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第17話 その男
俺には聞き覚えのない声だったが、咲は知っているのか体をビクッと震わせる。
だが決して声のした方を振り返ろうとはしない。
思わず振り返ったのは俺の方だった。
声の主は四十過ぎくらいの男性で、隣にまだ幼さが面立ちに残る二十歳そこそこの女性を連れている。
俺にはその二人のカップルが誰なのかすぐに分かったが、咲は頑なに二人の方を……より正しく言えば男の方を見ない。
「……お兄ちゃん」
咲と少しだけ似ている女性の方がおずおずと声を掛ける。
そのときになってようやく咲は二人の方を見て、会釈をした。
「……桜(さくら)、元気だったか?」
咲の問いかけは妹に対してのもので、無表情の中に少しだけ柔らかな色が浮かび、言葉遣いもくだけたものになる。
「お兄ちゃんこそ、元気してるの? パパもママも口に出さないけど、お兄ちゃんのことすごく心配してるよ?」
「大丈夫、ちゃんとやってるから」
お互いを心配しあう兄妹からは諍いの空気は感じられない。
だが、その二人に割って入った男性の声に咲は体をびくつかせ、みるみるうちに表情が強張っていく。
「聞いたよ。咲。今はそこにいる椎名社長の秘書をしているんだって? 悪いこと言わないからうちへ戻って来い。おまえほどの能力、むざむざとよそにやるのは惜しいし」
「……そのつもりはありません」
咲の顔は今は苦し気に歪み、顔は色を失い真っ白になっている。
俺は咲を守るようにその男の前に立つと、これ以上はないくらい愛想のいい笑顔で言ってやった。
「失礼。椎名グループの代表取締役社長、椎名和希です。咲くんは私の秘書として、もはやかかせない人材ですので、変なふうにそそのかさないでもらえませんか」
男はしばし呆気にとられたように俺の方を見ていたが、やがてその整った顔立ちにニヤリとした不敵な笑みを浮かべた。
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