で元気無い顔なんかすんなよ。余計な心配かけるから」 「……わか、た」 「じゃ、おやすみ。電気は自分で消して」 「………………うん」 ばさり、と自分の布団をかけ律に背を向けて眠ってしまう由伊。その背中を呆然と眺めて、律は静かに泣いた。俺のせいだ、俺のせいで由伊がこっち見てくれないでんき、けすのこわい、でも由伊はねた、ねちゃったいつもなら、抱き締めて眠るまで起きててくれるのに。電気も由伊が消してくれるのに。暗いの怖いから、俺が動けなくならないように、でもこれは、俺がお願いした事じゃない由伊が全部、俺を見て察して考えてくれてたんだ。 由伊はいつも俺の事を考えて、俺優先で居てくれたのに、俺は……なんで…… 「……ひっ……ぐすっ……ひぐっ……」 バレちゃダメだ……でも廊下に出るのもダメだ。誰かに気づかれたら心配かけてしまう。 止めろ、止めろ、止めろ グッと唇を噛み、上を向いた。 大丈夫、大丈夫 泣くな 笑え 泣いたって、由伊はもう、好きになってはくれない。 翌朝、結局眠れずに由伊が起きるより早く部屋から出て、顔を洗いに行った。涙は止めたけど、全然眠れるわけなくて冷水で顔を冷やした。 「はぁ……」 「ちょっと、終わったなら退いて」 「ひっ、あ、ご、ごめ……っ」 真後ろから声をかけられて、律はビックリして水を撒き散らしてしまった。慌てて近くのタオルで拭きながら、真を見た。 「……お、おはよ……真ちゃん、はやいね」 気まずく思いながらも、挨拶をしてみると……やっぱり返事は返って来なかった。諦めて戻ろうと背を向けた時、「あのさ」と強めの声に引き留められた。 「挨拶すんなら、そんな辛気臭い顔しないでくれる?朝から気分悪い」 「……っ、そ、……そうだよね……ごめん、……なさい」 これ以上ここに居られる自信がなくて、無理矢理口角を上げてへらり、と笑い駆け足でその場を去った。 ……すこしだけ、父さんのいる所を覗いてもいいかな。なんて思ったけれど、その部屋には由伊のお父さんもいるので、起こしたら大変だからやめにした。まだ早朝だし、明るいから、外でも行こうかな…… そう思って、由伊の部屋に戻りこっそり着替えてまた一階に戻り玄関に腰掛けた。すると、 「あら?律くん、おでかけ?」 のんびり優しい声がまた真後ろから聞こえてきて、ビクリと、震えた。 「……お、おこして、……ごめ、なさい!」 慌てて頭を下げて、謝る。 どうしよう、起こしちゃった、怒ってるよな、うるさかったよな、他人の家でこんなはやく、こんな─…… 「あら?起こされたのはアラームによ〜?私はいつもこの時間に起きて皆の朝ごはん作ってるのよ、気にする事なんかないわ」 京子は穏やかにわらって、頭を撫でてくれた。その優しさに、不意に由伊が重なってじわっと目頭が熱くなったけれど、律はそんなの全部無視して口角を上げ目じりを下げた。 「……おはようございます」 「ええ、おはよう。それよりどこか行くのかしら?」 「……あ、いえ、気分転換にお散歩と荷物を引き上げてこようと……あとは仏壇に線香をあげに行こうかなと……」 しどろもどろで答えると、京子は「あら!私もいっていいかしら?」とパッと顔を明るくする。 「え……え?でも、ただのお散歩とちょっと家に帰るだけ……ですよ?」 「だけ、なんかじゃないわ。私が、律くんのお母様にお会いしたいのよ」 慈愛に満ちた笑顔で言われて、また泣きそうになった。けれど、もう段々慣れてきた笑顔の作り方。顔に貼り付けて、「……ありがとうございます」と言えた。 「でも、皆の朝ごはんを作らなきゃだから少し待っていてもらえるかしら?ごめんなさいね」 申し訳無さそうに謝られて慌てて首を横に振る。 「そ、そんな事ないです!もしよろしければ、お手伝いしても……いいですか?」 遠慮がちにそう尋ねると、京子はぱあっと顔を明るくして「あら本当?嬉しいわ!」と言ってやさしく手を握ってくれた。 「ささ、じゃあこちらに来て」 るんるんな京子が何だか可愛らしくて微笑む。 「律くん、よく笑うようになったわね」 ふと、そんな事を言われてドキリと胸がなる。 「……笑顔の方が、良いなと思ったので」 それとなく、答えを濁した。突っ込まれたら困ると思っていると、京子はそれ以上追求して来ず、「そうかもね」とニッコリ笑ってくれた。京子と家族と俺たち分の朝食の準備をし、皆が起きてくる前に律たちは二人で先に食べ家を出た。 「律くんと二人って初めてね!嬉しいわ!」 散歩しつつ、京子の声に耳を傾ける。 「……あの、色々迷惑をかけてすみませんでした」 不意に立ち止まって面と向かって頭を下げると、京子は「ふふ、真面目ねぇ」なんて笑う。 「律くんは、そうやって生真面目に何でも気にしてきてしまったのね」 何でも気にして?……どういう意味だろう。 「私の律くんの事が好きって気持ちは、息子として愛せるって意味だから、信用出来るようになった時に、信じて本当だったって納得してくれれば良いわ」 信用できる時に…… 「……できるんでしょうか、俺に」 ふと、口に出てしまった。人を信用するビジョンが沸かない。もう充分、由伊や、ご家族を、信頼していたのに。そのつもりだったんだけど。 「……律くんがまずしなきゃいけないのは、自分を肯定して受け入れることと、自分を信じてあげることなんじゃない?自分を信じられないのに他人を信じられるわけないじゃない」 ケラケラと言って退ける京子に、律はポカンとする。 「そ、そうなんですか?」 思わず先を歩く京子に駆け寄り、聞くと京子は頷いた。 「そうよ?結局ね、世界で信用出来るのは自分しか居ないの。上手く生きられる人は、人に意見を聞けども最後は必ず自分を信じて前に進める人なの」 ……縁遠い、世界の話。 「変われるのは強さだけど、変われるためには自分を知り、自分を信じて、確立しなきゃブレて人に流されて、そのままアウト」 「……」 「ただね、上手く生きるのも大切かもしれないんだけど、結局大切なのは、自分が、大切だと思う人をちゃんと大切に出来ているか、だと思うわ。結局、人はひとりじゃ生きられないの。私も、律くんも、ね?」 じわじわと京子さんの言葉が心にしみていく。もう律の心は形を生していないけど、それでも、生きていていいんだよって肯定されたような気がして、嬉しかった。 「あらここよね?律くんのお家」 話しているうちにいつの間にか着いていたようで、鍵を開けて久しぶりの家に入る。 「お邪魔します」 家の中で女の人の声がするのが新鮮で、ワクワクする。律たちは真っ直ぐ仏壇に向かい、順番に手を合わせた。母には、帰った事だけを、報告した。あの日、由伊や真ちゃんに止められて、本当によかったのかな。あのまま沈んで灰の空気を全部抜いたら、母さんと会えたのにね。 俺まだ、しぶとく生きているんだ。おかしいね。 「素敵な方ね」 額縁の中で笑う母の写真を見て、京子は目を細めた。 「律くんに似て、聡明で真っ直ぐで可愛らしい方」 「…………母さんは……いつも、真っ直ぐで、ただしくて、あったかくて、……やさしくて、強い……人です」 「律くんには、そんな素敵なお母様の血が流れていて、今しっかり生きている。……健気に毎日を頑張っているわ」 ……俺の中には、……母さんの血が……そうか……俺の中には、大好きな父さんの血も母さんの血も……流れているんだよな。大好きな母さんが遺してくれた、自分。 「……ふふ、少し愛おしく思えた?」 京子に微笑まれ、律はワンテンポ遅れたけれど泣かずに笑えた。 「……っ、……はい……!」 気づきもしなかった、こんな当たり前のこと。『あの人』と同じ血だと思っていたのに、父さんや母さんの血が当たり前に濃く入っていることも、この細胞も母さんや父さんに守られて愛されて出来上がったものなのに、何でこんなこと忘れていたのだろう。馬鹿だな、俺。悲観することに一生懸命になって、大事なことに何一つ気づけていないんだな。 「ふう、いっぱい買っちゃったわ!ごめんねぇ、持たせちゃって」 「いえ良いんです!母さんに挨拶までしてくださって、こんなんじゃ足りないくらいもっと、感謝しているんです」 笑って言えば、由伊の母さんは嬉しそうに笑ってくれた。 「ニコニコ笑って、可愛いわねぇ」 「本当だ、ニコニコ笑ってる。可愛いなぁ」 「わっ⁈」 本日三度目の真後ろからの声に、律はビックリして思わず京子の方へ逃げてしまった。そんな律に二人は、「猫みたい」とクスクス笑う。律はカアッと顔が熱くなりながらも、「お、おはようございます……!」と頭を下げた。 「うんうんおはよう。律くん京子の手伝いしてくれたのか?ありがとなぁ」 「あ、い、いえ……したくてしたので、お礼なんて……」 「ニコニコのありがとう、が聞きたいなぁ〜」 孝にニヤニヤ笑われて、あまりの羞恥に全身が熱くなるのを感じながら、「……ぁ、ぁぅ、……りがと……ございます……」と途切れ途切れに返せた。 「はは!上出来だ!」 豪快に笑って頭をくしゃくしゃ撫でられる。そんな律を見て京子もまたクスクスと笑った。 「さ、買ってきたもの仕舞うからアナタは皆とご飯食べてよ。食器片付かないでしょ」 怒られた孝は渋々俺から離れ、牛乳を手にしてダイニングテーブルに戻った。そこにはもう、由伊も起きていて、真もバッチリ服装メイク決めて、寛貴は半分寝ながら食べていた。 ……父さん、まだ起きられないのかな。 律は心配になり、こっそり文崇が寝ているであろう孝の部屋へ向かおうとする。しかし、気づかれた孝に「まだ寝ているから、静かにしてあげてな」と言われ、こくりと頷いた。 ……父さん、休みの日でも早起きなのに。不安が膨らみ、ゆっくりドアを開けると文崇は布団にくるまって眠っていた。こっそり近づくと寝息が聞こえる。 ……よかった……生きてる……まだ熱がありそうで、ゼェゼェと苦しそうだった。……父さん、こんなになるまで抱え込んでいたんだ……俺がちゃんと気づけばよかった…… 「……ごめん……父さん」 ぽつりと呟いて手を握った。すると、もぞりと布団が動きくるりと文崇がこちらを向いた。 「……ん……り、……つ……?」 「父さん?大丈夫?辛いとこない?ご飯は?お粥食べる?」 薄ら目を開けた文崇は、くしゃりと笑って手を握り返してくれた。 「だいじょーぶ、……だよ、……りつは?……たべた?ごめんなぁ……せっかく、いっしょに……いれるのに……よわくて……」 こんな時でも俺の心配をして、謝る文崇に、律は自分が情けなくて仕方が無い。ぎゅっと強く手を握って、真っ直ぐ見つめた。 「父さんは、弱くなんかない。世界一カッコイイ。大好きだよ」 そう伝えると、聞こえたのか文崇はへにゃりと嬉しそうに笑って、口を開く代わりに律の手を握り返してくれた。力が入らないのか、弱々しく、だけれどしっかりと手を握ってくれた。 「…………俺、強くなるから。父さんを、守るから」 口だけじゃない。本当に、強くなる。由伊に言われたこと全部、図星だと思ったから何も返せなかった。発作しか起こせない自分に嫌気がさす。被害者ヅラして、変わろうとしない自分が嫌だ。俺の中には、母さんと父さんの血が半分ずつ流れている。負けるはずがない。母さんも父さんも強くて、優しい。俺も、二人みたいになれるはずなんだ。なろうとしなかった。戦うだ何だ宣って、結局やらなきゃただの嘘。嘘も、やれば嘘じゃなくなる。決めた。俺は、父さんを守る。そして由伊に、言わなきゃいけないことがある。 ……由伊の事が『好き』だと伝えなきゃならないんだ。 お昼ご飯を食べた後、由伊の声かけで食卓に由伊家と律が集まった。文崇はまだ眠っている。 「皆に報告なんだけど、律くんと律くんのお父さん今日からここに住むことになったから」 「あら!ようやく決心してくれたの⁈嬉しいわぁ」 京子はニコニコして律の手を握ってくれる。 「はい……。あの、重ね重ね親子共々ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げるとご両親は「こちらこそ」と笑って頷いてくれた。 「部屋割りは?どうする?陽貴の部屋がいい?まぁ余り部屋って言っても客間しかないんだけど」 京子の言葉に由伊が答えた。 「律くんは俺の部屋でいいんじゃない?客間は宮村さんが使ったほうが仕事して帰ってきてゆっくりできるんじゃないかな」 その案に律も遠慮がちに「そ、そうだとありがたいです。俺、眠れれば屋根裏とか押し入れとかで平気なので」と言うと、ご両親はケラケラ笑った。 「じゃあ、律くんは陽貴と同じ部屋ね」 人の家にお世話になるだけで精一杯なんだ。寝られる場所があるだけでありがたい。律は京子のセリフに頷いた。 「ねぇ」 ぴしりとイラついた声がし、ドキリと動悸がした。 「あたしたちには何の許可もないわけ」 真が怒って由伊を見ている。その様子に由伊も無表情のまま「なんの許可?結局こうするしかないんだから許可出してくれなそうな相手にわざわざ言わないでしょ」と冷たく言い放つ。 由伊、家族にも冷たくなってる……。俺が怒らせちゃったからだよな……。嫌いな相手のために部屋に、家においてくれるだけで申し訳ないのに、俺は口に出せない。気に食わないからって締め出されても、仕方がないんだ。 「あのさ、そういう言い方はなくね。真は一言言えよって言ってるだけだろ。出ていけって言ったわけじゃない」 寛貴が由伊に厳しい目を向けた。京子と孝は黙ったまま子供達の話を聞いていた。 「追い出してもかまわないけど」 「真」 真のセリフに孝はようやく口を出した。 「とにかく、決まったことだから。安全になるまでここに居てもらう。何かあってからじゃ遅いだろ」 「……はぁ、うざ」 ガタンと音を立てて自分の部屋に行ってしまう真。 「ごめんなさいね、律くん。あなたは悪くないのよ。あの子反抗期だから……」 京子に申し訳なく謝られ、律は必死に首を横に振った。 「……いや、俺が悪いんです!……俺が強くなればいい話なので……。真ちゃんの気持ちは最もだと俺も思います。……自分の安心できるはずだった場所を赤の他人に踏み荒らされたら、ふざけんなって思いますよね……」 そう答えて笑うと、由伊の両親は吃驚した顔をして律を見た。 「……律くん、なんかあった?」 「へ」 いきなり京子に確信をつかれて律は流石にびっくりする。何かあったって、お宅の息子さんに嫌われました、なんて言えるわけない。 「……何もないです……。どうしてですか?」 そう聞くと、両親は顔を見合わせて言った。 「あなた……、そんなにハッキリ自分の気持ちを伝えられていたかしら……。あと、私たちと目合わせてくれるようになったのね」 そういうのってこんな早く気づかれるものなんだ……。正直、未だに皆と話すのに慣れたわけではない。今だって手汗が尋常じゃないし、心臓だってバクバクしているし目は常にそらしたくてたまない。けど、それを繰り返していたら何も変わらないんだ。目を覚ました父さんが安心できるように、由伊に変わった姿を見てもらえるように。全ては大切な人のために決めたこと。変わらなきゃいけないから。 「自分も、向き合いたいと思ったんです。人と……」 明確に言えるわけではないけど、こうやってまず身近な大人から慣れていこう。怖くてたまらない。逃げ出したくてたまらない。でもそれじゃだめだから。強くならなきゃいけないから。 「そうなの……。無理、しなくていいんだからね」 京子の顔はあまり嬉しそうではなく、律は不思議に思うけれど気にせず笑顔を作り「はい」と答えた。大丈夫。強くなるんだから、大丈夫。これ以上、優しくしてくれる人に甘えるな。人は一人で生きていけないのかもしれないけれど、一人で生きていける力は必要なんだ守ってもらうだけじゃだめだから。あの後、由伊たちと談笑をしてお夕飯を食べた。今はお風呂を借りて脱衣所で体を拭いている。左手首はまだ傷がふさがらなくてしみるけど、服を着て由伊にもらった救急セットを使って、自分で巻いた。「それくらいやってあげる」と由伊に言われたけれど、「自分でやりたい」と無理に言うと変な顔をしつつも黙って渡してくれた。やっと一人になった安堵感でつい、ため息を吐いてしゃがみ込んだ。 「……疲れた」 ぽそりと落としてしまった言葉を必死で拾い上げるように、息を再び吸い込み止める。 なに弱音吐いてんだ。まだ一日目だぞ。これから先は長いんだ。由伊は俺をここに置いておくのは俺たちが安全だと認識できるまで、と言っていた。けれど、そんな不確定にずっといられるわけがない。安全を確かめるまで……『あの人』が動きだす前に、こちらから動かないと。弱っている時間はない。もしかしたら、今から俺がやろうとしていることは由伊と一生居られなくなることなのかもしれない。もしかしたら、父さんともう会えなくなるのかもしれない。それでもいい。それで、好きな人に迷惑が掛からず、父さんが無理をせず、安心して過ごせるようになれるのなら俺は恐怖半分嬉しさも半分なんだ。 「わ!まだ入って……って出てるならさっさと部屋行ってよ!」 ずかずか入ってきた真に怒られ律はハッと立ち上がり笑顔を作る。 「……何急に笑いだしてんの?きも」 ……こう、思春期の女の子ってなんでこう殺傷能力が高いのだろうか。 ずきりと胸の痛みを認識しながらも、なんとか苦笑し「ごめんね」と謝れた。今までだったら、俯いて逃げてトイレで戻していたくらいなのに今の律はそこまでではなかった。なんでだろう人からの敵意は今だって怖いと思うのに、あの時ほど心が動揺しなくなった。……由伊に嫌いと言われた以上に、怖いものが俺にはなかったのかもしれない。いつの間にか一番恐れていたことが起きて、酷く心が揺れて、そしたら他人への恐怖なんかちっぽけだったんだなって思った。だから由伊の両親とも話せた。目も合わせられた。由伊はすごいな。俺にいろんなことを教えて気づかせてくれる。 「……あたしはあんたのこと、大っ嫌いだから」 真にハッキリと告げられ、その冷たい表情があの時の由伊と重なって、律は思わず目頭が熱くなる。けれど、笑った。 笑えた。 「うん、ごめんね」 好きな人に嫌われて笑えるようになるなんて、なんて皮肉な話なのだろう。 どうせ笑えるのなら、好きな人と、大切な人と、笑いあいたかった。 朝、早くに目を覚ました。隣で相変わらず律に背を向けて眠る由伊を見つめて小声で声をかけた。 「……おはよ」 時々、キスしてしまいたくなるけど、もしその瞬間起きたらと考えるともっと嫌われそうなので今はやめた。ゆっくり布団から出て服に着替え、そっと玄関を出る由伊の家に来て早三日が経った。明日はいよいよ大晦日。文崇は年末一杯まで仕事の休みを取ったようで、ようやく昨日熱が下がり起きてみんなと話していた。文崇は、寛貴にも真にも好かれていて、みんなと楽しそうに話している。相変わらず文崇はサングラスとマスクをしてくれている。「もう大丈夫だよ」と伝えようとしたんだけど、何故か孝に止められ「そのことはまだ話題にしないほうがいい」と言われた。もしかしたら、また病み上がりだからかもしれないと律もその話をするのはやめた。冷え込む外を一人で歩きながら、はぁ、と息を吐く。白い息で遊んでいると、自分の家に着いた。 「ただいまー」 なんとなく、母に聞かせるつもりで毎回帰るたびに声はかけている。玄関を開けて靴を脱ぐのに下に目をやると、知らない靴がある。 ……一瞬で分かった。どくどくと嫌な鼓動が鳴り、汗が噴き出してくる。律はゆっくり、お香の香りがする仏間に向かった。俺は昨日の朝っきり線香は上げに来ていない。 今、この香りが強くするってことは……、 「……おう、すけ……さん」 ぽそりと呟くと、仏壇に手を合わせ、目をつむっていた男は律を振り返ってにっこり笑った。 「律!」 立ち上がり、ぎゅっと抱きしめられた。 「……っ」 ああ、あの嫌いなにおいだ。心臓がおかしくなりそうなくらい悲鳴をあげていた。こんな早まるなんて、思わなかった。 「久しぶりだねぇ、元気だったかぁ?随分大きくなって……ああ、段々フミくんに似てきたねぇ」 にこにこと気味悪い笑みを浮かべて笑う、文崇の双子の兄……央祐さん。 俺を誘拐監禁強姦した、犯人。 「あれ?俺の調べだと、律はPTSDがひどくて人と関われなくなってるはずだったんだけど、知らない人のにおいがするなぁ。っていうか、案外取り乱したりしないんだねぇ。びっくり」 ぺらぺらと好き勝手喋っている。 「なんでここにいるんですか」 「やだなぁ、なんで敬語~?昔はおうくんって呼んでくれてたじゃん」 「いいから答えて」 冷たく言い放つと、央祐さんはスッと目を細めて律の胸倉を掴んだ。 「フミくん、どこへやったの。ここ最近、会社も休んでるよねぇ。会社で会えないから家まで来たのにフミくん帰ってこないんだよねぇ。おまけにフミくんの荷物一個もないね。なんで?」 全て漁られていたことに悪寒を感じながらも、目をそらさずに答えた。 「教えない」 ハッキリ告げると央祐さんの表情がみるみる険しくなり、ダンッと床にたたきつけられた。 「い……‼」 息が吸えなくなり、目に涙が浮かぶ。 「ああいいねぇ、その顔懐かしいなあ。なあまた気持ちいこと、しようかぁ」 ニタニタと気持ちの悪い顔で頬を撫でられ、ぞわぞわと鳥肌が立つ。 「成長した律は、フミくんにそっくりでかわいいねぇ。声も変わったんだねぇ。高校生のフミくんにそっくり」 フミくん、フミくんって相変わらずド変態だ。 「あの時もそうやって、怖くて怖くて逃げだしたくて堪らないのに、フミくんの名前出したらそうやって睨み上げて大人しくなったよねぇ。そんなにパパが大事?」 「……ヤるならヤれよ」 答えずにそういうと、央祐はスンッとつまらなそうな顔をして離れた。 「俺、そういうの好きじゃないんだよなぁ。怖くて逃げ惑うあの顔が好きだったのに、なんで変わっちゃったの?もしかしてビッチになっちゃった?」 呆れたように言われ、律は何も答えずににらみ続けた。 「で、フミくんは?どこ?」 また話題が戻ってしまう。 でも教えるわけにはいかない。どうしよう…… 「由伊 陽貴くんてイケメンだよねぇ」 「……は?」 想いもよらぬ名前が飛び出してきて、律はびくりと体を震わした。 なんで、なんでこの人が由伊を知ってるんだ。 「今はなぁんでも調べられちゃうよねぇ。金さえ積めばなぁんでも」 やばい、このままじゃ由伊の家族まで何をされるか分からない。どくどくと一層激しくなる、鼓動が激しくなるのと比例して呼吸も浅くなっていく。 「ぁ……っ」 「お、いいねぇ。ハハッ、顔真っ青。吐く?吐く?」 楽しそうに覗き込まれて思わず央祐を蹴り飛ばした。けど、威力なんてたかが知れており、いとも簡単に足をつかまれてしまう。 「なぁに?死にたいの?」 不思議そうな顔で言われて、ぞくりと体が震える。手も震えが止まらない。 でも、ここで逃げたらこいつは父さんに会いに行ってしまう。それと同時に、由伊の家族にまで手を出されてしまう。駄目だ。皆の顔が頭に浮かび、律は深い息を一つ吐いた。 「……父さんに、会ってどうするの」 律の質問に、央祐はにったり笑って、「えぇ?」と頬を赤く染めた。 「シたいことなんていっぱいあるよ?何年閉じ込められていたと思ってんの?会えなかった分、たぁくさん愛をそそぎたいなぁ。あの時はフミくんにしたいことを手っ取り早く子供相手にヤッたけど、俺別にそういう性癖じゃないからさぁ。まあ律はフミくんに似てるし、この薄くて白い体が半分フミくんで出来ていると思ったら、ちょーっと激しくヤっちゃったけどねぇ」 あの日の光景が断片的に脳内に流れる。 どくりと心臓が大きく鳴り、反射的にばしゃりと嘔吐してしまった。 「う゛ぇっ、ゲホッお゛ぇ」 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い 逃げたい 不意に前髪を掴まれ、無理やり上を向かされた。 「その顔、だぁいすき」 「……っん」 くちゅりと、舌が入ってきてズボンの中に手を入れられ、律のモノを撫でられる。ゆすいでいない口を、嘔吐物を味わうかのように隅々まで舐めまわし吸われた。ぢゅっと舌を強く吸われると、びくびくっと腰が震え涙の膜が張る。段々自分の先端が濡れていくのを感じ、央祐が手を動かすたびにくちゅくちゅと水音が聞こえ始める。 「んっ……っ、ふ、」 咥内をかき混ぜられ、亀頭を攻められ呆気なく普段自慰をしない律は吐精した。 「ふふ、濃いねぇ。抜いてないんだぁ?」 自分の精液がついたてを無理やり口に入れられ、舐めさせられる。吐き出したいし、抗議したいのに射精で体力が奪われ目で訴えることしかできない。 「相変わらず体力ないねぇ。鍛えなきゃだめよ~」 「ん゛んっ」 喉の奥に指を突っ込まれ、苦しくてもがく。胃液が吐き出しているのに仰向けにされているせいで、戻ってきてしまう。息ができない 「ん゛ぇッ、お゛ぇ」 胃がひっくり返りそうなくらい気持ちが悪い。ぽたぽたと涙があふれ、嗚咽する。ゆっくり指を引き抜かれ、思い切り胃液を吐き出した。あまりの苦しさに、倒れこみひゅうひゅうと喘息になった。 「あー、まだ治ってないんだぁ。かわいいねぇ」 ちゅう、と額に吸い付かれる。 もう嫌だ、逃げたい。逃げ出したい。怖い、ここにいたくない。由伊に会いたい。守られたい。抱きしめほしい、大丈夫、て言ってほしい。苦しい。 「ねぇ律。一個、俺と約束してくれたらフミくんにも由伊って子にも手出さないであげるよ」 思わぬセリフに、律はゆっくり顔を上げる。 「俺、律の事、フミくんの次に大好きだからさ。律が、一生俺のものになるって約束して皆と縁を切ったら、もう他の人間なんて目に入れないよ。一生律だけ見ていてあげる」 それはやっぱり、自分はもう由伊にも父さんにも会えないってことなんだよな。 分かってはいた。むしろ、こうなるように仕向けようとしていたのは自分の方だ。けどもう少し、先になるはずだった。だから時間をかけて、由伊や父さんに変わった姿見せて恩返しして、好きだって伝えて、それで、……。そうしてから、居なくなろうと思っていた。念のため、父さんの私物は全部由伊の家に置かせてもらってよかった。 あーあ。全部パーだなぁ。でも俺には、こう答えるしかできない。 「……わかった」 この台詞しか言えるわけないじゃないか。 「聞き分けがよくて好きだなぁ」 ちゅ、触れるだけのキスをされ律は「でも」と続けた。 「……俺も、一生央祐さんだけを見るから……だから、少し時間が欲しい。……今年だけ、皆にちゃんとご挨拶……したい。……必ず、央祐さんのところに、もどるから……お願い……」 央祐の手を握り、見上げた。 せめて今年だけは。 そのあとはもうなんでもいい。 そうだ、この人と死んでしまえばいい。 そうすれば、俺もこの人も約束は守られるし、父さんも由伊たちも苦しまない。 ちゃんとありがとう、を伝えたい。 「ちゃんと戻ってくる?」 央祐さんは小さな子供ような目で律を見た。 「うん。だから、待っててほしい」 しっかり見つめ返して伝えると、央祐は瞳から光をなくし律に顔を近づけた。 「……戻ってこなかったら全員殺してもいいの?お前も」 ああ、逃げられない。逃げ場所を、つぶされてしまう。 「……俺だけにして。俺だけが、アナタに殺されたい。そうすれば俺は一生あなただけのものだ」 なんとなくわかってるんだ。央祐が望む言葉は。 昔、父さんと央祐さんが『愛しあっていた』ころに、父さんから言われたかったことを言えばいい。この人はずっと囚われている。昔の己と、歪んだ愛に飲み込まれた……哀しい人。 「うん。律だけ」 にっこり安心したように笑う央祐に、律もにっこり笑った。 「ありがとう」 世が皮肉で堪らない。どうしようもなく、時の流れは残酷で救われない。どうせ終わる日常に、憧れも期待も捨てよう。俺の運命の赤い糸は、由伊と繋がっていたかった。 どうせ死ぬのなら、由伊に殺されたかったな。 央祐と約束をした律は二人で明後日また、ここで会うと決め央祐を先に帰した。 律は嘔吐物を片し、自分も臭うので仕方なくシャワーを浴びた。ああ、やめようと思っていたのに。いつの間にか捨て忘れていた、剃刀を手にもってもう切り付けていた。手当がしてある手首を見て、ぼろぼろ涙が溢れてくる。こんなんなら、あの時甘えて巻いてもらえばよかった。自分で巻いたんだと思うとどうでもよくなってしまうじゃないか。由伊の冷たい顔が脳裏にちらつきしゃがみ込む。冷水が体を末端から冷やしていく。 「なんで嫌われたんだよ……」 精一杯気を張って頑張ればよかった。甘えなければよかった。……一番傍に居てほしい時だけ、寄りかかれば良かった。どうして今由伊はいないの。 ……お前が自分のことしか考えていなかったからだよ。由伊のことをないがしろにした。 こんな俺を好きだと言ってくれたのに。俺は……、泣くな。泣いちゃだめだ。強くなるって決めたろ。後悔しても遅いんだよ。もう由伊は俺なんか好きじゃない。俺は一人にならなきゃいけない。大丈夫。死ぬのなんて、由伊に嫌われるより全然怖くないんだ。由伊、好きだよ。 冷水を浴びていると、ピンポンと音が鳴り驚いた。え?なんで?誰?由伊の家を出てきてから二、三時間は経っただろうか。とっくにかえっていなきゃいけない時間だから、誰か来てくれてしまったのだろうか。慌てて水を止め、体を拭く。その間もチャイムは鳴り続けどんどん激しくなる。急いで服を着て、思わず焦りで確認もせず玄関を開けてしまった。 「っえ、……由伊⁈」 会いたいと思っていた人が目の前に立って律を見て、咄嗟に険しい顔をした。 「っんで、ここにいんだよ」 怒りがこもった声色で言われ、びくっと体が震えた。 「え、えと毎朝ここ来て……母さんに線香あげてる……から」 恐る恐る言うと、由伊はさらに顔を怖くさせる。 「それだけで三時間もかかるかよ。今まですぐ帰ってきていただろうが」 すっかり口調が荒い由伊はまだイライラしている。え、てか俺が起きてたの知ってたの⁈き、キスとかしなくてよかったぁ‼ちょっと邪なことを考えていた自分に恥ずかしさを感じ、頬が熱くなる。 「なに赤くなってんの。ってか、なんで風呂?誰かと会っていたわけ」 「……っ」 グイっと肩を掴まれ思わず顔を歪ませた。 「っこれは、歩いて……汗かいたから」 ぐっと力を込められ骨が軋む。 「い、いたい……由伊」 そう伝えると、由伊はハッとした顔をして肩から手を離してくれた。咄嗟に目をそらされ、なんとなく覗き込むと、どことなく顔色が優れない様子だった。 「由伊、大丈夫?体調悪い?休んでく?」 心配になり声をかけると、由伊は複雑そうな表情をして「帰るよ」とだけ言った。 「え、う、うん」 由伊の気持ちがよくわからないが、とりあえず今会えたことに嬉しさを感じ急いで荷物をまとめた。まあ、今年までの荷物だけど。待っていてくれるわけないかな、なんて思ったけど由伊はわざわざ外で待っててくれていた。 「お待たせ、ごめんね」 「別に」 もう態度が今までと全く違う。二人きりだと笑いかけてすらくれなくなった。そんな由伊の変化に気づく度、嫌われたのだと強く実感する。 「由伊、助けてくれてありがとね」 速足で歩く由伊になんとか着いていきながら、話しかけた。残り一日しかいられないのなら、少しの時間も無駄にしたくない。……また傷をつけてしまうところだった、キミが来てくれなければ。そう思って話しかけると、愛想はないけど「なにが」とぶっきらぼうな返事が返ってくる。 「ふふ、ううん。なんでもない」 「なんで笑うの」 不機嫌そうな由伊の声に律はまた思わず「ふふ」と笑ってしまった。 「ううん。ただ、こうやって二人で外歩くの久々な気がして嬉しいなぁって思っただけ」 そういうと、由伊はぴたりと立ち止まる。不思議に思い、「由伊?」と声をかけると由伊はパッと顔を上げた。 「俺は、律くんが嫌いなんだよ」 改めてそう言われ、律はぱちくりと目を丸くする。拒絶の言葉を自ら吐く由伊が、酷く苦しそうに見えた。 「……うん。知ってる」 力なく笑って返すと、由伊はキッと表情を険しくして「なんだよ!」と怒鳴った。 「え?」 吃驚して由伊を見ると、由伊は怒った顔で俺に詰め寄った。 「なんで俺が嫌いになった後に、そうやって笑うようになったの?なんで?なんで親父たちとも普通に話せるようになったの。なんで、一人で外に出られるようになったの、……なんで俺といたときは、俺に笑いかけてくれなかったの」 思わぬ言葉たちには驚いて固まる。 え?俺、由伊といたとき笑っていたと思う……っていうか、安心して馬鹿みたいにへらへらした気がするのになんで由伊はこんなに怒ってるの。 「そんなに俺のこと好きじゃなかったんだ」 「っはぁ⁈なんでそうなるんだよ、俺は……っ」 「俺は、なんだよ」 続けようとした言葉は、声には乗ってこなかった。……こんなやけくそでなんか言いたくなかった。あと一日しかないのだから、もう少し自分の気持ちをしっかり伝えたい。そう思ったら、中途半端に終わってしまう。 「……ただの友達止まりなんだろ」 諦めたように言われ、何も反論できない。確実に違うのに、ここで伝える気がないのなら何も言えることなんてない。その代わり、後でゆっくり伝えよう。 「……あとで……今じゃなくて、その時が来たら絶対話すから……今は、待ってて……ほしい」 それだけを絞り出すように伝えると、由伊は「はぁ」と深いため息を吐いた。 「またステイ、ね。別にいいんだよ。無理に言わなくて。もう何も、期待してないから」 スタスタと歩き始めてしまった由伊の背中を見つめ、歩かなきゃ、と思った。 思ったのに、一歩が踏み出せなかった。今は並んで歩けない。今動いたら、涙がこぼれてしまう。それくらい、心が痛かった。嫌われているのは理解している。もうわかった。期待もされていない。あんな冷たい由伊の瞳は、痛い、苦しい。本当に嫌われて、期待されていなくて、……改めて認識してしまうと胸が悲鳴をあげるくらい、痛くて痛くてたまらなかった。 「……だいじょうぶ」 もう由伊の姿はないけれど、追いかけるために足を踏み出した。 大丈夫。泣くな、泣くな、泣くな。今はまだ、泣くときじゃない。涙を見せるな、男だろ。

ともだちにシェアしよう!