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第8話 新しい表情

「社長、私、そろそろ失礼させていただきます」  母親が夕食もぜひ一緒にと誘ったが、咲は丁寧に誘いを断ると、ほっそりとした手首に絡まった腕時計に視線を投じ、いとまを告げる。 「ああ、じゃ送ってくよ」 「また遊びに来てね、志水くん。絶対よ」 「また将棋を指そうな、咲くん」  名残を惜しむ両親に見送られ、玄関を出ると、外は雨が降っていた。 「今日は降らないかと思ったけど、天気予報当たったな。……まだまだ梅雨、明けそうにないな」 「…………」  どんよりと厚い雲に覆われた空を見上げながら、咲に話しかけたが返事がない。  訝しく思って咲の方を見れば、向かいの家に植えられた花をジッと見つめている。  それは、来たときには気づかなかったアジサイの花だった。  紫色のアジサイが降り出した雨に濡れて生き生きとしている。 「志水? どうした?」  再び声を掛けると、咲は我に返ったようにハッとなった。 「あ、いえ。なんでもありません」 「アジサイ、好きなの?」  俺の問いかけに、咲の深く澄んだ瞳が揺れ、目を伏せる。 「志水?」 「……花には興味はありません」  目を伏せたまま、軽く唇を噛みしめ、どこか苦しげにも聞こえる声で咲は答える。  無表情でも、作り笑顔でもない、咲の憂い顔を俺はこのとき初めて見たのだった。  しかし、それはごく僅かなあいだのことで、車に乗り込むときには咲はもういつもの無表情に戻っていた。 「……志水」  俺がハンドルを握りながら話しかけると、 「はい?」  見慣れた作り笑顔で咲は応じる。  なぜか胃の辺りがモヤモヤし、モヤモヤの正体が分からないままに俺は言葉を放っていた。 「俺の部屋へ寄って行かないか?」 「社長の、ですか?」 「ああ」  自分でもどうして咲を招いたのか分からない。  俺にとって自宅は唯一気兼ねなくくつろげる場所で、今まで他人を……それが恋愛関係にあった女性であっても、招き入れたことなどなかった。  ただ、今夜はまだ咲と離れたくなくて。  もっともっと咲のことが知りたくて。 「私なんかがお邪魔しても、よろしいんですか?」  なのに、咲の方はどこまでも他人行儀で。  そんな咲の態度に少し苛つき、苛ついた自分自身を俺は持て余した。

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