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第29話 アジサイの花言葉

 咲は何回かの逡巡のあと、口を開いた。 「私が十八歳のとき、今と同じ梅雨の頃でした。彼が私の妹と付き合うことになったと言ってきました」  微かに震える咲の声は、そのとき受けたショックの大きさを表しているようだった。 「おまえと妹さんって幾つ違うんだっけ?」  パーティ会場で見た、咲の妹の顔がぼんやりと思い出される。 「二つ違いです。だから私が十八のときでしたから、妹は十六ですね。もうプロポーズも済ませ、両親にも話をしたと言われました」 「プロポーズって、まだ十六の相手に?」 「…………妹のお腹には彼の子がいましたから」  俺は絶句してしまった。  そのときの咲の心情を思うとやり切れない。 「……それで、おまえはどうしたんだ?」 「もう私の出る幕はありません。それに妹とのことがきっかけで、彼は志水の会社に勤めることが決まりましたし……。もともと私は両親の跡を継ぐ気はありませんでしたから、今から思うとちょうど良かったのかもしれません」  笑みを形作る唇が微かに震えている。  完璧な作り笑顔が得意なやつなのに、それすらも崩れ落ちるほど、咲はあの男に傷つけられ、そして本気であの男に恋をしていた。  残酷だと思った。  十五歳から十八歳、多感な時期の咲を健志郎は自分の腕の中に囲い、優しく甘い言葉を囁き、何度も愛して。  咲が健志郎しか見えなくなってしまったとき、突然一方的に別れを告げる。  それも咲の妹とできてしまったという理由で。  少なくとも咲は健志郎に裏切られるまでは、今みたいに無表情でもなく、作り笑顔が上手くなんてなかったのだろう。 「咲、おまえはまだあの男のことが好きなのか?」  咲の答など本当は分かっていた。パーティ会場で見せた動揺や、色を失った顔、小さく震える体。  それらがなにより顕著に咲の気持ちを表していたから。  それでも、俺は聞かずにいられなかった……自分の心が深く傷つき、嫉妬の念に苦しむことが分かっていても。  咲が腕の中で目を伏せたまま言葉を返して来る。 「社長、紫のアジサイの花言葉って知っていますか?」 「……え?」 「紫のアジサイの花言葉は『移り気』と『変節』。私が彼から妹とのことを聞かされたとき、窓から紫のアジサイが雨に濡れているのが一面に見えて……、その光景が忘れられなくて。私は梅雨もアジサイの花も苦手になってしまったんです」 「……咲……」  それが俺の問いかけへの咲なりの答えだと気づかされた。

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