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第3話
「――つまり、楓さんは逃げ出したわけですね?」
神崎は式場で出会った青年を連れ、新妻と新婚生活を営むために用意されたマンションへと場所を移動した。
最新式の設備を備え、インテリアにも贅を凝らした広々とした新居は、快適な生活を新婚夫婦に約束してくれているはずだった。
神崎の為に誂えられた部屋は、シンプルで落ち着いたデザイン。持ち帰って仕事をしろという思し召しなのか、大きなマホガニーのデスクがドカリと置かれたプライベートルームというよりも、書斎という体裁だった。
いかにも女の子らしい柔らかいカラーで整えられた花嫁の為の部屋にはライティングデスクが置かれていた。高校を卒業したばかりだと聞いていたが、花嫁が現役女子大生だと知ったのはつい先日のことだ。
そして、大きなベッドが据えられた主寝室は、ふたりの部屋の間にある。
だが今、神崎はそのどの部屋でもなく、いかにもな感じの家具やカーテンで飾られたリビングで青年とふたり角突きあわせて座っていた。
青年は、雨宮柊 ――雨宮楓の兄だ、と名乗った。
「あなたが花嫁とは、どういうことですか?」
式場の雨宮家控え室で、自ら花嫁と名乗り、嫌々と眉を顰める青年にそう問いかけた。
しかし彼は、とにかく家まで連れて行ってくれ、としか答えなかった。
「家って、私と楓さんの新居ですか?」
「そうだ」
彼は仏頂面で怒ったような声を絞り出した。あからさまに不機嫌。
不機嫌な原因は自分にあるのだろうか。またも首を傾げる神崎に向かい、
「家に着いたら、ゆっくり説明してやるから」
そう言ったきり、柊は黙りこくってしまい、ふたりは無言のまま新居までやって来たのである。
造りのいいソファに向かい合わせで腰を下ろし、漸く口を開いた彼が発した言葉は、
「妹はアンタとの結婚をすっぽかしたんだ」
だった。
「――いったい私…俺のどこが気に入らないっていう、」
「置手紙」
言葉を遮られ、ぽいっとローテーブルの上に投げ出された紙切れ。
水色の花柄便箋には少し癖のある文字が並んでいた。
お父さん、おにいちゃん へ
ごめんなさい。
私はどう考えても、あんなオジサンと結婚はできません。
今の時代、家の為に娘が犠牲になるなんておかしい話だと思います。
今はまだ現れていないけど、心から私のことを愛してくれて、私も心から愛せるような男性が現れると信じています。
なので、あのオジサンと結婚しません。
色々と迷惑をかけてごめんなさい。
このまま家にいるわけにもいかないので、出ていきます。
探さないでください。
楓
「………オジサン……」
いまだかつて言われたことのない、中傷するごとき単語と意表をつくその置手紙の内容に、神崎は読み終わったなり固まった。
柊は少々痛ましげな視線を神崎に向かって投げた。
「それを見つけたのが今朝だった。当日いきなり結婚式を中止にはできない。両家のメンツもあるし。もう籍は入れてあるし…とりあえず今日一日なんとか凌いで、それからまあ、なんとか解決策を、」
「解決策なんて、そんなものがあるんですか?」
柊を遮るように、ややキツめに言い捨てた。神崎の言葉がキツくなるのも無理はない。
入籍を済ませ、会社の再生プロジェクトは既に動き始めている。神崎の名をフルに使い多方面に根回しして、業務提携だって取り付けた。
あとには引き下がれない状態なのだ。
やらずボッタクリといえばいいのか、新婚初夜を前に妻に家出されても、おいそれと『離婚』もできない。
泣き寝入るしか今のところない。
「どうりで…朝からお義父さんと顔を合わせることがなかったはずだ」
会話のひとつも交わさなかった。招待客が多いからすれ違いになっているのだとばかり思っていた。
おそらく必死で自分を避けていたに違いない。
神崎は脱力してソファの背にぐったりと身体を預けた。
「謎はすべて解けた、って気分だ」
「……申し訳ない」
それまでつっけんどんだっ僅かに歪んだ。
「妹はまだ子供で、世間知らずだから…本当に申し訳ないと思っている」
「あなたに謝っていただくことでもないでしょう」
神崎は苦笑した。
誰を責めても詮方ない。
自分が若い花嫁に抵抗を感じていた以上に、先方ははるか年上のオジサンが花婿だなどと、許しがたいことだったのだろう。
相手を『まだ子供』と思いながら、そこまで慮ってやることのできなかった自分も浅はかだったのだ。
「で、どうしてあなたが花嫁なんです?」
なんだか開き直った気分で、神崎はそう尋ねた。柊はむっとしたように唇を尖らせる。
「どうしてって…今日、ずっとアンタの隣にいたのオレだぜ」
そう言われてみれば、と神崎は数時間前の記憶を手繰り寄せる。
突然ヘアスタイルを変えたり、女性にしては長身だったり、なによりもやけに薄い身体。
どうしておかしいと思わなかったのか。
最近は身長の高い女性も多い、髪だって勝手に都合よく解釈してしまっていたし、肉が付きにくい体質の子もいる。いかにも恥かしげにしているからあまり見てはいけないように思っていたので、それ以上突っ込んでは考えてみなかった。
花婿花嫁よりも宴会に夢中で、賑々しい招待客たちは誰一人気がついているようには見えなかった。
一概に神崎だけが間抜けというわけでもない。
そう思った途端、
「あんだけ近くにいて男だって気がつかないなんて…アンタも結構抜けてるな」
「……それは、失礼」
喧嘩を売っているのか。
神崎は内心憮然とし、僅かばかり眉を顰めた。
「……で、あなたは妹さんの身代わりに花嫁を勤めたと。柊さん――お疲れ様でした。事情はわかりましたからお帰りになって結構ですよ。楓さんが戻られるかどうか、暫くの間は様子を見させていただきますので」
当分は忙しいので新婚旅行は後回し。明後日から出社の手筈になっている。
仕事が軌道に乗るまでは一心不乱に働いて。きりのいいところになっても楓が家を出たままなら、その時にはなにかしら手を打たねばなるまい。
そんな段取りを頭の中で組んでいると、
「おまえの妻は戸籍上は楓だけど、今日『夫婦の誓い』を一緒にした相手はオレなんだ」
「……そういうことに、なりますかね」
押し付けがましい青年の口調が気に障り、神崎は他人ごとみたいに呟く。
柊はきゅっと口角を引き締めた。
「楓が、この家でやるはずだったこと、オレが代わりにするから」
またもや神崎の理解の範疇を超えた言葉が発せられた。
「はぁ!?楓さんの、代わり?」
「そうだ」
自分を奮い立たせるみたいにひとつ頷いて、柊は神崎を見上げた。
「その、さ…色々としなくちゃいけないことがあるだろ。妻なんだから」
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